「天国で最も小さい者でも」           マタイ11・2‐11  クリスマスが近づいてまいりました。クリスマスは、あのナザレのイエスと いうお方の誕生によって、キリストすなわちメシアが到来したことを記念する 祭りです。もっとも、主イエスが実際に何月の何日に生まれたかは定かではあ りません。ですから歴史的には四月や八月などに祝われたこともあるようです。 もともと12月25日はローマにおける冬至の祭りでありました。そのゆえに 伝統的にクリスマスを祝わないという教会がないわけではありません。いわゆ る「誕生日」ではありません。しかし、それにもかかわらず、このように日を 定めて、キリストがこの世に来られたことを記念することは、意味あることで あろうと思います。それはキリストが到来した事実そのものに意味があるから です。大切なことは、その意味をよくわきまえることです。そこでアドベント の第三の主日である今日、私たちはキリストの御降誕の意味を考えつつ、与え られている聖書の御言葉に耳を傾けたいと思うのであります。 洗礼者ヨハネの疑い  それではまず2節から3節までをご覧下さい。「ヨハネは牢の中で、キリス トのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。 『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなり ませんか。』(2‐3節)」  ここに信仰の揺らいでしまった人がいます。自分の信じてきたことに疑問を 持ち始めた人がいます。洗礼者ヨハネほどの人が、いったいどうしたというの でしょうか。  先週、私たちはマタイによる福音書の3章を読みました。洗礼者ヨハネの宣 教について記されておりました。彼は来るべきメシアの先駆者であり、道備え をした人です。その道備えとは、悔い改めを宣べ伝えることに他なりませんで した。「悔い改めよ。天の国は近づいた。(3・2)」これが彼のメッセージ でした。このことのために、彼は神の怒りと裁きとを臆することなく語ったの です。アブラハムの子孫を自負するユダヤ人たちに、宗教的な指導者たちに対 しても、彼は神の怒りと裁きとを告げました。そして、悔い改めにふさわしい 実を結ぶことを求めたのです。彼は人間の罪、この世の罪と悪の現実に対して、 しっかりと目を見開いていた人でありました。ヨハネは、この世界が神の正し さの前に耐え得ない世界であることを思わずにはいられませんでした。そして それゆえに、悔い改めを宣べ伝えることによって、この世の罪と悪に対して戦 いを挑まざるを得なかったのであります。彼はこの戦いのためにひとり荒れ野 に立ちました。まさに彼は荒れ野に呼ばわる者の声そのものでした。彼は、神 と共に、この世の罪を嘆き、悲しみ、怒り、そしてこの世の罪のゆえに苦しん だ人でありました。  11章に至り、彼は今、牢獄の中におります。なぜでしょうか。罪との戦い のゆえでした。事の顛末は14章に記されております。ヨハネは果敢にも、領 主ヘロデの罪を指摘し、その淫行を糾弾したのです。しかし、権力の前に為す すべもありませんでした。彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように自 分の兄弟の妻ヘロディアと生活を共にしております。正しくない者がそのまま 平和に生活し、正しい者が獄中で苦しんでいるのです。しかし、ヨハネにとっ て、そのような結末は、予想外のことではなかったに違いありません。そのよ うな不条理こそ、まさに罪深い世の現実なのだ、ということを知っていたから です。それゆえ、彼の待望は、神の正しい裁きが世に現れることでありました。 神が正しい神であられるなら、そのようなこの世界をそのままにはされないは ずだからです。不可解極まりない世の出来事に、正しい神ご自身が決着を付け られるはずだからです。  ヨハネにとって、メシアが到来する終わりの時というのは、まさに神の支配 が完全に現れ、すべてに決着が付けられる時に他なりませんでした。ですから、 ヨハネにとって、来るべきメシアとは、神の裁きを実現する者以外の何者でも ないのです。彼が描き出していたメシア像を思い起こしてください。それは箕 を手にした方であります。麦と殻を打ち分けられる方なのです。それは、悪を 悪として裁き、正しいことを正しいこととして認めてくださる方です。神に従 う者と神に逆らう者とを分けてくださる方なのです。麦と殻は一緒にされては ならないのです。  彼は投獄され、最終的な神の審判への期待はいよいよ高まっていったに違い ありません。そして、イエスというお方が現れた。ヨハネは、この方こそ「来 るべき方」すなわちメシアであると信じ、その働きに注目していたのです。し かし、何一つ期待通りのことは起こりませんでした。伝え聞くことは、イエス という方が病に苦しむ人々を癒されたこと、民衆を集めて教えておられること、 そして罪人や徴税人を集めては一緒に食事をしているというようなことであり ました。