「私を知り給う主」                             詩編139編  「私のことは私が一番良く知っている。」私たちのしばしば耳にする言葉で あり、そして私たち自身も時によって口にする言葉です。しかし、これは真実 なのでしょうか。実際自分のことは…良く分からないものです。この「私」と いう存在は実に不可解ではありませんか。試しに自分に対していくつか質問し てみてください。「あなたはいったい誰?」―これは答えられるでしょう。し かし、「あなたはどうしてあなたなの?」と聞きますならば、これは答えるこ とが難しい。「あなたはどこから来たのですか?」「あなたは何のために生き ているのですか?」「あなたの本当に求めているものは何?あなたが生きてい る意味は何?」「あなたはいったい最終的にどこに行くのですか?」「そして、 その目的は何ですか?」私の事は私が一番良く知っているはずなのに、自分の 人生の根元に関わることが分からない。答えられないのです。  さて、ここに「私のことは私が一番知っている」とは言わない人がおります。 その人は139番目の詩編を書きました。この人にとって「私が知っているか どうか」は大した意味を持ちません。「私を知っていてくださる方」を知って いるからです。この詩編は今から二千数百年も前に書かれた古いものですが、 今日生きる私たちになお大きな意義を持っております。というのも、いつの時 代の人間であれ、人生の根本問題の答えそのものを探そうとする人は、虚しさ の支配する迷路に迷い込むことになるからです。私たちが知るべきであるのは 「私の人生に対する答え」ではありません。「私を知っていてくださる御方」 なのです。といことで、今日はそのような詩編139編を、よく味わいながら 読んでいきたいと思うのであります。 ●あなたは私を知っておられる  初めに1節から6節までをお読みいたします。   「主よ、あなたはわたしを究め    わたしを知っておられる。    座るのも立つのも知り    遠くからわたしの計らいを悟っておられる。    歩くのも伏すのも見分け    わたしの道にことごとく通じておられる。    わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに    主よ、あなたはすべてを知っておられる。    前からも後ろからもわたしを囲み    御手をわたしの上に置いていてくださる。    その驚くべき知識はわたしを超え    あまりにも高くて到達できない。(1-6節)」  「座るのも立つのも」「歩くのも伏すのも」などの言葉が表しているのは、 人間の生活です。これらは常に人の目にさらされているわけではありません。 人の見るところは限られております。これはある意味では私たちにとって都合 のよいことです。なぜなら見られたくないことがあるからです。隠しておきた いことがある。そして、実際、私たちは隠し事をいたします。しかし、見られ ないことがいつも喜ばしいこととは限りません。時として私たちには見て欲し いこと、知ってほしいことがあります。正しく理解して欲しいことがあるので す。しかし、必ずしも人の生活が正しく見られ、知られ、理解されるとは限り ません。人から誤解されることがありますでしょう。これは人間の限界に基づ くわけです。そのゆえに、私たちはしばしば悔しい思いをいたします。  このような人間の限られた視野がすべてであると通常私たちは考えて生活し ているものです。ところが、ふとした時に、人間の目にはまったく無関係に見 えるものが互いに結ばれていたことに気づかされます。人生における二つのま ったく無関係に見える出来事が、実は深く関係づけられていたことに気づかさ れます。多くの人は、これを偶然と呼びます。あるいは別の人は漠然と「何か の御縁で」などと言い表したりしますでしょう。  しかし、神を礼拝し、神に祈りつつ生きる人は、そのようには言いません。 人の目の見る限られた世界、限られた知識がすべてではないことを知っている からです。それを超えた知識があり、それを超えた計らいがあることを知って いるからであります。詩編139編を歌った詩人はそのような人であります。 ここに記されているのは、単なる思想としての神の全知全能ではありません。 神と共に生きてきた人の祈りの言葉です。彼がこれまでの日々を振り返ります 時に、畏れと驚きと、そして深い平安の内に「主よ、あなたはわたしを究め、 わたしを知っておられる」と告白せざるを得ないのです。神こそ「わたしの道 にことごとく通じておられる」と、神を賛美せざるを得ないのです。  多くの人は、自分の人生には自分が一番通じていると考えます。しかし、そ う思っている人には平安がありません。なぜなら、自分が一番通じているはず の人生に、まったく予想しないことが起こるからです。不可解なことが起こる のです。自分が一番知っていると思う人は、焦り、悩み、思い煩います。しか し、この詩人は違います。「わたしの道にことごとく通じておられる」御方を 知っているからです。その御方の方が私の道に通じておられるのですから、説 明する必要がありません。人生がどのようになることが最善であるかを神に解 説して、人間の思い計らいの通りになるよう助けよと要請する必要がないので す。いや、それどころか、人の舌にまだひと言も語らぬさきに、主はすべてを 知っておられると言っているのです。すべてを知っていてくださる方が取り囲 み、御手を置いていてくださることを思いつつ生きる。それが彼の歩みであり ました。彼にとって、それで十分でありました。この人は神の知識を自らの手 の内に捉えようとはいたしません。ただその驚くべき知識をほめたたえ、その 高さを賛美するのです。 ●どこに行ってもあなたはおられる  次に7節から12節までをお読みいたしましょう。   「どこに行けば      あなたの霊から離れることができよう。    どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。    天に登ろうとも、あなたはそこにいまし    陰府に身を横たえようとも     見よ、あなたはそこにいます。    曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも    あなたはそこにもいまし    御手をもってわたしを導き    右の御手をもってわたしをとらえてくださる。    わたしは言う。    『闇の中でも主はわたしを見ておられる。    夜も光がわたしを照らし出す。』    闇もあなたに比べれば闇とは言えない。    夜も昼も共に光を放ち    闇も、光も、変わるところがない。(7-12節)」  彼は神の驚くべき知識をほめたたえます。