「神の愛」
1998年11月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ8・31‐39
この聖日は教会の暦で言いますと一年の最後に当たります。来週からアドベ ントに入るからです。そして、この一月から読み始めましたローマの信徒への 手紙におきましても、一つの大きな区分の最後に差し掛かっております。4章 までは、主に、「なぜ行いによらず信仰によって義とされるのか」という主題 が扱われていました。5章からは、「信仰によって義とされた者として生きる とはいかなることか」ということが論じられてきました。そして、それらの論 述を振り返りながら、パウロは「では、これらのことについて何と言ったらよ いだろうか」と語ります。今日お読みしました聖書箇所において、パウロはこ れまで語ってきたことの帰結がいったい何であるかを明らかにしているのであ ります。
神はわたしの味方である
それでは31節から34節までをお読みしましょう。「では、これらのこと について何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、 だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子を さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜 らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。 人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることが できましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イ エスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 (31‐34節)」
もし神がわたしたちの味方であるならば――。これは事実に反する仮定では ありません。言わんとしていることは「神がわたしたちの味方なのだから」と いうことです。そして、今まで読んできたところから明らかなように、その根 拠はキリストにあります。神が、この歴史においてただ一度決定的に、ご自身 の愛を現わしてくださった出来事に、その根拠を見ているのです。それは「わ たしたちすべてのために、御子をさえ惜しまず死に渡された」という出来事で あります。
パウロがこの言葉を用いる背景には、旧約聖書における一つの物語がありま す。それは、アブラハムが自分の子であるイサクを神に捧げたという物語です。 (創世記22章)その時、アブラハムはモリヤの山にイサクを連れて行き、祭 壇を築き、焼き尽くす献げ物として捧げるために息子を屠ろうとしたのです。 その直前で神はアブラハムを止められ、こう言われたのでした。「あなたは、 自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」伝 承によれば、このモリヤの山はエルサレムの神殿のあるシオンの山を指します。 (歴代下3・1)同じエルサレムにおいて、今度は神ご自身が独り子を惜しまず、 私たちのために死に渡されたのでした。その事実のゆえに、パウロは「神は味 方である」と言うのです。
根拠はキリストであるということは、どれほど強調しても強調し過ぎること はありません。というのも、私たちはしばしばキリストから目を逸らし、他の ところに根拠を求めようとするからです。私の願いが叶ったか叶わないか。私 の悩みが解決されたかされないか。私の病気が癒されたか癒されないか。自分 の願っていた通りになれば、「ああ、本当に神様は私の味方だ」と言い、願い 通りにならなければ「神様は私に敵対しているのだ」と考える。しかし、パウ ロは、そのような目の前のことを見て言っているのではないのです。
「神がわたしたちの味方であるなら」というこの言葉で、私は一人の方を思 い出します。以前、私どもの教会で賛美を歌い、証しをしてくださった、カレ ン・エリクソンさんです。彼女はメトロポリタン・オペラハウスの歌手でした。 しかし、私どもの教会に来てくださった時には、ガンの手術をされた後でした。 その彼女が、こんな話しをしてくださったことを思い出します。彼女は手術後、 ガンの再発を恐れていました。そして、その思いをお友達に話されたそうです。 するとその人は言いました。「私たちは神様が味方であることを知っているわ。 きっと大丈夫よ。」でも、その時、カレンさんはその方にこう言ったそうです。 「ちょっと待って。もしガンが再発したとしたら、それは神様が味方ではない ということになるの?」――さて、どう思われますか。彼女は、この教会でこ う語られました。「たとえ神様が、私を百歳まで生きるようにとお考えになら なかったとしても、神様は私の味方であることには変わりないのです。」彼女 はどこを見ていたのでしょう。病気とその癒しではなく、神が与えてくださっ た独り子、イエス・キリストに目を向けていたのです。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、 御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 既に読んできましたところから明らかなように、パウロが仰ぎ望んでいるのは、 救いの完成であります。神の国を受け継ぎ、神の栄光を受け、永遠の命にあず かるその時を、確信を持って待ち望みつつ、これを語っているのです。最終的 な救いを得ずしては何も得ないのと同じです。しかし、神の栄光にあずかるな らば、それはすべてを得ることでもあるのです。独り子を与えてくださった神 から、最善以外の何を期待することができるでしょう。要するに、パウロはそ う言っているのです。
しかし、もちろんパウロは、終わりの日が審判の時でもあることを知ってい ます。既に2章において、次のように書かれているのを私たちは見てきました。 「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えて います。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 (2・5)」神は神であられるゆえに、正しく世を裁かれます。神は義を貫か れるのです。神の正しさの基準は神の律法です。それはただユダヤ人だけに与 えられているのではありません。異邦人もこの裁きを免れないのです。なぜな ら、異邦人はその心に神の正しい要求が書き記されているからです。そして、 パウロは言います。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々 の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょ う。(2・16)」ただ人の目に明らかなことだけではありません。隠れた事 柄が問われるのです。
このような審判において、私たちを訴える声が上がるでしょう。私たちの罪 を指摘されるならば、恐らく、どれもこれも真実だ、と認めざるを得ない訴え であるに違いありません。私たちは抗弁できません。パウロはここで、最後の 審判において告発するサタンを考えているのかも知れません。それがサタンで あれ、誰であれ、隠れた事柄を裁き給う神の前で訴えられたら、私たちは抗弁 のしようがありません。
