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「万事は益となる」

1998年11月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ8・26‐30

今年のクリスマスに向けて、数名の方々が洗礼を受ける準備をしております。

この教会では洗礼を受けられた方々に記念の聖書を差し上げております。洗礼 式が近づいてきますと、牧師もいろいろな準備をいたしますが、記念の聖書に 御言葉を書いて備えることもその一つです。言うまでもなく、その聖書は、購 入され、名前が記され、御言葉が書き記された時点で、既に受け取られる方の ものであります。私の手元にありますが、私のものではありません。しかし、 その聖書は、既に受洗者のものでありながら、まだ受洗者のものとなっており ません。時とプロセスを経て、その人に手渡され、真にその人のものとなるわ けです。

 さて、今日お読みしました聖書箇所の最後にはこう書かれておりました。 「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、 義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(30節)」この「あらか じめ定められた者たち」ということにつきましては後で触れますのでひとまず 置いておくとしまして、気になりますのは「栄光をお与えになったのです」と いう言葉です。「栄光を与えられる」ということは、今まで繰り返し出てきま したように、救いの完成を意味します。永遠の命にあずかり、復活のキリスト が現わされたあの栄光に共にあずかることです。一方、現実の私たちは、聖霊 の初穂をいただいているとは言いながらも、罪の宿る体を持ち、しばしば苦し み嘆き、うめきながら生きております。だから忍耐して救いの完成の時を待ち 望んでいるのです。そう考えますと、「栄光をお与えになった」ではなくて、 「栄光をお与えになるでしょう」が正しい言い方ではないでしょうか。救いの 完成は終末のことなのですから。

 しかし、それにもかかわらず、パウロは「栄光をお与えになった」と表現す るのです。なぜでしょうか。既に私たちのために備えられているからです。い わば、先ほど申しました記念の聖書の話と同じです。その人の手元にはありま せんが、既にその人のものなのです。同じように、既に栄光は与えられたので す。そうしますと、私たちの人生は、その栄光が真に私たちの上に現れるため のプロセスであると理解することができるでしょう。今日与えられております 御言葉は、そのことを明らかにしているのであります。

聖霊の執り成し

 それではまず26節から27節までをお読みいたしましょう。「同様に、"霊 "も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知り ませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるか らです。人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。" 霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 (26‐27節)」

 信仰生活は希望に生きる生活です。神の子とする霊の初穂をいただいている 者が、真に神の子とされる時を待ち望んで生きるのです。それは体の贖われる ことに他ならないとパウロは言います。私たちは罪を宿す体をもって生きてい ます。罪は体において私たちを支配しようとし、聖霊は罪から私たちを解放し ようとします。そこに葛藤があり戦いがあります。そのことゆえの苦悩があり ます。そこに私たちのうめきがあります。しかし、それは死にゆく者のうめき ではなく、産みの苦しみによるうめきです。私たちはうめきながら、見えない ものを待ち望んで生きるのです。見えないものを待ち望むためには、忍耐が必 要です。それゆえ、信仰生活は希望に支えられた忍耐をもって生きる生活でも あります。それはまた、神に望みを置き、祈りつつ生きることでもあります。

希望に支えられた忍耐の具体的な現れは私たちの祈りだからです。

 しかし、そこにまた私たちの弱さが現れることも事実です。私たちは現実の 苦闘の中で、しばしば祈りの言葉すら失ってしまうのです。どのように祈って よいか分からなくなるのです。いかなる言葉をもって表現したとしても、それ が間違いであるかのように思えてきます。何を求めて良いのか、分からなくな ってしまいます。そうしますと、祈っていること自体が正しくないことのよう に思えてきます。むしろ正しくない祈りならばしない方が良いと思えてくるの です。