しかし、人はまた「知り給う方」 のもとから逃げようとするものであることも、彼は良く知っています。「どこ に行けば、あなたの霊から離れることができよう」と考えるのです。しかし、 彼は言います。天に行こうが、陰府に下ろうが、海のかなたに行き着こうが、 そこにあなたはおられる、と。もちろん、彼は天に上ったことはないでしょう。 死の国に身を横たえたこともないでしょう。しかし、ここで言い表されている のは、要するに「どこまで行っても」ということです。それは彼の経験であっ たのかも知れません。あるいはそうでないとしても、これは人がしばしば思い 知らされることであります。神から逃げようとする。なんとか神に知られざる ところに身を置こうとする。しかし、いつの間にか神の御手によって導かれて いる自分を見出すことになるのです。その力強い右の手でしっかりと捕らえら れていることを認めざるを得なくなるのです。人はしばしば闇の中に身を隠し ます。神無き生活の闇の中に逃げ込もうとするのです。しかしやがて、神から 身を隠すことのできる闇などないのだ、ということを思い知らされます。照ら し出されているのです。神の光によってすべては神の前に曝け出されているの です。 ●あなたの計らいはいかに貴いことか  続きをお読みしましょう。   「あなたは、わたしの内臓を造り    母の胎内にわたしを組み立ててくださった。    わたしはあなたに感謝をささげる。    わたしは恐ろしい力によって     驚くべきものに造り上げられている。    御業がどんなに驚くべきものか     わたしの魂はよく知っている。    秘められたところでわたしは造られ    深い地の底で織りなされた。    あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。    胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。    わたしの日々はあなたの書にすべて記されている    まだその一日も造られないうちから。    あなたの御計らいは     わたしにとっていかに貴いことか。    神よ、いかにそれは数多いことか。    数えようとしても、砂の粒より多く    その果てを極めたと思っても     わたしはなお、あなたの中にいる。(13-18節)」  いかなるところに逃げようとも、神は捕らえておられるのですから、逃げる ことは無駄なことです。創造者の手による被造物として、自らをその計らいに 身を委ねることこそ最善なのです。  この詩人は神によって知られている自分自身の誕生にまで遡ります。いった いなぜ私はこの世に存在するのか。その理由を自らに求めても分かるわけがあ りません。なぜなら、人は皆、自分の意志でこの世に生まれてきたのではない からです。それゆえ、存在の背後には、他者の意志があることを認めざるを得 ません。しかし、それは親ではありません。親は命を作り出したわけではない からです。彼は自分の存在の背後に、神の意志を認めます。そして、この詩人 は神が創造者であるゆえに、胎児の自分が既に神によって知られていたことを 思うのです。さらにこれまでの人生を思う時、心に浮かぶのは神の手にある書 物でありました。そこには、神が既に知り給う人生の日々が記されているので す。まだ一日も造られないうちから、記されているのです。  この詩人がごく普通の人であるならば、過ぎし日々には不可解な出来事も多 々あったに違いありません。「なぜ、こんなことになるのだろう」と嘆かざる を得ない日々も一日二日ではなかったでしょう。そして、今後もまったく未知 であるわけです。しかし、彼はその神の書を覗き見ようとはいたしません。た だ、「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか」と言って、神 をほめたたえるのです。神の計らいは人間の極めることのできないものである ことを、へりくだって認め、神を賛美するのです。 ●とこしえの道に導いてください  最後に19節から24節までをお読みしましょう。   「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。    わたしを離れよ、流血を謀る者。    たくらみをもって御名を唱え    あなたの町々をむなしくしてしまう者。    主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み    あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし    激しい憎しみをもって彼らを憎み    彼らをわたしの敵とします。    神よ、わたしを究め    わたしの心を知ってください。    わたしを試し、悩みを知ってください。    御覧ください     わたしの内に迷いの道があるかどうかを。    どうか、わたしを     とこしえの道に導いてください。(19-24)」  ここで突然、「憎しみ」や「敵」という言葉が出てくるので、少々面食らい ます。前との続き具合は必ずしも明瞭ではありません。しかし、私たちはここ でいくつかのことに心を留めたいと思うのです。詩人は「わたしを憎む者をわ たしも憎み、わたしに立ち向かう者を忌むべきものとし」とは言ってはおりま せん。ここに私たちの身近に経験するような憎しみや敵対心を読み込みますと、 詩人の意図を誤解することになります。「逆らう者」「流血を計る者」「たく らみをもって御名を唱える者」が具体的にどのような人々であるかは分かりま せん。しかし、いずれにせよ、この詩人は自分との関連ではなく、神との関連 で語っているのです。彼の関心はあくまでも神に向けられているのです。です から、彼らを「私が打ち滅ぼします」とは言いません。神に委ねるのです。  それゆえ、この詩編の最後において、この詩人は自分自身のことについて祈 ります。彼にとって最終的に大事なことは、誰かが滅ぼされることではないか らです。神と自分自身の関係なのです。  彼が願っているのは、今まで彼を自らが知る以上に知っていてくださった神 が、これからも彼の心を知ってくださることでありました。そして、彼を試し、 その内にあるものを明らかにしてくださることなのです。なぜなら、彼の切な る願いは、迷いの道、滅びへと向かう道に迷い込まないことだからです。そう ではなくて、とこしえの道、永遠の命に至る道に導かれることだからでありま す。  私たちに必要なことは、不可解な人生に答えを得ることではありません。私 以上に私を知り給うこの御方を知ることです。その御方を主と仰ぎ、とこしえ の道に導かれつつ歩むことなのです。