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「肉の思い、霊の思い」

1998年10月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ8・5‐11

 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められるこ とはありません。」この重大な宣言をもって8章は書き始められました。律法 そのものは、私たちの罪を取り除き、断罪と滅びから救うことはできませんで した。しかし、神は律法の為し得なかったことを為してくださったのです。神 は御子をお遣わしになりました。そして、御子を十字架にかけて断罪されたの です。キリストは「罪に支配された人間」として断罪されたのではありません。 そうではなくて、キリストの肉において、人間を支配している罪そのものが処 断されたのです。罪そのものが処分されたのは、罪人が赦され、生かされるた めでありました。それゆえ「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定め られることはない」のです。神がこのことを為し給うた目的は4節に記されて おります。「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要 求が満たされるためでした。」律法そのものは無くなったのでも、廃棄された のでもありません。律法の要求は生きています。しかし、もはや私たちが律法 の要求を満たして、正しい者となり、命に至るのではありません。ここで「満 たされるためでした」と受身で書かれていることは重要です。私たちが「満た す」のではなく、神が満たし給うのです。私たちが考えるべきことは、もはや どのようにして律法の義の要求を満たすかではありません。どのようにして正 しい人間になるか、ではありません。大切なことは「肉に従ってではなく霊に 従って歩むわたしたち」であることです。私たちは霊に従って歩むのです。律 法の要求を満たし給うのは神御自身です。それゆえ、パウロは5節以下におい て、満たされるべき律法の要求についてではなく、「肉に従って歩む者」と 「霊に従って歩む者」について語り始めるのです。私たちが知るべきことは、 そこにあるからです。

肉の支配下にある者

 5節から8節までをお読みいたしましょう。「肉に従って歩む者は、肉に属 することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思い は死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、 神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉 の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。(5‐8節)」  まず、「肉に従って歩む者」について書かれております。「肉に従って歩む 者」というのは、単に肉欲に振り回されて放縦に生きている人のことではあり ません。これは既に7章から明らかであろうと思います。7章においてパウロ は「わたし」という一人称単数の代名詞を用いました。自らの経験を下敷きと して語っております。パウロはいわゆる不道徳な人間ではありませんでした。 恐らく、ここにいる私たちの誰よりも道徳的に真面目に生きてきた人であろう と思うのです。しかし、そのような彼もまた、「肉に従って歩む者」の範疇に 入っていたのです。このことをあえて強調しておくことは、今日の箇所を読む 上でも重要であろうと思います。というのも、我々の語感からすると、「肉に 従って歩む者」という言葉は、どうしても不道徳なだらしない人を連想させる からです。そして、例えば「この国の人々は豊かさの中で堕落して、不道徳と 退廃の中に生きているから救われなくてはならない」という発想になっていき ます。しかし、もしかしたら他の人々を指して「堕落している」と非難してい る人が、一番問題なのかもしれません。そのような人が「肉に従って歩む」典 型的な人であることもあり得るのです。

 パウロはファリサイ派に属するユダヤ人でした。彼にとって宗教とは神の律 法を守って永遠の命に至ることでありました。似たような発想はこの国にも見 られます。ユダヤ教と同一ではありませんが、例えば、ある人は、宗教の中心 は善きことを身につけ、立派に生きることであると考えるでしょう。教会に行 き始めてしらばくした時、家族の方から「お前は教会で何を学んでいるんだ。 やることなすこと、少しも変わっていないじゃないか」と詰られた経験はあり ませんか。(まあ、ないに越したことはないのですが...。)そのような言葉の 背後には、「教会とは何か善い事を学んで善い人間になるところだ」という理 解があるわけです。そして、そのようなことを言う人に限って、「宗教は多い けれど、目標は同じだ」などと言うものです。あるいは、宗教の中心を道徳的 行為としての現れに見るのではなく、精神的な安逸に見る人もいるでしょう。 宗教の中心は「人間の心の持ちようである」と考えるわけです。しかし、心の 持ちようが変えられるならば、何もそれは宗教である必要はないわけです。心 理学的な操作であっても、あるいは趣味のような類であってもよいのです。お いしい物をたらふく食べて、思いを切り替える人もいるでしょう。

