「希望に生きる」
1998年11月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ八・一八‐二五
今年も残すところ二月足らずとなりました。こうして、今年も過ぎ去って一 九九九年になります。あと二年もすれば今世紀も終わりです。二一世紀に生き ている自分なんてあまり考えたこともありませんでしたが、もうすぐそこまで 来ています。しかし、人類はどのような思いでこの新しい世紀を迎えるのでし ょうか。新世紀になっても何も変わりやしない、いやむしろ益々悪くなってい くのではないか、という諦めに似た思いを多くの人は抱いているのではないか と思います。先日、自然破壊をテーマとした何枚かの写真を目にしました。何 ら特別なことには思えませんでした。荒廃はそれほど身近なものとなっており ます。人間も自然界も、共に破滅の終焉へと向かっている。そのような重苦し い運命を、誰もが感じているのではないでしょうか。「二一世紀」という言葉 と最も結びつきにくい言葉をあえて捜すとするならば、それは「希望」ではな いかとさえ思えてきます。ですから、先のことはあまり考えたくない。忘年会 をして今年を忘れても、さりとて来年を見つめる勇気もない。多くの人の心を このような思いが支配しているように思います。
しかし、私たちはこの世界に満ちている諦めの言葉に支配されて生きていき たくありません。私たちはこの世に満ちている言葉ではなく、もうひとつの、 この世を越えた彼方から響いてくる声に耳を傾けたいと思うのです。絶望を語 る言葉ではなくて、希望を語る言葉です。先から目を逸らさせただ目の前の物 にのみ向けさせる言葉ではなく、大いなる期待をもって先を見つめて生きる者 とさせる言葉です。私たちは、そのような神の御言葉に耳を傾けつつ、このお 方を共に礼拝し、またこの世に遣わされていきたいと思うのであります。
被造物のうめきと待望
それでは一八節から二二節までお読みいたしましょう。「現在の苦しみは、 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは 思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物 は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させ た方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、 いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずか れるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味 わっていることを、わたしたちは知っています。(一八-二二節)」
キリストに結ばれ、神の霊をいただいて、神の霊に導かれて生きることは、 すなわち神の子として生きることである。神の子として生きるということは、 神の栄光と永遠の命を受け継ぐ神の相続人としての希望をもって生きることで ある。そのことをパウロはこれまでに語ってきました。そして、彼は現実の苦 悩をこの希望の光に照らして見るのであります。そして、現在の苦しみは、将 来現わされるはずの栄光に比べるならば取るに足りないと語っているのであり ます。
かつて私はこのような言葉に大変抵抗を覚えたものでした。第一に、将来を 思って現在を耐え忍ぶという発想は、現実の不当な抑圧に抵抗しない愚かな民 衆を作るだけだ、という思いが頭を離れなかったからです。さらに言えば、来 るべき世のことを語ることは、現在を軽んじるような生き方を生み出すのでは ないか。人間を目の前の課題や問題に真剣に取り組まなくさせるのではないか、 と考えたわけです。かつてキリスト者である親や教会の人々に対して批判的で ありました頃、キリストの再臨や復活の希望を語る言葉を聞く度に、心の中の どこかで、そのようなことをつぶやいていたものでした。
今、振り返りますと、当時の私には明らかに欠けているものがありました。 それは、自分自身が苦しむという経験でありました。パウロは一七節で特に、 「キリストと共に苦しむ」ということを語りました。イエス様の言葉で言いま すならば、それは十字架を負ってキリストに従うということであります。私は キリストの名のゆえに苦しみを伴う決断をするという経験がありませんでした。 キリストのゆえに自分を捨てるという経験もありませんでした。本当に忍耐が 必要とされることに取り組んだこともありませんでした。そんな私が何を言い ましても所詮机上の空論に過ぎません。