 しかし、パウロは祈ることを止めてしまいなさいとは言いません。神は人の 弱さを知り給う御方だからです。私たちが祈れなくなる時でさえ、私たちはた だ独りでうめいているのではない、とパウロはここで言っているのです。まさ に、そこにおいて、聖霊自ら私たちと共にうめいてくださるのです。そのうめ きをもって、私たちのために執り成してくださるのであります。

 ここを記しておりますときにパウロの念頭にあったのは、いわゆる異言の祈 りであったろうと推測する学者もおります。(異言の祈りについては、コリン トの信徒への手紙(一)の14章を併せてお読みください。)私は、異言の祈 りについて語る他の聖書箇所に照らし合わせましても、この推測はある程度正 しいのではないかと思っております。このパウロの言葉は、異言の祈りに一つ の理解を与えます。これは、人の言語によって表現され得ることを超えて、聖 霊の助けと執り成しによって神に捧げられる祈りであるということです。

 しかし、このことは、ただ一つの現れとしての異言の祈りに限ったことでは ありません。人によっては、祈りの言葉を失った沈黙であるかも知れません。 あるいは、ただ神の名を呼ぶことしかできない叫び声であるかも知れません。 神の御前に涙する者の嗚咽であるかも知れません。しかし、そのような時、私 たちは確かに、私たちの祈りが、ただ私たちの貧しい言葉によってのみ支えら れているのではないことを経験するのであります。言葉を超えて、もう一人の お方が祈っていてくださる。それがパウロの語る、聖霊の執り成しなのです。

 私たちの内に宿り給う聖霊は、私たちを知っていてくださいます。私が私を 知る以上に私を知っていてくださるお方です。言葉にならない、言葉をもって 表現することのできない、私たちの深い苦悩も願いも分かってくださいます。 そして、神は、この聖霊の思いが何であるかを知っておられるのだ、とパウロ は記しております。つまり、こうして神と私の思いが聖霊というお方を通して 一つに結ばれるということが起こるのです。このことによって、正しい祈りを 自分の言葉としては捧げ得ない私たちの祈りが、聖霊の執り成しによって、神 の御心に適った祈りとして捧げられることになります。そして、神は聖霊の執 り成しによる御心に適った祈りに応え、神は私たちを救いの完成に至るまで、 支え、導いてくださるのであります。

御子の姿に似たものに

 さて、ここで私たちが既に読んできたことを思い起こしたいと思います。私 たちは、キリストの十字架における贖いの血により義とされました。御子の死 によって神と和解させていただきました。私たちはキリストの死にあずかり、 キリストと共に死んだ者とされ、キリストと共に新しい命に生きる者とされま した。私たちはキリストのものとされ、キリストの霊、御子の霊なる聖霊を与 えら

れ、神の子として「アッバ、父よ」と呼ぶ者とされました。神の子として、 体の贖われることを祈りつつ待ち望む者とされました。すべては神に始まり、 神によるものでありました。

 そして、パウロはここで、聖霊が弱い私たちのために執り成し給うことを語 ります。このことは、待望する私たちの祈りの正しさすら、救いの完成を左右 する決定的な要因ではないことを意味します。この光のもとに、私たちが自ら の人生を省みます時、そこに見えてきますのは、先にも申しましたように、す べては救いの完成へと向かうプロセスである、ということであります。そのこ とをパウロは28節以下において次のように表現しております。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が 益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前も って知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定め られました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神は あらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とさ れた者たちに栄光をお与えになったのです。(28‐30節)」

 私たちはいったい何が本当に益であり、何がそうでないのかを知りません。 良きことと思っていたものが、実際には私たちに何ら益をもたらさないもので あることを、しばしば経験いたします。私たちの生活は実に近視眼的です。一 寸先をも見通すことができません。しかし、この御言葉は、個々の事柄につい て、何が本当に益であるかを私たちが知り得ないとしても、まったく案じる必 要のないことを教えています。私たち以上に、何が本当に益であるかを知って いてくださる方がおられるからです。

