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「旅する家族」

1998年12月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ2・13‐23

 今日与えられておりますのは、御子の降誕に続く出来事を物語る聖書箇所で す。マリアとヨセフは、クリスマスを経てキリストと共に生きることを許され た最初の人々でありました。それゆえ、この最初の小さな聖なる家族の姿は、 教会の姿を指し示すものであるとも言えるでしょう。彼らの物語は私たちの物 語です。

 今年もあと残り少なくなってまいりました。多くの人々は、新しい年を迎え る準備に忙しくしていることと思います。しかし、私たちは、なによりもまず 神の言葉をもってこの年を締めくくり、神の言葉をもって新しい年への備えと しなくてはなりません。そのような思いをもって、私たち自身とこの小さな家 族の物語を重ね合わせながら丁寧に読み、神の語りかけに耳を傾けたいと思う のです。

ヨセフの従順

 はじめに13節以下をお読みいたしましょう。「占星術の学者たちが帰って 行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を 連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。 ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のう ちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。そ れは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を 通して言われていたことが実現するためであった。(13‐15節)」

 今日お読みしました箇所の直前には、東方から来た占星術の学者たちが幼子 イエスを拝んだという物語が記されておりました。しばしば、この場面は馬小 屋を訪ねてきた羊飼いたちの物語と共に描かれます。しかし、マタイによる福 音書は馬小屋については何も語っておりません。11節を見ますと、そこは馬 小屋ではなくて「家」と書かれております。学者たちが訪ねてきたのも、幼子 が生まれた直後ではなく、既に幼子が二歳ちかくに成長した頃であろうと思わ れます。それは16節でヘロデが二歳以下の男の子を殺させたことからも知ら れます。マリアとヨセフと幼子イエスはベツレヘムに住んでいたのです。そこ に彼らの生活の場がありました。

 しかし、平穏な生活は突然の神の言葉によって終わりを告げました。「起き て、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに とどまっていなさい」と神はヨセフに命じられたのです。知人もいない、右も 左も分からない外国に逃げて行って、そこにとどまらなくてはなりません。そ れは、彼らにとって決して簡単なことではなかったはずです。しかし、ヨセフ は従ったのでした。「起きて、夜のうちに」という言葉に、彼の従順が示され ております。

 マタイによる福音書におけるイエス降誕とその後の物語は、ヨセフについて 多くを語ります。しかし、不思議なことに、ヨセフの言葉は何一つ記されてお りません。これは新約聖書全体にも言えます。ヨセフは何一つ語りません。そ して、従うのです。沈黙と従順。これがヨセフの物語が与えている強烈な印象 です。

 マリアが身ごもったときもそうでした。それはヨセフにとって青天の霹靂で ありました。幸せな結婚と家庭生活を思い描いていた時に、突然降って湧いた ような恐るべき出来事でありました。しかし、彼はつぶやきません。神の指示 に従って、マリアを迎え入れたのです。しかし、物語はそれで終わりませんで した。またもや、思いがけないことで、彼らの生活は乱されます。しかし、彼 はつぶやきません。従うのです。

 ヨセフは「正しい人であった(1・19)」と書かれていました。私たちの 想像する「正しい人」とは随分違うと思わされます。正しい人はしばしばつぶ やきます。嘆きます。不平を言います。「正しく生きているのに、どうしてこ んな目に遭わなければならないのだ」と文句を言いたくなるのです。そして、 しばしば神に対してつぶやくのです。しかし、ヨセフは違いました。彼は正し い人でありましたけれども、自らを神より正しい者とはみなしませんでした。 彼は神の前に沈黙します。そして、神の導きを求め、導きに従って生きていき ます。繰り返されているのは「主の天使が夢で現れて」という言葉です。この ようなことは私たちにあまり馴染みがありません。しかし、ここで大切なこと は、導きが神から来たのであって人からではない、ということです。上からの 言葉によってであって、下から、人間からの言葉によってではない、というこ とです。私たちはしばしば、神に対してぶつぶつ言いながら、人からの言葉を 求めて歩きます。ヨセフは丁度それとは逆であったということです。

 マタイは一つ一つの話の区切りにおいて、これが預言されていたことの成就 であったことを告げます。「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した 」というのは、ホセア書11章1節からの引用です。もともとは「わたしの子 」はイスラエルです。ですから、それが指しているのはモーセに率いられての 出エジプトの出来事です。この預言が成就したと語ることによって、マタイは この幼子イエスが神の子であると同時に、第二のモーセであることを示そうと しているのでしょう。確かに、出エジプト記におけるモーセの物語と、ここに 記されている物語は多くの点で平行していることに気づかされます。

 そして、マタイの引用について、もう一つ興味深いことがあります。それは、 エジプトに逃げて行く時に「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した 」という引用をしているということです。本来だったら、ヨセフたちがエジプ トから帰国する時に、この預言が実現したのだ、と語られる方が良いように思 われますでしょう。しかし、彼はエジプトへの逃避に、既に預言の成就を見て いるのです。すなわち、そこに神の計画と御手の業を見ているのです。この悲 惨な逃亡の旅もまた、神の計画の一部であることを私たちは知らされるのです。 神の計画と、つぶやかずに黙して従う人間の従順とが一つとなっている。その ようにして、神の御心が実現していくことを、私たちはこの物語の中に示され ているのです。

罪の世界に残されたイエス

 さて、一方ヘロデの宮殿では一つの騒ぎが持ち上がっていました。占星術の 学者たちが帰ってこないことに腹を立てたヘロデが、恐るべき命令を下したの であります。16節以下をご覧下さい。

 「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。 そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムと その周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預 言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