 さて、重点を人間の行為におくか人間の精神や心理に置くかの違いはありま すが、これら二つには共通しているものがあります。何でしょうか。それは 「人間の」ということです。行為にせよ精神にせよ人間に属するものが中心で あることに変わりはありません。ですから、どちらにしても人間のことに関心 の中心があります。思いの中心には「わたし」がいるのです。「私の努力」 「私の精進」「私の向上」「私の心の変化」などが中心です。「私はどれだけ 変わっただろうか。」「私はどれだけ立派になったろうか。」「私の心はどれ だけきれいになったか。」そのようなことを言いながら、いつでも自分のほう に関心を向けているのです。

 実は、まさにこれが「肉に従って歩む者は肉に属することを考える」という ことに他なりません。この世に属する人間、アダムの子孫としての人間、それ は肉です。体も精神も、共に肉です。行動も心理的な変化も、皆、肉に属する のです。「肉に属することを考える」ということは、逆に言えば「神に属する こと、霊に属することには関心がない」ということです。神の御業、霊の働き には関心がないということです。

 これに対して、「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とパウ ロは言います。霊に従って歩む者は、こちら側に目を向け続けるのではなく、 あちら側に目を向けます。宗教の中心は人間ではなく神様だからです。霊に従 って歩む者は、神の御業に関心を向けます。神が何をしてくださったか。神が 何をしてくださっているか。神が何をしてくださろうとしているのか。そこに 関心が向けられます。「霊に属することを考える」のです。

 そして、律法の義の要求は、肉に従って歩む者、肉に属することを考える者 において満たされることはないとパウロは言うのです。なぜでしょうか。「肉 の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従 いえないのです。肉の支配下にある者(直訳すると「肉にある者」)は、神に 喜ばれるはずがありません」と彼は言います。これが理由です。

 しかし、これは、ある意味で驚くべき発言ではないでしょうか。義の要求は、 人間が努力し、あるいは心の持ちようを変えて生きることによって満たされる ように思う。こちら側の問題だと考える。正しい人として生きるかどうかは私 次第だと考える。多くの人はそう考えて生きているに違いないのです。「すべ てはあなた次第ですよ」と言われる方が、真実のような気がするものです。例 えば、大きな悩みの中で、自分の罪に気づかされた時、「そうだ。私の問題な んだ。私次第なんだ。がんばらなくては」と、思った経験はありませんか。け れど、パウロはそのような通念をひっくり返すのです。「私次第」ではないの です。そのように考えている人は、神に喜ばれることはできない。いやむしろ 神に敵対しているのだ、と言われているのです。神の御心にかなわないのです。 それは一見律法に従っているように見えても、実は従っていないのです。

 私がここで思い出しますのは、ボンヘッファーがある本の中で、「愛」につ いて書いているくだりです。愛はまさに律法の要求するところでしょう。しか し、彼はこう言うのです。「自然人の愛は、自分のために他者を愛する。霊的 な愛は、キリストのために他者を愛する。」人間の側にしか関心が無いならば、 そのすべての根底にあるのは自分のための欲求です。人間の欲望です。それは 根本的に神のためではないのですから、神に喜ばれるものとなるはずがありま せん。そして、欲望が根底にあるならば、たとえば崇高な愛と見えるものであ っても、自分の欲が満たされないところでは一転して恐るべき憎しみに変わる のです。

 ですから、肉の思いは神との断絶となり、死となるのです。「肉の思いは死 です」とパウロが言うとおりです。それに対して、「霊の思いは命と平和であ ります。」言いかえるならば、どれほど真面目な努力や精進があったとして、 肉の支配しているところには、どうしたって神との交わりである命、そして、 それだけがもたらすことのできる平和・平安はないということなのです。

