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「神は我々と共におられる」

1998年12月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ1・18‐25

                今日お読みしました箇所には、イエス・キリストの出生に関する物語が記さ れております。「処女降誕」として知られている物語です。

 マリアはヨセフと婚約しておりました。当時の婚約は、法的には結婚と同じ 重みを持つ結びつきでありました。ですから、この間に姦淫の罪を犯せば死罪 とされます。マリアが婚約期間に身ごもったということは、彼女がこの危機に 置かれたということを意味しました。

 聖霊によってマリアは身ごもったと聖書は説明します。しかし、彼女の周り のいったい誰がそのような説明を信じるでしょうか。もちろん、これはヨセフ においても危機でした。彼は正しい人でした。それゆえ、彼女をそのまま娶る ことはできません。しかし、石打ちの刑にするのは忍びないと思ったのでしょ う。彼はひそかに離縁しようとしました。「ひそかに」とは「罪を告発しない で」ということです。

 しかし、主の天使が夢に現れて彼に言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れ ず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 」そして、天使は生まれて来る子の命名について語られます。ヨセフは眠りか ら覚めると、天使が命じたように、マリアを妻として迎え入れました。そして、 「その子をイエスと名付けた」という言葉をもって、この部分の物語を閉じて おります。

 これがいわゆる「処女降誕」の物語です。そして、ここには人間の詮索の及 ばない、神の領域があります。様々な詮索をすることは自由でしょうし、事実 長い歴史の中において多くの合理的な解釈がなされてきました。しかし、それ でこの物語を本当の意味で読んだことにはなりません。  私たちがこの物語を読みますとき、マタイはこの出来事の不思議さを殊更に 強調してはいないことに気づきます。出生の仕方の不思議さをもって、イエス がメシアであることを証明しようと、わざとらしく大げさに語ることもしてい ません。事の重大さを考えますと、語り口は驚くほど控えめです。むしろ、不 釣り合いなぐらいに強調されていることがあります。それは生まれてくる子供 の「名前」についてです。この物語において重要なのは、不思議な誕生の仕方 ではなくて、「イエス」と名付けられることになる子供の誕生であり、「イン マヌエル」と呼ばれる子の誕生なのであります。そこで、私たちはこの祝いに おいて、何よりもこの「イエス」という名、「インマヌエル」という呼び名に ついて、それが私たちにとっていったい何を意味するのか、ご一緒に考えたい と思うのです。

その名はインマヌエルと呼ばれる

 23節をご覧下さい。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名 はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という 意味である。(23節)」

 クリスマスにおいて私たちが祝っているのは、インマヌエルと呼ばれる方の 誕生です。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されて おります。このお方の誕生を通して神が示されましたのは、神が私たちと共に いてくださるということでありました。私たちが今日、この礼拝においてまず 聞くべき使信がここにあります。「神は我々と共におられる」ということです。

 さて、皆さんはこの言葉をどのように聞かれますでしょうか。私の経験では、 誰かに「神様があなたと一緒にいてくださいますように」と言って嫌な顔をさ れたり、怒られたりしたことはほとんどありません。多くの人は、神が共にい てくださることを喜ばしいこと、嬉しいこととして受け止めておられるようで す。しかし、まず私たちはここで改めて考えたいと思うのです。神が共におら れるということは、本当に喜ばしいこと、嬉しいことなのでしょうか。ありが たいことなのでしょうか。この問いは次のように言い換えることができかも知 れません。「神様があなたと共にいて、あなたは本当に大丈夫なのでしょうか。」

 新共同訳聖書では、23節には鍵かっこがついています。これは旧約聖書の 引用です。イザヤ書7章14節です。これはもともとは預言者イザヤがユダ王 国のアハズ王に語った言葉です。時代は主イエス誕生からさらに730年ほど 前に遡ります。

 その時、ユダ王国は危機的状況を迎えていました。アラムと北王国イスラエ ルが連合して攻めてきたのです。その時の様子を聖書はこう伝えています。 「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。 アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻 めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラム がエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民 の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。(イザヤ7・1‐2)」

 不安と恐れに襲われて、森の木々が風に揺れ動くように動揺するということ は、私たちもしばしば経験することであるかも知れません。そのとき、私たち は何を考えるでしょうか。「さあ、どうしたらよいだろうか」とまず考えるの ではないでしょうか。心の内の動揺は、行動の動揺として現れてまいります。 その動揺した行動において、人は右往左往し始めるのです。

 しかし、神は預言者イザヤを通してアハズ王にこう語られたのでした。「落 ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。(イザヤ7・4)」そし て、さらにこう言われます。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。 (7・9)」つまり、神を真実なる確かなお方として信頼しなければ、あなた がたは決してしっかりと立つことはできない、と言われたのであります。問題 は敵の襲来ではなくて、確かになっていない足下であることを示されたのでし た。それゆえ神は「何をすべきか」を考える前に、まず神に信頼することを求 められたのであります。

 そして、さらに神はアハズに言われました。「主なるあなたの神に、しるし を求めよ。」神がまことに信頼すべき神であるという「しるし」を求めて良い と言われたのです。しかし、アハズはこう答えたのでした。「わたしは求めな い。主を試すようなことはしない。(7・12)」大変敬虔な答えに聞こえま す。しかし、実のところはそうではありません。アハズ王は、しるしを見せら れても神に信頼して従う気などないのです。彼は、アッシリアという大国の力 によって、この国難を乗り切ろうと考えていたのです。要するに、彼の心の内 にあるのは、「こんな大変な時に、神様だ、信仰だなどと言ってられるか!」 ということであります。