    『ラマで声が聞こえた。     激しく嘆き悲しむ声だ。     ラケルは子供たちのことで泣き、     慰めてもらおうともしない、     子供たちがもういないから。』(16‐18節)」

 モーセが誕生した時にも、ファラオが全国民に「生まれた男の子は一人残ら ずナイル川にほうり込め」と命じたことが、出エジプト記に記されております。

(出1・22)しかし、ファラオがどれほどの権力を持っていたとしても、モ ーセを滅ぼすことはできませんでした。マタイはその出来事を念頭においてこ こを書いているのでしょう。ヘロデがどんなことをしても主イエスを抹殺する ことはできなかったということです。

 しかし、聖書は死んでいった多くの子供たちを視野の外に置いているわけで はありません。私たちはそこに記されている悲惨な事件そのものをも直視しな くてはなりません。兵士たちの剣によって赤子の体が切り裂かれることを神は 望まれたのでしょうか。母親が泣き叫ぶのを望まれたのでしょうか。幸せな家 族が突然悲しみの底に突き落とされることを神は望まれたのでしょうか。

 マタイは注意深く言葉を選びます。ここで彼は「預言者を通して言われてい たことが実現するためであった」とは言いません。「こうして、…実現した」 という言い方をするのです。神があたかもこれらを望まれたかのようにこの物 語が読まれないためです。私たちがここにまず見なくてはならないのは、「神 がおられるならどうしてこうなったのか」ではなくて、「神に敵対する人間の 罪が何をもたらすのか」ということなのです。

 ヘロデは自分の王位を守るのに必死でした。王であり続けようとしました。 彼はそのために、自分の妻や子供たちさえ処刑したと伝えられております。で すから、ここに書かれているような出来事は、十分あり得たことでした。彼は、 メシアがベツレヘムに生まれることを聞きました。しかし、そのメシアを抹殺 しようとしたのです。自分が王であり続けるためです。これは神の国とヘロデ の王国との戦いでした。神の主権とヘロデの王権との戦いです。ヘロデは神の 支配を受け入れませんでした。その結果が、この血なまぐさい悲劇でありまし た。

 ここに書かれていることは、決して特別なことではありません。今日もなお 続いている人間の悲惨な姿であります。神の支配を受け入れようとしない、メ シアを受け入れようとしない、この世界の悲惨な姿です。人間の罪が人を傷つ け殺すのです。そして、私たちはこの世界の現実を、他者の責任とすることは できません。そこで問われるのは、私の罪でありあなたの罪であります。

 しかし、神はそのような世界のただ中に、主イエスを残されたのでした。私 たちを罪と死から救う方として残されたのでした。主は、ヘロデの手から守ら れました。しかし、それは十字架へと向かう方として、苦難の道を歩む方とし て、残されたことを意味するのです。

 マタイは、ここでエレミヤ書31章15節を引用いたします。彼は恐らくこ れがどういう預言であるかを知っているはずです。この預言は次のように続き ます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あな たの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って 来る。(エレミヤ31・16‐17)」イスラエルが国の滅亡を経験し、捕囚 となった時、神がエレミヤを通して与えられた慰めの言葉がこれでした。この 預言の言葉は、人間の罪とその結果が、私たちに残された最後のものではない ことを語っているのです。神は主イエスをこの地上に残されました。神の救い の計画は、人間の罪によってもとどめられませんでした。18節に引用された エレミヤの言葉はこのことを示しております。ですから、神の救いのゆえに、 私たちはその先に、「あなたの未来には希望がある」という言葉を聞くことが できるのです。

イエスと旅する小さな家族

 最後に19節から23節までをお読みしましょう。「ヘロデが死ぬと、主の 天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母 親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、 死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラ エルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを 支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあっ たので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼は ナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現する ためであった。(19‐23節)」

 イエスと共に旅する家族は、この世の力に翻弄され、国から国へと移り行か ざるを得なかった、まことに弱く小さな家族でありました。一方、彼らの前に ヘロデの権力は強大でした。歴史は、そのような強い者の力によって動かされ ていくように見えます。歴史の主は、力を持った人間たちであるかのように見 えるのです。しかし、ヘロデは死にました。彼は幼子イエスの命を奪うために 国中を動かすだけの権力を持っていましたが、自らは死の支配を免れませんで した。死ぬという言葉が20節でも繰り返されております。「この子の命をね らっていた者どもは、死んでしまった。」

 力ある者が移りゆく中で、神の御業は確実に進んでおります。それが再び語 られる「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とい う言葉によって表されております。歴史を支配し動かしているのは、ヘロデで はありませんでした。その上に、もっと大きな力ある方がいることを聖書は告 げているのです。人間が受け入れまいが、抵抗しようが、敵対しようが、確実 に終わりの完成へと向かっている神の支配があるのです。

 その神の支配の中で、出来事の中心におられるのは、他ならぬ幼子イエスで す。この物語においては、まったく無力な、何も語ることもなく行うこともな い幼子イエスであります。この幼子の姿の先に見えてきますのが、主イエスの 十字架であります。やはり無力にも人間の罪のもとにあって、もはや何をする こともできない者として十字架にかけられている主イエスの姿です。それゆえ、 幼子と旅する聖なる家族の姿は、十字架にかけられた主イエスのもとにある旅 する教会の姿でもあります。

 神の救いの計画における決定的な出来事は、幼子イエス、そして彼と共に旅 する無力な小さな一つの家族と共に始まりました。神が御心を地上に実現する ために必要とされるのは、この世の力ある者たちではありません。ヨセフのよ うに、つぶやかず従順に神の導きに従う魂なのです。

 
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