一方、今になって思いますと、キリストの再臨や復活の希望を語る人々が、 現在を軽んじているかと言えば、そんなことは決してありませんでした。皆、 それぞれの仕方において、キリストのゆえに、困難や苦難と正面から向かい合 い、逃げないで取り組んでいる人々でありました。むしろ、その時を大切にせ ず、いいかげんに生きていたのは、他ならぬ私であったことを恥ずかしく思い ます。来るべき世の希望のない人は、現在の苦難をたいていは他者との比較で 計ります。そして、「何で自分ばかりこんな思いをしなくてはならないか」と ぼやいたり、あるいは「あの人ほど苦しんではいないのだ」と言って自分を慰 めたりするわけです。しかし、このような生き方から、苦難や様々な課題と取 り組む忍耐や責任ある行動が生まれるでしょうか。生まれないだろうと思うの です。来世ではなくて現世だけに目を向けたら、現世を大切に生きるようにな るか――そんなことはないのです。大切なのは希望です。確かな希望に生きる ことなのです。
パウロはこの希望について、全被造物の世界を包み込んでいる希望として、 その壮大な構図を一九節以下に描き出しています。パウロがこのように語りま すのは、ただ人間のうめきだけを聞いているのではなくて、全被造物世界の底 から響いてくるうめき声を耳にしているからであります。私たちはこの自然破 壊や自然環境における異常事態を見まして「さあ、大変だ」と考えるものです。 そこで初めて自然界のうめきに気づくという大変鈍い者であります。それに対 して、パウロは既に今から二千年前にそのうめき声を聞いていたのでした。こ れは大変驚くべきことであります。また、同時に、私たちは全被造物界に関わ るものとして人間の罪を見る聖書の視点の鋭さを思わされるのであります。
聖書の一番初めには天地創造の物語が記されております。それは、大変素朴 な表現を用いてではありますが、自然界と人間が深いつながりをもって神の創 造の秩序と目的のもとに置かれていることを明らかにしております。人間も他 の被造物も共に神の栄光のために造られました。その目的のもとに、人は役目 を与えられます。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満 ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。 』(創世記一・二八)」支配するということは、好き勝手に用いてよいという ことを意味しません。神の目的のもとに、神の栄光のために、正しく管理し治 めることを意味します。それは権利ではなくて責任なのです。
しかし、人が人として神との正しい関係を失うことによって、この本来の目 的から外れてしまいました。人間は創造の秩序を外れて自分勝手に無目的に生 きるようになりました。そのゆえに、自然界までその目的を失い、虚無に服す ることになったのです。被造物全体が、無意味に無目的に滅びへと向かうもの となってしまったとパウロは言うのです。私たちは人間の罪を、単に自分や周 りの不幸を生み出すものとして捉えてはなりません。私たちの罪は全被造物に 関わる害毒なのです。既にパウロは遠い昔にそのことを見て取っておりました。 人間の罪によってもたらされた自然界のうめきを聞いていたのです。
このように人間の罪を掘り下げて考えます時、私たちが新世紀に向かいつつ も、人間と自然界がもろとも滅びとしての終焉に向かっているのではないかと いう漠然とした意識を持っているのは、根拠なきことではないことがわかりま す。しかし、パウロは今日多くの人々がしているように、悲壮感に捕らわれて はおりません。むしろ、そこで希望を語ります。それは私たちの見ているよう な深刻な状況を見ていないからではありません。そうではなくて、罪深い人間 について、なお希望があるからです。キリストにおいて現わされた、人間を罪 から救う神の御業を知っているからであります。
人間の罪はキリストによって贖われました。やがて神の霊に導かれて生きる 者たちが、罪の縄目から完全に解放されて、人間の本来の姿を回復せられる時 が来るのです。神の子としての姿が完全に回復せられる時が来るのです。そし て人間の救いの時は、自然界にとっても救いの時であります。被造物もまた滅 びへの隷属から解放せられるときが来るのです。ですから、パウロはただ被造 物世界をうめき苦しんでいるものとして見ているのではありません。この被造 物の苦しみを、ただ破滅としての終焉に向かうものとして見るのではなく、期 待に満ちた産みの苦しみとして見ているのであります。
キリスト者のうめきと待望