霊の支配下にある者

 続いて、9節から11節までをお読みしましょう。「神の霊があなたがたの 内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリ ストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがた の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命と なっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがた の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがた の内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてく ださるでしょう。(9‐11節)」

 パウロは、ここでローマの信徒たちに、自分が何者とされているかを思い起 こさせます。これはパウロが既に他の章でもしてきたことです。パウロは既に 洗礼を受けた人々に、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・ イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるため に洗礼を受けたことを(6・3)」と言いました。パウロはまたこうも言って います。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律 法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つま り、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神 に対して実を結ぶようになるためなのです。(7・4)」パウロはここでさら に、キリストと結ばれて、キリストのものとされた者には、神の霊が宿ってい るのだ、ということを語っているのです。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言います。これ は「神の霊が宿っているかもしれないし、宿っていないかもしれない。まあ、 もし宿っているとするならば…」と言っているのではありません。ここはむし ろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉です。神 の霊が宿っているのが分かりますか。実感できますか。まさか見えはしないで しょう。パウロはここで感覚的な根拠を語りません。ただ彼らがキリストに属 する者とされている事実に目を向けます。なぜなら、神の霊はキリストの霊に 他ならず、キリストの霊を持たない者は、キリストに属してはいないはずだか らです。これは別の手紙でパウロが次のように言っているのと同じことです。 「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イ エスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だ れも『イエスは主である』とは言えないのです。(1コリント12・3)」

 確かにパウロが既に語ったように、私たちがこの世に生きる人間である限り 肉の内には罪が宿っています。(7・17‐20)しかし、もはやただ罪が宿 っているだけではありません。神の霊が宿っていてくださるのです。そして、 神の霊が宿っているかぎり、肉ではなく霊の支配下にあるのです。それゆえ、 戦いは継続しているにしても、あたかも孤軍奮闘している者であるかのように 生きる必要はないのです。

 そして、神の霊が宿っているという事実について幾つかの言い換えがなされ ていることに注意してください。それは、聖霊が与えられているということに ついての様々な側面を意味します。まずパウロは「キリストがあなたがたの内 におられるならば」と言います。神の霊、すなわちキリストの霊が宿っている ということろに、キリストが現臨されます。それはいわば復活のキリストが内 に住み給うことに他なりません。キリストが内に住み給うと言いましても、罪 が無くなってしまったわけではありませんから、死もあるわけです。神の霊に 敵対する罪を宿す体ですから、これは死ななくてはなりません。体は死に行く 体です。しかし、キリストのおられるところに義があります。キリストを通し て与えられた神の義があるのです。義のゆえに、神から切り離された者ではあ りません。命につながっているのですから、命がそこにあるのです。永遠の命 は死後に与えられるのではなく、未だ罪との格闘激しい現在のおいて、既に与 えられているのです。聖霊が与えられていること自体が義によって命となって いるのです。

 さらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれてお ります。この呼び名は、キリストの復活と私たちを結び付けます。キリストは 復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。このようにキリストを死者の中 から復活させ、栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているの です。これは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えら れる私たちの姿でもあるということです。戦いはやがて終わります。復活にお いて、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由です。そこには、神の意志 が完全に貫かれ、神の御心と私たちの意志は完全に一つとなります。そこにお いて、律法の義の要求は、復活した聖徒たちの中において完全に満たされてい るのです。

 パウロは、キリストに結ばれた者が聖霊の支配のもとにあることを思い起こ させます。キリストに属する者とされ、神の霊が与えられているということは、 最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることを意味するのです。そう です。事は始まっているのです。私たちが律法の義の要求を満たして完成する のではありません。パウロが語っているのは神の御業です。神が完成し給うの です。私たちはそれゆえ、こちら側にひたすら関心を向けて生きるのではなく、 向こう側、神の側に思いを向けて生きるのです。「すべては私次第だ」と言い ながら生きるのではなく、神の為し給う御業に思いを向け、既に与えられてい る聖霊に信頼し、その御支配を求めて生きる。それが私たちに与えられている 信仰生活なのです。

 
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