 また、私たちの一生は、実に災いとしか思えないこと、不幸としか見えない ことに満ちております。私たちはともするとそれらの負の要因に振り回されそ うになります。しかし、この御言葉は、私たちがそれら人生の諸相に振り回さ れる必要のないことを教えております。私たちはもろもろの出来事に縛られ、 動かされる奴隷である必要はありません。むしろ、私たちの経験する事々は、 私たちの僕に過ぎないと言うのです。それらは神の指揮のもとに共に働いて、 救いの完成のために私たちに仕える僕に過ぎないのであります。

 私たちが自らの歩みを振り返ります時、私たちがこうして神を礼拝するに至 るまでの過程において、その事実が既に現れていることに気づかされます。す べてのことを共に働かせて、神は私たちをここに連れて来たのであります。神 は万事を共に働かせて、私たちが神を愛する者となるように、神を礼拝する者 となるように、導かれたのであります。

 考えて見てください。神に背を向けて生きていた私たちが、今こうして神に 向いているのです。神を賛美しているのです。これは、私たちが計画して実現 したことではありませんでした。私たちの計画でなければ、それは神の計画に 違いありません。神の御計画のもとに私たちは神のもとに召されたのです。そ の際、私たちの痛み、悲しみ、悩みすら、共に働いて私たちに仕えたのであり ます。今日に至るまで、万事が共に働いて私たちの救いに仕えたのなら、これ は救いの完成に至るまで続くことは容易に理解できるではありませんか。

 さて、ここで先に申しましたとおり、神の予定の問題に触れて置く必要があ るでしょう。「御計画に従って召された者たち」「あらかじめ定められた者た ち」という言葉が、どうしても私たちの目に留まるからです。そのような言葉 を聞きますと、私たちはすぐに「では誰が召された者であり、誰がそうでない のか」という詮索を始めたりいたします。ある者を救いに選び、ある者を滅び に選ぶということを、神が単純に機械的に決めておられる姿を想像したりいた します。

 しかし、これらの言葉は、本来そのような意図のもとに書かれた言葉ではな いことを私たちは心に留めておく必要があります。パウロをしてこのように言 わしめたのは「私が今こうしているのは私の計画によるのではない」という実 感に他ならないのです。神に召されているとするならば、その根拠はこちら側 にはない、という認識なのです。今、神に向き、神を愛し、神を礼拝する者と されているのは、自分の功績ではないのだという自己理解なのです。自分の功 績でないならば、これは神の憐れみによるわけです。神の憐れみに対する感謝 と賛美から出たのが、ここに書かれている言葉です。このことが分からない人 は、神に向こうとしない人を裁きます。このことが分かる人は、神に向こうと しない人のために祈ります。要するに、神の憐れみに対する感謝と賛美のない 人が神の予定を論じると、誤解が生じることになるのです。

 ですから、私たちの知るべきことは、誰が召されているか、ということでは ありません。ただ私たちの知るべきことは、今どこに向かっているのか、とい うことであります。救いの完成がどこにあるのか、ということです。パウロは 何と言っているでしょうか。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の 姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」神が私たちを御子に似 たものとするのは、御子を長子とした家族へと私たちを入れるためであります。

御子を長子とした家族に私たちを入れ給うのは、御子の現わされた栄光に、私 たちもまた共にあずかるためであります。共に神の国を受け継ぐためなのです。

それが神の定められたことでありました。そこに私たちの受けるべき最善があ ります。真に益と言えるものがあるのです。そして、神の御計画のもとにあっ て、万事はそこに向かって共に働いているのです。

 神はイエス・キリストを通して、この神の御計画を明かにされました。それ ゆえ、パウロは神があらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出したもの たちを義とされた、ということだけを語りません。義とされた者たちに「栄光 をお与えになったのです」と断言するのです。私たちの人生がたとえどのよう に導かれようとも、それは既に与えられている栄光が真に私たちの上に現れる ためのプロセスなのであります。

 
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