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「神の子供とされて」

1998年10月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ8・12‐17

 誰にも生意気盛りの年頃があるものです。私にもありました。私は先週、こ の説教を準備しながら、私の中学時代を思い起こしておりました。人によって 異なるとは思いますが、往々にして中学生・高校生の時期というのは、親や教 師や周りの大人たちに対して批判的になるものです。私の両親はキリスト者で す。当時の私の批判はキリスト者としての親に、あるいは親の信じている信仰 そのものに向けられました。また、身近な大人は教会の人々でしたから、彼ら にもまた批判の目を向けていました。最大の批判の対象は牧師でした。何が気 に入らなかったか。何かにつけ「祈りましょう」という彼らの言葉が気に入ら なかったのです。「信じましょう、お任せしましょう、委ねましょう」。こう いう類の言葉は、私の最も嫌っていた言葉でありました。「なんと無責任な! 」そう思っていたのです。人間は自分のことぐらい、自分の責任において、自 分の努力において、何とかすべきではないか。苦しい時こそ、お祈りだ何だと 言っていないで、努力すべきではないか。私は神がいないとは思っていなかっ たのですが、神を「信じる人」は嫌いでした。

 今、思い起こしますと、本当に恥ずかしく思います。本気で努力したことも ない、人生問題と格闘したこともない青臭い小僧が、「自分の責任と努力」な んてことをよくも言えたものです。振り返ってみますと、周りの誰よりも無責 任な生き方をしていたのは他ならぬ私自身でありました。実際、わが身ひとつ どうにもならないのです。「自分の責任と努力」と言いながら、自分の感情、 自分の行動一つ治めることができません。自分の悪癖、悪習慣一つ克服できな いのです。大人たちや社会を非難しながら、実は自分も規模は違えど同じ汚い ことをやっている。そんな情けない自分であることに気づいたのは、ずっと後 になってのことでした。

肉に対する義務ではなく

 「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉 に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に 従って生きるなら、あなたがたは死にます。(ローマ8・12‐13)」

 多くの人が「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」を 思って生きております。先週の繰り返しになりますが、これは「肉欲に従って 生きなければならないという、肉欲に対する義務」のことではありません。も ろもろの欲望に従って生きている人は、何もそれが義務だからということで、 そのように生きているわけではないでしょう。ここでパウロが「肉に対する義 務」と言っているのは、まったく別のことです。それはこの世に属する存在と して生きる義務であります。それはすなわち、この世に生きている者として、 この世に属する事柄を自らのこととして引き受けて生きることに他なりません。 すべてを神様の側のこととしてではなく、こちら側のこととして引き受けて生 きる義務です。要するに「信じましょう」ではなくて、「自分の責任として背 負っていきましょう。頑張って努力しましょう」ということです。多くの人は、 そのように考えて生きているわけです。

 さて、パウロは「兄弟たち」と呼びかけております。パウロはここでキリス ト者に語っているのです。これは「肉に従って生きなければならないという、 肉に対する義務」を覚えて生きている人が、教会の中にいるということです。 実際、パウロはそのような人々に対して手紙を書いたことがあります。ガラテ ヤの信徒への手紙です。ガラテヤの信徒たちは、キリストを信じていなかった わけではありませんでした。しかし、救いの事柄については、やはり律法の要 求を満たして救いに至るのはこちら側の責任であると考えたのであります。救 いを全うするのは人間であると考えたのです。そのような彼らに対してパウロ は何と語っているでしょうか。「あなたがたは、それほど物分りが悪く、"霊" によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか(ガラテヤ3・3) 」と言っているのです。そうです、私たちは肉に対する義務を思って、肉によ って、朽ちゆくアダムの子孫である人間から出てくるもので仕上げようとする のです。何についてもそうなのです。教会における事柄でさえも、信仰生活に おける事柄でさえも、そうなのです。すべては私の努力次第だと思うのです。 救いに関してさえも、肉で仕上げようとするのであります。