パウロは、このような最終的な神の審判を軽く考えはしません。しかし、な お彼は言うのです。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義と してくださるのは神なのです。」パウロは、再びキリストを仰いで語ります。 神が私たちのために与えてくださった独り子を仰ぐのです。その方において、 私たちの罪の贖いは成し遂げられました。それゆえ、他ならぬ神が私たちを義 とし給うのです。私たちを裁き給うそのお方、それゆえ唯一私たちを義とする ことのできるお方が、私たちを義とし給うのです。
ですから、私たちを誰も罪に定めることはできません。神が私たちを罪に定 めないならば、他の誰も罪に定めることはできません。その神の右には、復活 されたキリストがおられます。神の権威の座に、キリストはおられます。その キリストが、私たちのために執り成してくださっているのです。王の王たる方、 主の主であられる方が、哀れな罪人なる私たちのために執り成してくださって います。そのお方は、私たちを愛し、ご自身を捨てられ、私たちのために十字 架にかかられ、死の苦しみを味わわれた方でありました。復活されたキリスト の手には、その十字架のしるし、釘の跡がありました。復活の栄光の姿であり ますのに、その手とわき腹には、十字架における死の苦しみの跡がありました。 キリストが執り成してくださるとは、そのご自身の成し遂げられた御業をもっ て、私たちのために執り成してくださると言うことです。この方だけが、私た ちの罪を執り成すことのできるお方なのです。
私の好きな詩にこんな一節があります。
わたしは主イエスに問うた、
あなたはどれほどわたしを愛してくださっていますか
主イエスは答えられた、手を伸ばし、「これほど」と…
そして十字架の上で死んでくださった、わたしのために。
私たちのために執り成してくださっているのは、このようなお方です。それ は何故に?その根拠や理由は、私たちの側にはありません。私たちが愛される に値するから愛され、赦され、執り成されているのではありません。それは純 粋に神から出たことです。それゆえ、パウロの最終的な確信は、何ものもこの 愛から私を引き離すことはできない、という確信でありました。
何ものも神の愛から引き離せない
それでは、35節から39節までをお読みしましょう。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱
難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
『わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている』
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたち
は、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わ
たしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも
、 未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他
のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛
から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(35‐39節)」
艱難、苦しみ、迫害…これらは人間が人間に対して為し得る事柄です。人間 は苦しみを与えることができるでしょう。迫害することもできるでしょう。剣 をもって殺すことさえできるでしょう。これらは、恐らくパウロ自身の経験か ら出た言葉であろうと思われます。彼は、最終的には命を脅かす迫害者の剣す ら、受けなくてはならないかも知れないと考えているのです。それはパウロに とって、不思議なことではありませんでした。なぜなら、既に聖書に記されて いるからです。彼がここに引用しているのは、詩編44編23節です。そこに 記されているのは、信仰者の苦しみです。いや、恐らく、苦しむ信仰者の姿を 聖書に求めるならば、その例は枚挙にいとまがないでしょう。さて、今日の私 たちは、必ずしもパウロと同じような迫害や艱難を経験することはないかも知 れません。しかし、どのようなことにせよ、キリストを信じて神の子とされる ことは、決して苦しみの免除を意味しないことを、私たちもやはり聖書の言葉 と実生活から、同じように知らされているのではないでしょうか。
しかし、パウロはそこでなお「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、 わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と宣言 するのです。苦難が過ぎ去ったからではありません。苦難は終わりの日まで続 くでしょう。しかし、その苦難のただ中で、「勝ち得て余りあり!(文語訳) 」と叫んでいるのです。なぜでしょうか。彼はただ一つ、揺るぎ無い事実を知 っているからです。それは、だれもキリストの愛から私たちを引き離すことは できない、ということです。いかなることがあろうとも、それらは私たちを、 キリストの愛の届かないところに連れ去ることはできないのです。カレンさん が礼拝の中で歌ってくれた歌が、今も私の心の中にこだまします。
イエスがいるから 明日は恐くない
イエスがいるから 恐れは消え
彼が未来をつかんでいてくださるから
人生は素晴らしい イエスがいるから
キリストの愛から引き離されないならば、その人は絶対に敗北者にはなりま せん。キリストの愛から引き離されなければ、勝利は既にそこにあるのです。
そして、パウロが視野に入れているのは、ただ人間が人間に対して為し得る ことだけではありません。人間を超えた力でさえ、恐れるに足りないことを示 します。「天使も、支配するものも」というのは明らかに超自然的・霊的な被 造物を指しています。また、その後の「現在のものも、未来のものも」は時間 的な広がり、「高い所にいるものも、低い所にいるものも」は空間的な広がり を示しています。何時いかなる所のものも、ということです。そして、その先 頭の「死」と「生」とが置かれています。これは要するに「死のうが生きよう が、神の愛から離されることはない」ということでしょう。何という勝利の宣 言でしょうか。私たちは、カレンさんを再びお招きしたいと願っておりました が、そのことは叶いませんでした。姉妹は1997年8月30日、この地上の 生涯を終えられました。彼女はガンに負けたのでしょうか。いいえ、そうでは ありません。死に負けたのでしょうか。いいえ、そうではありません。死は彼 女を神の愛から引き離すことはできないからです。カレンさんの言っていたよ うに、神は人生の最後まで彼女の味方でありましたし、今もなお彼女の味方な のです。そして、パウロを愛し、カレンさんを愛し給うた神は、また私たちを も愛し給う神なのです。
死のうが生きようが、何をもってしようが、私たちはキリスト・イエスにおい て現わされた神の愛から離されない。これ以上何を言うことがあるでしょう。 人間にとって、これ以上の何を知る必要があるでしょう。人間にとって、これ 以上に意味を持つ何があると言うのでしょう。ここにキリストに結ばれる者の 救いがあるのです。