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「荒れ野で叫ぶ者の声」

1998年12月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ3・1‐12

                 マタイによる福音書には、弟子たちや民衆に対する主イエスの長い説話が五 つほど出てきます。マタイは何のためにそれらを書き記したのでしょうか。言 うまでもなく、その時代の教会に聞かせるためです。マタイによる福音書には、 また、主イエスによるユダヤ教指導者たちに対する厳しい批判の言葉が記され ています。マタイは何のためにそれらを書き記したのでしょうか。この福音書 はユダヤ教徒を直接の読者としてはいません。彼は論争のためにこの書を記し たのではありません。ならば目的は明らかです。その時代の教会に聞かせるた めです。主がユダヤ教指導者たちに語られた批判の言葉は、そのまま教会に対 する警告の言葉となっているのです。マタイによる福音書には、他の福音書と 同じように、主の先駆けとして洗礼者ヨハネのことが記されています。ヨハネ の口から出る厳しい言葉がファリサイ派やサドカイ派の人々に対して投げかけ られています。マタイは何のためにこれらを書き記したのでしょうか。ファリ サイ派やサドカイ派の人々に聞かせるためではありません。そもそもマタイの 時代には、サドカイ派はもはや存在しないのです。これはキリスト者に聞かせ るために書かれたのです。

   人々に対して悔い改めが呼びかけられています。それは私たちに対して悔い 改めが呼びかけられていることを意味します。彼はメシアの到来のために道を 備えようとしています。私たちは既にメシアが来られたことを知っています。 そして、そのお方が終わりの日に再び来られることを信じ、告白しております。 洗礼者ヨハネの言葉が主の第一の到来への備えであったように、今日聞かれる 彼の言葉は、私たちにとって主の第二の到来への備えです。それゆえに、待降 節においてこの聖書箇所が読まれているのです。待降節は悔い改めの期間であ ると先週申し上げました。私たちは、そのことを心の覚えつつ、今日与えられ ている聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。

  悔い改めよ、天の国は近づいた

   はじめに1節から6節までをお読みいたしましょう。「そのころ、洗礼者ヨ ハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた 』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ 野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨ ハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物として いた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一 帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を 受けた。(1‐6節)」

   洗礼者ヨハネという人物が突然現れます。ルカによる福音書にはその出生に ついての記述がありますが、マタイには書かれておりません。ヨハネなる人物 が誰であるかということには関心がないようです。関心が向けられているのは その働きです。キリストとの関わりにおいて、彼が何を為したか、ということ です。聖書はこのヨハネについて「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言います。「主 の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と言うのです。主が来 られるために道が整えられなくてはなりません。救い主をお迎えするために道 が整えられなくてはなりません。

   それはいかなることでしょうか。ヨハネは叫びます。「悔い改めよ。天の国 は近づいた。」道が整えられるために求められているのは悔い改めです。救い の到来に備えて整えられなくてはならない道は悔い改めです。悔い改めなきと ころに救いはありません。悔い改めとは、単に悔いることではありません。罪 の結果を悲しむ人はたくさんいます。後悔する人はいくらでもいます。後悔か ら自己嫌悪に至る人もあるでしょう。しかし、いかなる後悔も自己嫌悪も、そ れ自体は救いをもたらすことはありません。では反省をしたらよいのでしょう か。ただ後悔するよりは良いに違いありません。しかし、悔い改めというのは 反省を伴うものであるとしても、単なる反省ではありません。悔い改めとは方 向を変えることです。悔い改めとは神への復帰です。神を離れた生活、神に逆 らった生活の方向転換をし、神に立ち帰ることなのです。これは後悔とは違っ て、人間のうちから自然に出てくるものではありません。これは神の側からの 呼びかけ、神の言葉があって始めて可能となる出来事です。ですから、繰り返 し預言者が遣わされたのでした。ここでも洗礼者ヨハネが神によって遣わされ、 悔い改めへの呼びかけがなされているのです。