 神様は外側を見てはおられません。敬虔な装いの下にあるものをご覧になっ ておられます。その目をごまかすことはできません。そこで語られたのが、マ タイに引用されていた預言の言葉なのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたち は人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかし い思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを 与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエ ルと呼ぶ。(7・14)」

 お分かりになりますでしょうか。「神は我々と共におられる」という意味の 「インマヌエル」という言葉は、もともとの預言においては、それほど喜ばし い響きを持っていないのです。それは先を読むと分かります。17節にはこう 書かれています。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライム がユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリ アの王がそれだ。(7・17)」つまり、「男の子が生まれる。その名をイン マヌエルと呼ぶ」というのは、もともとはアハズにとっては裁きの預言に他な らなかったのです。その不信仰も不従順もすべてお見通しの神が共におられる ということは、裁きが臨むことに他ならないのです。神が共におられるゆえ、 不信仰を貫くなら、当面の危機は逃れるかもしれないけれど、最終的にはあな たが頼りにしているアッシリアによって恐るべき日が臨むことになる、とイザ ヤは語っているのであります。

 先ほどの問いに戻ります。神様があなたと共にいて、あなたは本当に大丈夫 なのでしょうか。私たちの正しさ、とってつけたような敬虔さ、見てくればか りの善良さ――そんなものは神の真実と正しさの前にあってはみんな吹き飛ん でしまうようなものです。何も神の目から隠れることはありません。私たちに 罪がなければ、神が共におられることは救いとなるでしょう。しかし、罪があ るならば、神が共におられることは単純に救いとはなりません。むしろ裁きを 意味するのです。

その子の名はイエス

 しかし、クリスマスの物語は、単にインマヌエルと呼ばれる方の誕生を語っ ているのではありません。この幼子の誕生において、ただ「神が共におられる 」ということを語っているのではないのです。その前があるのです。聖書は何 と言っているでしょう。21節をご覧下さい。「マリアは男の子を産む。その 子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(2 1節)」

 イエスという名前は、ヘブライ語名のヨシュアに当たります。ヨシュアは 「主は救い」という意味の名前です。ですから、イエスと名付けなさいと命じ られた後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と説明しているの です。

 しかし、イエスという名前は決して特別な名前ではないのです。新約聖書だ けでも、この方以外の「イエス」が二人ほど出てきます。ヨシュアという名前 に至っては、それこそ旧約聖書に沢山出てきます。要するに平凡な名前だ、と いうことです。この子をイエスと名付けなさいと命じられたということは、一 面においては、その子がまったく平凡なひとりの人間であるということを表し ております。つまり、最初に申し上げましたように、この物語は不思議な出生 の秘密を持つ、ただの人間でない、いわば超人のような者の誕生を描いている のではないのです。

 これは、イエスという名前について「この子は自分の民を罪から救うからで ある」と言われていることと関係します。何から救ってくださるのか。それは 「罪から」だと言うのです。人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負 った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの 救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたに違いありません。し かし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと 言います。さらに言えば、神が共におられるということが裁きにしかならない という現実、すなわち人間に罪があるという現実こそ、人間の最大の悲惨なの だ、と言うのであります。人が渇いているとするならば、その渇いている事実 そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なの であります。

 もし、単に困窮からの解放、欠乏の満たしを与えるためであるならば、神は 救い主を「ただの人」として誕生させることはなかったでしょう。すべての人 の欠乏や必要を超自然的な仕方で満たすことのできる、通常の人間を超えた存 在を、この世に与えたに違いありません。しかし、私たちに欠けているのは、 与えられて補われる「何か」ではありませんでした。そうではなくて、神ご自 身でありました。それゆえ、私たちに必要とされていたのは、神との交わりを 妨げる罪の赦しでありました。

 私たちたちは何よりもまず罪から救われなくてはなりませんでした。そのた めに、神は救い主を、ただの人となさったのです。ただの人を救うためであり ます。神は救い主を、ただの人として、私たちの兄弟とされました。神は私た ちの兄弟を、十字架につけられ、裁き給いました。私たちの兄弟を十字架につ けられることによって罪を裁かれました。私たちの罪を裁かれました。あのお 方において、私たちの罪を裁き、そして私たちを赦し受け入れることを神は決 意されたのであります。

 「その子をイエスと名付けなさい。」イエスと名付けられることは、罪から の救い主として、十字架への道を歩み出すことに他なりませんでした。そのお 方が、「インマヌエルと呼ばれる」と言われているのです。そのお方がインマ ヌエルと呼ばれるからこそ意味があるのです。罪が赦されて、罪から救われて、 初めて神が共におられることは裁きではなくなります。罪が赦されて、初めて 神が共におられることが、新しい命となり喜びとなり力となり希望となるので す。

 かつては裁きの言葉に他ならなかった「インマヌエル」が、救いの言葉とな りました。私たちは喜びと感謝とをもって、「神は我々と共におられる」と告 白し、罪からの救い主であられる主イエスの誕生を、心から共に祝いたいと思 うのであります。

 
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