依然としてヨハネは獄中におり、ヘロデは裁かれることなく生活して いるのです。麦と殻を吹き分ける風はどうしたのでしょう。殻を焼き払うはず の火はどこにあるのでしょう。ヨハネの確信は揺らぎました。ヨハネは主イエ スの行動に疑念を覚えざるを得ませんでした。それゆえ、彼は自分の弟子たち を送って、尋ねさせるのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、 ほかの方を待たなければなりませんか。」  この問いは、古くから教会に投げかけられてきた問いであります。あのナザ レのイエスという方がメシア・キリストであるならば、神の裁きはいったいど うなってしまったのだ、という問いであります。もっと簡単に言えば、この世 界においてあのナザレのイエスという方は意味を持つのか、という問いであり ます。依然として、罪の力が君臨しているこの世界、不条理なままのこの世界、 神不在のまま完結しているように見えるこの世界です。あのお方が来られても、 この世界は何一つ変わっていないように見えるのです。私たちもまたそこで揺 らぎます。「来るべき方は、あなたでしょうか」という疑問が起こらざるを得 ないのです。 神の国のしるし  しかし、この問いに対して主御自ら答えられました。私たちにとっても大切 なことは、主の答えを聞くことです。4節以下をご覧下さい。「イエスはお答 えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見え ない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳 の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされて いる。わたしにつまずかない人は幸いである。』(4‐6節)」  これが主の答えでした。これは単に「わたしは不思議なことを行っているで はないか。だからメシアに違いないのだ」と言っているのではありません。そ れでは現代の新興宗教と少しも変わりません。実は、主の言葉は、その背景を 旧約聖書に持っているのです。そこからでないと理解できないのです。  例えば、イザヤ書35章3節以下をご覧下さい。そこにはこう書かれており ます。「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心お ののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報 復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われ る』と。その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようにな る。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌 は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼 けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、 よしの茂りあう所となる。(イザヤ35・3‐7)」  聖書にはこのような奇跡の描写が至るところに記されております。そして、 このような奇跡は、最終的な神の救いの御業、完全なる神の支配を指し示すも のとして描かれております。神の救いが奇跡の描写によって表現されていると いうことは、何を意味するのでしょうか。それは、最終的な救いが人からでは なく、まったく神の側から、神の御業として来ることを意味しているのです。 つまり、それは人間の手による理想の実現とは完全に異なるのです。救いは神 によるのです。  そして、主はこのような旧約聖書の言葉をもって、ご自分のことを説明され たのでした。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見え ない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳 の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされて いる。」つまり、旧約聖書によって預言されている神の救いの御業は既に始ま っているということです。神の支配は既に始まっているということです。主の 御業はその事実を指し示しているのだ、ということであります。  福音書は主イエスの奇跡の業を、特に病気の癒しの奇跡を、多く記しており ます。そして、このような奇跡は、キリスト教会の歴史において決して希なる ことではなく、今日においてもなお見られることであります。しかし、主は癒 しそのものを最終的な救いとして人々に与えたのではありませんでした。奇跡 が起こること自体が救いなのではありませんでした。もし癒しや奇跡そのもの が救いであるならば、主は癒しの働きに専念され、ひとりでも多くの人を癒そ うとされたでしょう。