   方向転換をして神に立ち帰ることが呼びかけられているのは、「天の国は近 づいた」からです。天の国というのは、いわゆる極楽のことではありません。 ユダヤ人が「天」という時、それはしばしば神を意味します。神の名を口にす ることを避けて「天」と呼ぶのです。それゆえ「天の国」とは「神の国」に他 なりません。神の国とは、神の支配を意味します。神が王として治め給うこと です。神が治め給うところに救いがあります。悪魔が支配するのでもなく、罪 が支配するのでもなく、死が支配するのでもなく、神が治め給うところに救い があるのです。ですから、「天の国は近づいた」とは「救いが近づいた」とい うことに他なりません。

   しかし、救いがあるところに裁きもまたあります。救いと裁きは同じ神の行 為の裏表です。これは少し考えれば誰にでも分かることです。神の完全なる支 配は、神を愛する者にとっては救いです。しかし、神を憎む者にとっては恐る べき裁きです。神に従う者にとっては救いですが、神に逆らう者にとっては恐 るべき裁きです。世が救われる時は世が裁かれる時でもあります。だから、悔 い改めが呼びかけられているのです。方向転換です。神への復帰です。この悔 い改めへの呼びかけに応え、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川 沿いの地方一帯から、人々はヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で 洗礼を受けたのでした。

  悔い改めにふさわしい実を結べ

   続いて7節から10節までをお読みしましょう。「ヨハネは、ファリサイ派 やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の 子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさ わしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言って おくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおでき になる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り 倒されて火に投げ込まれる。』(7‐10節)」

   ファリサイ派やサドカイ派の人たちが大勢ヨハネのもとに来ました。これは 驚くべきことです。彼らは荒れ野にいるヨハネのもとにまで来て、洗礼を受け ようとしました。これは、少なくとも彼らが神の絶対的な支配とその裁きとを 真剣に考えたということを意味します。彼らは、自分自身が神との関わりにお いて危機的状況にあることを理解したのでした。ですから、神の怒りを免れよ うとしたのです。それは理解できます。私たちも、神の怒りと裁きが語られま す時に、やはりその怒りを免れたいと思うことでしょう。

   しかし、単に神の怒りを免れようとすることと、悔い改めとは異なるのです。 多くの人は、危機に直面した時、あるいは苦悩の内にある時、単に逃れようと いたします。神との関係において、何が間違っていたのかを考えようとしませ ん。人生の方向が神に対して正しくないことを真剣に考えようとしないのです。 どうしたら逃れられるか、ということしか考えません。しかし、それは腐った 根っこをそのままにしながら、葉っぱの部分だけを何とか繕って小綺麗にしよ うとするのと同じです。根っこが腐ったままでは、葉は茂ったとしても実を結 ぶことはありません。

   ですから、ヨハネは彼らに対して厳しい言葉をもって「悔い改めにふさわし い実を結べ」と言うのです。これは単に「善い行いをしなさい」とか「善い人 間になりなさい」ということではありません。実は命の通うところに実るもの です。ですから、根元的に問題とされているのは神との関係に他なりません。 求められているのは、苦境や危機を逃れようとすることではなくて、真に神に 立ち帰る悔い改めなのです。悔い改めて神と共に歩む生活です。

   そのためには、悔い改めを妨げる一切の拠り所が捨て去られなくてはなりま せん。例えば、ユダヤ人としてのアイデンティティです。「我々の父はアブラ ハムだ。」そのような思いは、かえって真の悔い改めの妨げになるのです。 「だからどうした。」そうヨハネは言っているのです。「言っておくが、神は こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」つ まり、真の悔い改めをなし、ふさわしい実を結ぶことの大切さに比べたら、ア ブラハムの子だ、などという主張は大した意味を持たない、ということです。 むしろそれらは捨て去られなくてはなりません。

