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「目を覚ましていなさい」

1998年11月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ24・36‐44

 今日からアドベント(待降節)に入りました。アドベントは、キリストが再 びおいでになられる終末を覚える期間であります。使徒信条において私たちは 次のように告白しています。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁 きたまわん。」生ける者と死ねる者とを裁くお方としてキリストが来られる。 その時を覚えて過ごすこの期間は、クリスマスの前祝いではありません。私た ちにとって悔い改めの時であります。

 終わりの時がある。これは大切な認識です。この人生におきましても、今の 世におきましても、終わりが来るのです。しかし、終末とキリストの再臨が誤 った仕方で語られますと、それはあるべからざる熱狂を生み出します。そして、 熱狂はしばしば、終わりの日がいつであるかとの予告によって引き起こされて きました。もう6年ほど前になりますが、1992年10月に、韓国において 大騒ぎがありました。その年の10月28日の午前0時にキリストが再臨され るという教えが国中に広まったのです。その時、多くの人が仕事を辞めてしま ったり、全財産を売り払って献げたりしました。献げることが主への愛と真実 からなされたのなら、ある意味で問題はなかったのかも知れません。しかし、 どうも「再臨の日が明らかになったから」ということで、そのような行動に走 る場合、事情は異なるようです。結局、キリストの再臨はありませんでした。 そのため中心になっていた教会や教職が訴えられました。なんとも悲しい話で す。

 そのような熱狂は聖書が書かれた時代にまで遡るようです。36節をご覧く ださい。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。た だ、父だけがご存じである。(36節)」ここに、キリストの言葉が記されて おります。ほとんど同じ形で、マルコによる福音書にも記されております。こ のようなことが記された背景には、教会においてキリストの再臨の日が予告さ れ、それが熱狂を引き起こすという出来事があったのでしょう。そのような動 きに対して、キリストの言葉は警告を与えています。その日は、天使たちも子 も知らない。すなわち、キリストご自身さえ「知らない」と言われるのです。 キリストさえ知らないことを、人が「知った」と言って騒いではならないので す。

 世紀末ということで、世の終わりに関して様々なことが語られる時代です。 確かに、この世界の現状を見ます時、「世も末だ」と思わされることが多いこ とも事実です。しかし、だからこそ私たちは冷静によく考えなくてはなりませ ん。間違っても、つまらぬ熱狂に引き入れられてはならないのです。私たちに とって、大切なことは、終わりの日がいつであるかを詮索することではありま せん。36節から44節を読みます時に、キリストは終わりの日を語りつつも、 むしろ「今」を問題にしていることが分かります。私たちにとっても、大切な のは「終わりがいつか」ということではなくて、今この時をいかに生きるか、 ということなのです。

ノアの時と同じ

 それでは37節から41節までをご覧ください。「人の子が来るのは、ノア の時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人 々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って 来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、こ のようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう 一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一 人は残される。(37‐41節)」

 ノアの洪水については創世記6章以下に記されております。その物語の最初 の部分にこのように書かれております。「この地は神の前に堕落し、不法に満 ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこ の地で堕落の道を歩んでいた。(創世記6・11‐12)」そして、神は地を 裁き、洪水を起こすことをノアに予告するのです。そして、裁きに備え、神は ノアに箱舟を作ることを命じたのでした。

 その大きさは「長さ三百アンマ、幅五十アンマ、高さ三十アンマ」と書かれ ています。一アンマというのは人間の肘から指先までの長さです。今の度量衡 に直しますと、この箱舟は長さ約135メートル、幅約23メートル、高さ約 14メートルとなります。巨大な舟です。なぜこんなに大きな舟を作るように 命じたのでしょうか。日曜学校の生徒でしたら、「たくさんの動物を入れるか ら」と答えるかも知れません。それも間違いではないでしょう。しかし、何よ りも大切なことは、この巨大な舟そのものがこの世に対する「しるし」であっ た、ということです。ノアがこの巨大な舟を作って備えていることそのものが、 この世に対する裁きの宣言であり、悔い改めの呼びかけでもあったということ であります。

 そうしますと、裁きの前に問われていたのは、彼らが「堕落しているか否か 」ということではなかったことが分かります。少なくともイエス様はそう見て いないことが分かります。マタイ24章38節をもう一度ご覧ください。主は、 「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は堕落し、悪に悪を重 ねていた」とは言っておりません。そうではなくて「ノアが箱舟に入るその日 まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と書いてある のです。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりすることは悪いことでしょう か。そうではありません。では何が問題なのでしょう。主は、堕落や不道徳そ のものを問題にしているのではなくて、神の裁きに対する無関心、神の呼びか けに対する無頓着を問題にしているのであります。

 やがて、私たちの人生が問われる時がやってきます。絶対者の前に問われる 時が来るのです。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりすること自体、それ は悪ではありません。それらが禁じられているのではありません。主が求めて おられるのは単なる禁欲ではありません。日常の様々な必要を満たすために労 苦することは必要でしょうし、与えられている様々な機会に大いに喜び楽しむ ことは、決して悪ではないでしょう。しかし、問題は、それらがすべてになっ てしまうところにあるのです。良い暮らし、恋愛と結婚、自己実現…その他日 常に関わることのみが人生のすべてとなっており、最終的に神との関係が問わ れるその時に向かっているのだ、ということが視野に入っていないことが問題 なのです。終わりの時に対して無関心であり、備えがなされていないことが問 題なのであります。