 しかし、そのような人に対して、パウロは断言します。「肉に従って生きる なら、あなたがたは死にます。」このような言葉は、中学生の当時の私には分 からなかっただろうと思います。人間の決断や努力がすべてであると思ってい たからです。しかし、わが身一つどうにもならないのが人間であることを知っ た今は、パウロの言葉がよく分かります。罪の問題に関しては、手も足も出な いのです。そのような人間から生じるものを全てであると考えて、自らに寄り 頼んで生きていく限り、救いに至ることはありません。「死にます」というの は、まさにそのような厳粛な事実を言い表している言葉です。

 もちろん、これは無責任になれ、ということではありません。人間は義務を 負った存在です。生きる限り、義務があります。しかし、それは肉に従って生 きなければならないという、肉に対する義務ではないのです。そうではなくて、 神の霊に従って生きなければならないという、神の霊に対する義務なのです。 このことを、パウロはさらに、消極的・否定的方面と積極的・肯定的方面から 明らかにしていくのです。

霊によって体の仕業を絶つ

 13節と14節をご覧ください。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死 にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。(13‐14節)」

 「霊によって体の仕業を絶つ」とはいかなることを意味するのでしょうか。 ここで私たちが再び思い起こさなくてはならないのは、この手紙の7章に記さ れていました意志と行為の深刻な分裂であります。「わたしは、自分の内には、 つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと いう意志はありますが、それを実行できないからです。(7・18)」意志す る私としては善を行おうとする。しかし、行為する私としてはそれを行わない わけです。ですから、さらにパウロは次のように言っているのです。「『内な る人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則 があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにして いるのが分かります。(7・22-23)」さて、こうしてみますと、「体の 仕業」とパウロが呼んでいるのは、罪の法則を内にもつ五体の仕業であること が分かります。すなわち「行為する私」の仕業のことです。「意志する私」は 「行為する私」を治めることが出来ないのです。自分の力では、自分自身をど うすることも出来ないのです。これは人間の普遍的な経験であるに違いありま せん。だから、パウロはただ単に「体の仕業を絶ちなさい」と言っているので はないのです。「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」 と言っているのです。そうです、罪の法則に支配されている体の仕業を絶つの は、私たちに与えられている神の霊によるのであります。

 しかし、私たちはここで間違えてはなりません。「霊によって」と書かれて いましても、聖霊は、罪に勝つために私たちが用いる道具ではありません。聖 霊を、人間が受けて自由に用いることのできる一種の魔術的な力かエネルギー のように考えるならば、大きな誤りに陥ります。聖霊は神格を持った神である お方です。神との関係においては、常に神が「主」であり私たちは「従」であ ります。ですから14節では「神の霊によって導かれる者は」と続くのです。 「導かれる」というのですから、私たちは受身です。「体の仕業を絶つ」と言 いましても、私たちが主体となって、そのことを為すのではありません。私た ちが受身となり、神の霊に導かれる者となって、聖霊のお働きによってそのこ とが実現していくのです。ですから、そこで神に対する私たちの正しいあり方 は、何よりも礼拝と祈りなのです。

 これは私たちの身近な経験からもよく分かります。私たちが神を礼拝するこ とを止め、神を祈り求めることを止めると、肉に従って生きるようになります。 肉なる「わたし」が中心となるのです。私たちがそのようにして神に対して受 身であることを止め、神の霊に導かれる生活を失うならば、どんなに頑張って みても、それは肉に従った生活なのですから、体の仕業を絶てません。罪に支 配されることになるのです。命の神からはますます遠ざかり死に向かうように なる。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と書かれているとお りです。

神の子として生きる

 このように、パウロはまず「霊に従って生きる、霊に対する義務」を消極的 ・否定的方面から述べました。繰り返しますと、それは「霊によって体の仕業 を絶つ」ということであったわけです。そして、さらにパウロは、同じことを 積極的・肯定的方面から語ります。それは「神の子として生きる」ということ であります。15節から17節までをお読みしましょう。

 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とす る霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶ のです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊 と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもありま す。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむ なら、共にその栄光をも受けるからです。(15‐17節)」