しかし、主はそうされませんでした。なぜでしょうか。 癒しの奇跡は「しるし」以上のものではなかったからです。それは、神の国を 指し示すしるしなのです。終末へと向かって、既に救いの業が始まっているこ とのしるしだったのです。  それは、神の救いが、最終的な神の裁きによって初めてもたらされるのでは ないことを意味します。この世界の罪と悪が滅ぼされて初めて救いが到来する のではないのです。現実が何一つ変わっていないように見えるそのところに、 既に救いは始まっているのです。大切なことは、神の支配が既にそこにあると いうことであります。ヘロデが依然として君臨しているこの世界に、既に神の 国は到来しているのです。闇夜が明けて朝になって、初めて光がたもたらされ るのではありません。闇夜において、既に光は輝いていることを主は語ってお られるのです。主イエスはそのしるしへと、ヨハネの目を向けさせようとした のでした。そうして主イエスがメシアであることをなお信じるようにと求めら れたのであります。主イエスを信じる時、人は神不在としか見えない世界にお いて、なお神の国に生きることができるからです。神を失って真っ暗闇の世界 のただ中において、人は光の中を生き始めることができるのです。 最も小さな者でも  最後に7節から11節までをお読みしましょう。「ヨハネの弟子たちが帰る と、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。『あなたがたは、何を見 に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなや かな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行 ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。「見よ、 わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と書 いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた 者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も 小さな者でも、彼よりは偉大である。(7‐11節)」  ヨハネの偉大さ、それは彼の人格の高潔さによるのではなく、その成し遂げ た働きの大きさによるのでもありません。主イエスがここで語っておられるの は、彼の使命についてなのです。すなわち、メシアの先駆者としての使命です。 それはヨハネが預言者以上の者であると語られている通りです。確かに彼は、 メシアの道備えをするために、この世の罪を糾弾し、神の裁きを告げたのでし た。しかし、主はヨハネについて「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨ ハネより偉大な者は現れなかった」と言いつつも、さらにこう続けられたので す。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」さて、こ れは何を意味するのでしょうか。  ヨハネがいかに偉大な者であり預言者以上の者であったとしても、彼は道を 備える者に過ぎません。その使命はメシアの到来によって終わりを告げます。 このことは、彼の宣教の言葉が最後の言葉ではあり得ないことを意味します。 その先があるのです。神の審判を告げ知らせる言葉は、最終的に人類に与えら れた言葉ではないのです。  メシアなる主イエスはその言葉と御業によって、神の救いが既に始まってい ることを示されました。メシアなる主イエスはその言葉と御業によって、神の 支配へと人々を招かれました。メシアなる主イエスは御自ら人々の罪のあがな いとして十字架にかかられました。メシアなる主イエスは御自らその復活の体 をもって、神の国の栄光を現されました。メシアなる主イエスは、今もご自分 の体なる教会を通して、神の救いを告げ知らせ、神の国へと人を招いておられ ます。  「わたしにつまずかない人は幸いである」と主は言われました。主イエスに つまずかない幸いな人とは、主イエスを信じ、神の国、天の国に生き始める人 であります。そのような人であるならば、その最も小さな者であっても、ヨハ ネよりは偉大だと主は言っておられるのです。天の国に生きる人は、いかに小 さい者であっても、洗礼者ヨハネ以上の言葉を語り得るはずだからです。既に、 メシアが到来したことを信じる人は、神を失った闇の世界に、神の支配の光を 語り得るのです。主を信じてクリスマスを祝う人であるならば、闇の夜が過ぎ 去って初めて光がやってくるのではなく、真っ暗闇のただ中で光が既に輝いて いることを語り得るのです。なぜならその人は既に光の中にいるからです。そ れゆえ、主は言われるのです。「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大で ある。」