この被造物世界を、産みの苦しみをしている世界として見ているパウロは、 その全地に満ちる希望の中で、再びキリスト者の現実に思いを馳せます。二三 節から二五節までをお読みしましょう。「被造物だけでなく、"霊"の初穂をい ただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われること を、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望 によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。 現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えない ものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(二三-二五節)」
キリスト者の内にも言葉にならないうめきがあります。信仰によって義とさ れ、神の霊を宿すものとされ、聖霊に導かれる神の子とされながらも、現実に おいてはなおうめきつつ生きているのです。しかし、それは絶望に向かう者の うめきではありません。救いの完成を待ち望む者のうめきです。自然界のうめ きが、産みの苦しみからのものであり、待望を伴ううめきであるならば、キリ スト者のうめきも同じです。産みの苦しみであり、救いの完成を待ち望む者の うめきです。
聖霊はここで「初穂」と表現されております。初穂というのは、最初に収穫 された部分のことです。祭儀の場合、これが神に奉げられました。つまり、初 穂があるということは、刈り入れの全体がその後にあるということです。それ は、ここでは終末における完全なる救いに先立って、その部分が与えられてい ることを意味します。私たちは現在のこの現実の生活において、終末における 救いを味わうことが許されているのです。それは他の箇所では保証(アラボー ン)と表現されています。(例えば2コリント一・二二)これはいわば手付金 のことです。残りは必ず支払われるということの保証です。聖霊が与えられて いるということは、この保証が与えられているということに他なりません。
ですから、うめきつつも希望を持って待ち望むのです。神の子とされること を待ち望むのです。既に神の子とする霊を与えられた者は、その事実が完全に 現れる時を待ち望んで生きるのです。それをパウロは「体の贖われること」と 表現しています。体が贖われるとは、罪と死から解放されて全く自由な体とな ることです。今はまだ罪を宿す体において、熾烈な戦いが続いております。私 たちは霊によって体の仕業を絶たなくてはなりません。(八・一三)罪はこの 体において私たちを支配しようとします。聖霊は、私たちを導き罪から解放し 給います。体は聖霊と罪との戦場です。この絶えざる戦いの継続の中に、私た ちの人生があります。しかし、この戦いは永遠に続くのではありません。終わ りの時が来るのです。私たちはその時を待ち望むことができる。体が贖われる 時を、希望をもって待ち望むことが許されているのです。
それゆえ、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」 とパウロは言います。多くの翻訳は「希望において(in hope)救われた」と訳 しています。ここに言われていることは「既に」与えられた救いを「今なお」 待ち望んでいるということです。希望は気休めとは異なります。ただ不安な心 が癒されることが救いであるならば、それは気休めの言葉によっても与えられ るかも知れません。しかし、ここで語られている救いは私たちの心に関わるの ではなくて、私たちの全存在に関わるのです。ですから、ここで語られる希望 は気休めとは異なるまことの希望でなくてはなりません。彼はまことの希望の 根拠を一つの出来事に見ております。それはイエス・キリストにおいて現わさ れた神の御業です。イエスが私たちの罪のために死に渡され、わたしたちが義 とされるために復活させられたという出来事です。救いの御業は既に成就しま した。それゆえに、私たちは既に「救われた」と言うことができます。そして、 その私たちに神の霊が与えられました。神の子とする霊を与えられ、「アッバ、 父よ」と呼ぶものとされました。しかし、なお私たちは救いの完成を見ていま せん。まだ私たちは待ち望む者であります。希望に生きる者です。これが「希 望において救われた」ということの意味です。
それゆえ、私たちの信仰生活は目に見えないものを待ち望む生活であるとも 言えるでしょう。「希望において救われた」者が、その救いを全うするために 求められているのは忍耐です。新約聖書の至るところに忍耐強くあるべきこと が勧められている所以がここにあります。しかし、また逆に、まことの希望が あるからこそ、忍耐強く生きることができるとも言えるでしょう。
まもなくこの年も終わります。新しい年を希望のない者のように迎えるよう であってはならないと思います。私たちは、一歩また一歩と、救いの完成へと 近づいていることを忘れてはなりません。未だ見えざる救いにしっかりと顔を 向け目を注いで生きてこそ、現実から逃げないで、与えられている戦いの場に 踏みとどまり、忍耐強く今この時を大切に生きることができるのであります。