 14節でパウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と言 いました。15節は14節の理由を説明しています。私たちが神の子とされる のは、私たちに与えられ、私たちを導き給う聖霊が、「神の子とする霊」だか らだ、というのです。「神の子とする霊」とは「養子とする霊」という意味で す。養子という概念があるということは、その対極に実子という概念があるこ とを意味します。実子はキリストです。そうしますと、養子とされるというこ とは、父なる神と御子なるキリストとの間にだけあった関係へと、私たちもま た招かれることを意味します。

 それは「アッバ、父よ」という祈りの言葉によっても表されております。 「アッバ、父よ」という祈りの言葉は、もともとキリストが父なる神に対して 用いていた祈りの言葉でありました。私たちはその記録を福音書に見ることが できます。十字架にかかられる前夜、ゲッセマネの園でキリストがこう祈って おられるのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯 をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心 に適うことが行われますように。(マルコ14・36」この「アッバ」という のは主が日常で使っておられたアラム語で、子供が父親に対して用いるような、 親愛の情に満ちた呼びかけの言葉でありました。ユダヤ人たちが、この呼びか けを神に対して用いることはまずありませんでした。ですから、この祈りの言 葉は、御子と御父の特別な愛の交わりを表している言葉であったわけです。ま さにキリストは、その愛の交わりの中で、聖霊に導かれつつ父の御計画のもと に歩まれたのでした。そして、今や、同じ御霊は、私たちもまた父なる神との 愛の交わりの中を歩む者とするのだ、とパウロは言うのです。私たちにもまた 「アッバ、父よ」という祈りが与えられているのであります。

 このことは、私たちに二つの大切な認識を与えます。第一に、聖霊によって 導かれる歩みは、罰せられることを恐れて服従する奴隷のように生きることで はない、ということです。キリストのゲッセマネの祈りを考えてみてください。 キリストが「御心に適うことが行われますように」と祈られたのは、服従しな いと父なる神から罰せられるからではありません。御父と御子との愛の関係ゆ えになされた服従でありました。主はむしろ御父への愛のゆえに、十字架にお ける裁きを受けることさえ良しとされたのであります。私たちが、「神の子と する霊」に導かれて歩むのも同じです。私たちは「人を奴隷として再び恐れに 陥れる霊」を受けたのではないのです。断罪を恐れての服従は、肉に従った歩 みなのであって、聖霊に導かれての歩みではありません。

 第二に、聖霊によって導かれる歩みは、確かな希望に向かっての歩みである ということです。子供とされているということは、相続人とされているという ことです。何を父なる神から受け継ぐかと言えば、それは神の栄光であり、永 遠の命です。キリストの復活において現わされた神の栄光と永遠の命を、私た ちは共に受け継ぐのであります。パウロはここであえて「キリストと共に苦し むなら、共にその栄光をも受けるからです」と言っていることを心に留めるべ きであろうかと思います。信仰は苦難を取り去るための処方箋ではありません。 神の子ととして生きるということは、安泰な生活の確保を意味しません。なぜ なら神の子であるキリストは、苦難の道を歩まれたからであります。私たちも、 聖霊に導かれ、神の子として歩む時、神への愛ゆえに苦難を伴う服従へと導か れることがあるでしょう。父への愛ゆえに「しかし、わたしが願うことではな く、御心に適うことが行われますように」と言わざるを得ないことがあるでし ょう。しかし、苦難と戦いは永遠ではありません。終わりが来るのです。そし て、苦難は無駄に地に落ちません。共に苦しむなら共に栄光にあずかるのです。

 私たちには一つの義務があります。それは、肉に従って生きなければならな いという、肉に対する義務ではなく、霊に従って生きなければならないという、 霊に対する義務です。それは聖霊に導かれ、聖霊に寄り頼み、神の子として生 きることであり、「アッバ、父よ」と御名を呼びながら、神の栄光と永遠の命 を受け継ぐ希望に向かって生きることに他なりません。

 
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