「神の自由な選び」
1999年1月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ9・1‐13
私たちはこの一月から、再びローマの信徒への手紙を読み始めます。9章に 入ります。この手紙の第二の区分は、この9章から始まります。第一の区分の 最後は、次のように締めくくられておりました。これまでの論述を思い起こす 意味で、そこをまず読んでおきましょう。8章38節以下をご覧下さい。「わ たしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、 未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他 のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛 から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(8・38‐39)」こ のように、パウロは溢れる喜びをもって、キリストによって示された神の愛に 対する確信を語って8章を終えたのでした。
その続きを私たちは読んでいるのですが、随分調子が変わっていることに気 づきます。ローマの信徒への手紙を最初から読んでいきます時に、ここで立ち 止まったり引っかかったりする人も多いのではないかと思います。大変分かり にくいと感じる人もいるでしょう。これまで語られてきたことほど感動的では ないと思う人もいるかも知れません。しかし、これは大切な聖書の一部分です。 私たちにとって感動的であるかどうかは大したことではありません。私たちに 受け入れやすいことが書いてあるか、抵抗を感じることが書いてあるかという ことも大したことではありません。大切なことは、ここから神の語りかけを聞 いていくことです。私たちは、心の耳を澄ませつつ、この書を再び読み始めた いと思うのです。
深い悲しみと絶え間ない痛み
はじめに1節から5節までをお読みしましょう。「わたしはキリストに結ば れた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証し していることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間な い痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、 キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っていま す。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼 拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリス トも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめ たたえられる神、アーメン。(1‐5節)」
パウロはここで悲しみと痛みについて語ります。先に申しましたように、8 章の終わりと随分調子が違います。8章の確信に満ちた喜びと9章の悲しみの 間には大きなギャップがあります。これはどういうことでしょう。不思議に思 う人もいるかも知れません。しかし、考えて見ますならば、これは聖書におい て決して珍しいことではないのです。聖書に登場する多くの人物の内に、この 喜びと悲しみを見ることができます。また、私たちはその極まった姿を、キリ ストの内に見ることができるでしょう。であるなら、これがキリスト者の内に 見られても不思議ではありません。いや、むしろそのどちらかが欠けているな らば、信仰者の歩みとして健全ではないとさえ言えるのです。
パウロの悲しみ、それは同胞であるユダヤ人を思っての悲しみでありました。 キリストを受け入れない、神の救いを受け入れない同胞の不信仰を思っての悲 しみでありました。パウロの同胞であるユダヤ人は、神の救いの計画、神の救 済の歴史において、確かな位置づけを持っていたはずでした。神はイスラエル の民を生み出され、この民をご自分の子として扱われたのです。「イスラエル はわたしの子、わたしの長子である。(出4・23)」と主は語られたのでし た。そして、神はイスラエルの内にご自身の栄光を現されたのです。神は彼ら と契約を結び、律法を与え、礼拝することを教え、救いの約束を与えられまし た。そして、肉によれば間違いなく彼らは父祖アブラハムやイサク、ヤコブの 子孫です。肉によれば救い主であられるキリストもユダヤ人として生まれまし た。彼らの兄弟として生まれたのです。救いの言葉がまず与えられたのは、彼 らに対してであったはずです。彼らは、神の救いの御業に最も近かったはずで した。しかし、その同胞はキリストを受け入れていないのです。十字架におけ る贖いと罪の赦しの恵みも、聖霊による新しい命も、復活の希望も、彼らの内 には届いていないのです。そのことは、パウロの心における絶え間ない痛みと なり、深い悲しみでありました。
そのゆえに彼は言います。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞の ためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさ え思っています。(3節)」彼がキリストから離されることを小さなことと考 えていたはずはありません。神から見捨てられることを、この上なく大きなこ ととして考えていた人の言葉です。それだけに重い言葉であると思わされます。
恐らく、パウロの言葉の背景にあるのは、旧約聖書のモーセの言葉であろう と思われます。モーセは出エジプト記32章31節以下で、このように祈って います。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしも あなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなけれ ば、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。 」ご存じのように、モーセがシナイ山で神から十戒を与えられている時、イス ラエルの民は金の雄牛を造り、これを「エジプトの国から導き上った神々」と して拝んでいたのでした。その彼らのために罪の赦しを求め、自分の名が神の 書から消し去られることさえ願って執り成し祈ったのがモーセでありました。