   そして、これが単にユダヤ人の問題でないことは、続く10節とほぼ同じ言 葉が、後に再びキリストの言葉として出てくることからも分かります。(7・ 19)マタイはこれを教会の問題として考えているのです。私たちの問題なの です。すなわち、悔い改めなしで救いが確保されているかのように語るもろも ろの言葉は取り除かれなくてはならない、ということであります。

  聖霊と火で洗礼を授ける方

   最後に、11節から12節までをお読みしましょう。「わたしは、悔い改め に導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方 は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ち もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手 に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消え ることのない火で焼き払われる。(11‐12節)」

   ヨハネが来るべきメシアをどのように考えていたかが、この言葉から分かり ます。メシアは裁き主として描かれています。神の国は近づきました。神の国 はメシアによるすみやかなる裁きによってもたらされると、ヨハネは言ってい るのです。その方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」ヨハネ がこの言葉で純然なる裁きを意味していたことは、その後の描写から明らかで す。ここでイメージされているのは脱穀の様子だからです。農夫が箕をもって 麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は 焼き払われることになります。そのように、メシアを通して行われる最終的な 神の裁きも行われると言うのです。この関連で「聖霊と火による洗礼」も語ら れております。明らかに「火」とは裁きの象徴です。では、聖霊はどうでしょ う。ヨハネは、単純にこれによって神の霊を意味していたのではなさそうです。 実は、ヨハネが使っていたであろうアラム語にしても、福音書に用いられてい るギリシャ語にしても、「霊」と「風」とは同じ単語なのです。ですから、ヨ ハネが意図していたのは「聖なる風」ということです。そうしますと、脱穀の イメージから言って、こちらももみ殻と麦を吹き分ける裁きの象徴であること が分かります。要するに、ヨハネはあくまでも、最後の裁きをなさる方として のメシアを語っているのです。

   さて、この点においてヨハネは正しかったでしょうか。彼が「わたしの後か ら来る方」と呼んでいる方、イエスというお方はそのようなお方でありました でしょうか。いいえ、メシアはその第一の到来において、そのようなお方とし ては来られませんでした。主イエスのお姿が、ヨハネの期待を裏切ったであろ うことは、後にヨハネが使いを送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。そ れとも、ほかの方を待たなければなりませんか。(マタイ11・3)」と尋ね させたことからも明らかです。

   しかし、本人が意図しなかったにも関わらず、言葉そのものが正しいことを 語っているということは、聖書の預言においてしばしば見られることです。確 かに来るべき方、主イエスは「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」 方でありました。この言葉の正しさは、弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生し たあのペンテコステの日に明らかにされたのです。主イエスは、人を罪に定め、 裁きを執行する方としてではなく、人を罪から救う方として来られました。そ れゆえ、主は吹き分ける箕を手に持つ方としてではなく、私たちの罪を担い、 十字架を背負われる方としてこの世に来られたのです。主は十字架にかかられ、 罪のあがないを成し遂げてくださいました。そして、天に上げられた主は、信 ずる者に聖霊を注がれるのです。主イエスこそ、聖霊と火で洗礼をお授けにな るお方です。

   「天の国は近づいた」とヨハネは言いました。「天の国」は、聖霊において 神の治め給うところに、既に始まっております。私たちは、罪を赦され、聖霊 を与えられ、神の支配のもとに生きることができるのです。神の支配あるとこ ろに、神の救いがあります。そして、神の支配は終わりの日の完成へと向かっ ているのです。神の支配は再びキリストが来たり給う終わりにおいて完成する のです。それは救いが完成する時を意味します。同時に完全なる裁きが現れる 時でもあります。救いと裁きは一つだからです。

   それゆえ、今日の私たちになお、悔い改めが呼びかけられているのです。 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これは私たちに語りかけられている言葉 です。悔い改めが呼びかけられている時は恵みの時です。パウロは、「今や、 恵みの時、今こそ、救いの日(2コリント6・2)」と言いました。私たちは、 悔い改めることを軽んじて、神の恵みを無駄にしてはならないのです。

 
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