 備えがなされていなかった故に、洪水が滅びをもたらしました。キリストが 再臨される終わりの時にも同じであると語られます。そこで、この世の目にお いては全く同じことをしているようであっても、終わりに備えている人とそう でない人は決定的に分けられると語られております。神の裁きに対して無関心 であり無頓着であったか否かが明らかにされる時が来るのです。「一人は連れ て行かれ、もう一人は残される」というのは、そういうことです。

だから、目を覚ましていなさい

 それゆえ、主は厳かに命じられます。「だから、目を覚ましていなさい。」 42節から44節までをお読みしましょう。「だから、目を覚ましていなさい。 いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからで ある。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやっ て来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせ はしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけ ない時に来るからである。(42‐44節)」

 大切なことは、キリストの再臨の時が何時であるかを詮索することではあり ません。目覚めていることなのです。それが意味することは、既に申し上げて きたことから明らかなように、最終的に神との関係が問われるその時に向かっ ていることを覚えて、備えつつ生きることに他なりません。それをイエス様は 大胆にも、泥棒から家を守る主人に喩えられました。泥棒が来ることを知らさ れていながら、それに関心を持たず眠りこけているならば、それはまことに愚 かなことであるに違いありません。しかし、泥棒の話であるならば、その愚か さはまだ取り返しがつきます。神の審判に対して無頓着である愚かさは取り返 しがつきません。ですからなおさら目覚めていなくてはならないのです。キリ ストは私たちの予想しない時に、思いがけない時に、来られるからです。そこ で必要なことは用意していることです。

 主が意味するところをもう少し具体的に理解するには、聖書の他の箇所を見 ておくことが助けになるでしょう。例えば、パウロがこの言葉をどのように用 いているかを見ると、この主の言葉を当時の教会がどのように受け止めていた かが分かります。

 まず、テサロニケの信徒への手紙(一)5章6節以下をご覧ください。「従 って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょ う。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属 していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、 身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わ たしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたの です。(1テサロニケ5・6‐9)」

 目を覚ましているということが、身を慎んでいるということと結びつけられ ております。そして、「身を慎む」というこの言葉は「しらふ」を意味します。 酔っていないということです。ですから、その後で「身を慎む」ということの 反対が、酒酔いの酩酊に喩えられております。酒酔いの酩酊が表しているのは、 私たちの人生のどのような現実でしょうか。少なくとも酒酔いに「真実」とか 「責任」とか「忍耐」とかの言葉は結びつかないでしょう。むしろ結びつくの は「不真実」「無責任」「現実逃避」です。つまり、ここに言い表されている のは、忍耐を欠いた現実逃避です。刹那的な快楽を求める欲望に身を任せて自 らの現実を誤魔化し、忍耐強い真実なる生き方を放棄することです。すなわち これは、最終的に判断し審判するのは人間ではなく、神であることを見失った 生き方に他なりません。そうしますと、「身を慎んでいましょう」というのは、 そのように酔っていてはならない、ということです。それでは、どのようにし て身を慎んで生きたらよいのでしょう。どうしたら「しらふ」な者として生き られるのでしょう。パウロは言います。「信仰と愛とを胸当てとして着け、救 いの希望を兜としてかぶり…」こうして、身を慎んで生きることが可能となる のです。つまり、これは道徳に関わることであるより、むしろ信仰に関わるこ となのです。信仰によって、救いの希望をしっかりと自分のものとしているこ とが必要なのです。

 もう一箇所見ておきましょう。ローマの信徒への手紙13章11節以下をご 覧ください。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あ なたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰 に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。 だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むよう に、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと ねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させよう として、肉に心を用いてはなりません。(ローマ13・11‐14)」

 ここでパウロは眠りこけている人々に対して語っています。しかも、信仰者 であって眠りこけている人々です。眠りから覚めるべき時が来た、と言います。 なぜでしょう。信仰に入った時よりも、救いの時、すなわち終わりの時が近づ いているからです。どれだけ近づいているかを彼は問題にしておりません。私 たちにとっても、それは大切なことではありません。時は逆行しない、絶対に 元には戻らないということだけ分かっていれば十分です。昨日よりは今日、今 日よりは明日、確実に終わりに近づいているわけです。ならば、いつまでも眠 りこけていて良いはずがありません。

 眠りから覚めるということは、闇の行いを脱ぎ捨てることだとパウロは言い ます。闇の行いというのは、闇の中において初めて為し得ることであり、光に 曝されれば恥でしかないような行いのことです。パウロは具体的にそれらを例 示します。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ。光に曝されれば恥でしか ないこれらを脱ぎ捨てなさい、とパウロは言います。いつまでもそんな惨めな 哀れなぼろぼろの着物を着ていてはならないのです。そんなものを着て闇の中 に留まるために私たちの人生があるのではありません。主イエス・キリストを 身にまといなさい、と彼は言います。それはイエス・キリストに結ばれた新し い生活を意味しております。そのように、イエス・キリストを身にまとい、光 の内を歩むことこそ、目を覚まして生きることに他なりません。

 主は終わりの日について語りつつも、私たちの「今」がいかなるものである かを問われます。そして、命じられます。「目を覚ましていなさい。」ところ で、マタイによる福音書において、「目を覚ましていなさい」という命令は、 四回しか出てきません。その内の二回はゲッセマネの祈りの場面に出てきます。 印象的なのは26章41節の言葉です。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈 っていなさい。」主の苦悩を横にして眠りこけている弟子たちの姿。それは単 にそこにいたペトロたちが描かれているというよりも、彼らの姿に教会の姿が 重ね合わされていると見てよいでしょう。その彼らに、また教会に、主は「誘 惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と語られます。祈りを失って、 人は目覚めて生きることはできないということでありましょう。

 
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