ですから、パウロは同胞のことをただ悲しんでいたのではないのです。彼が 「神から見捨てられた者となってもよい」と言う時、そこにあるのはモーセと 同じように、同胞の罪のために執り成し祈る彼の姿なのであります。それは後 に10章1節において彼自身、「わたしは彼らが救われることを心から願い、 彼らのために神に祈っています」と言っているとおりです。パウロが福音を語 る時、彼を最も迫害したのは同胞であるユダヤ人たちでありました。不信仰な ユダヤ人たちを憎むのではなく、ただ悲しむのでもなく、彼らのためにひたす ら祈っていたのがこのパウロでありました。
神の憐れみを知る故に
続いて6節から13節までをお読みいたしましょう。「ところで、神の言葉 は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イス ラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆 がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、 あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、 約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、『来 年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というも のでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イ サクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ 生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであ ろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の 行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしは ヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。(6‐13節)」
ここに書かれている大切な主題は「選び」ということです。11節には、神 の「自由な選び」という言葉が出てきました。しかし、それにしましても、こ の最後の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉は、ある意味 で大変ショッキングな言葉であります。この「わたし」というのは、もちろん 神のことです。神はある者を愛し、ある者を憎むと言っているのです。そのよ うな言葉は、来週読みます15節においてさらに展開されております。「わた しは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」。これら は皆、旧約聖書からの引用です。さて、パウロはいったいなぜこのような言葉 を引用してまで、神の自由な選びということを語らなければならなかったので しょうか。
ここでまず私たちが覚えておかなくてはならないことは、当然のことながら、 神の選びについて語ったのは、パウロが最初ではないということであります。 既にユダヤ人たちが語ってきたのです。神の選民であると自認している人々が 既にいるのです。そこでパウロが改めて「神の選び」について語らなくてはな らなかったのは、彼らの選民思想に問題があったからに他なりません。その問 題が大きいゆえに、パウロはあえて極端なまでに神の自由な選びを語る言葉を 引用しなくてはならなかったのであります。
問題はどこにあったのでしょうか。第一に、神の民に属するということを、 血筋や民族、律法に定められた割礼の有無の問題として捉えていたということ であります。イスラエルから生まれた者はイスラエルであるということです。 ユダヤ人として割礼を受けた者はユダヤ人であるということです。彼らは、そ の事実のゆえに、アブラハムの子孫である、神の民であると主張したのでした。 しかし、パウロは彼らに向かって「そうではない」と言うのです。そこで彼が 取り上げたのは、アブラハムの物語でした。アブラハムの息子はイサクだけで はありません。ハガルとの間にイシュマエルが、ケトラとの間にはジムラン、 ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアといった子供たちがお りました。しかし、イサクから生まれた者だけがアブラハムの子孫とされまし た。これは神の民が、単なる血筋のつながりによって形作られるのではないこ とを意味します。神の計画と約束によるのです。
そして、第二の問題はもっと大きいものでした。それは彼らの選民思想が優 位性の主張や特権意識と結びついたということです。神の民であるということ を血筋や民族のこととして捉えたためにそうなったのです。彼らは、肉におけ るアブラハムの子孫であるゆえに、神の選民であることをあたかも当然のこと であるかのように考えたのです。それを既得権であるかのように見なしたので す。ユダヤ人として生まれ、律法を守って生活しているということが、神の好 意と救いを要求できる然るべき根拠と考えられたのです。権利を主張する人は、 与えられている恵みが何であるかを理解できません。神の好意を得る根拠がこ ちら側にあると考えている人は、神の憐れみが分かりません。問題はそこにあ りました。
これに対してパウロは、イサクが約束に従って生まれた子供であったことを 指摘します。約束の言葉は「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラに は男の子が生まれる」というものでした。サラはこの時、笑ったのです。聖書 はそう語っています。それは起こり得ないことだからです。自然としては起こ り得ないことなのです。しかし、イサクは生まれました。その誕生は明らかに 自然に属することではありませんでした。聖書はそれを純粋に神の業として語 っているのです。イサクが「約束に従って生まれた」ということは、これが一 方的な神の恵みの業であることを意味します。そのことから明らかなように、 神の民が地上に存在するということは自然なこと、当然のことではないのです。 それは本来存在し得ないものが神の恵みによって存在しているということなの です。
このことが純粋に神によるのだ、ということが、「神の自由な選び」という 言葉によって強調されております。そこで引用されているのがイサクの子供の 話です。ヤコブとエサウは双子の兄弟です。双子だったのですけれど、エサウ ではなくヤコブがイスラエルという名前に変えられました。そしてイスラエル の先祖となりました。選ばれたのはヤコブでした。そのことを語っているのが 13節です。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」これはマラキ書1 章からの引用です。ここで注目すべきは「エサウを憎んだ」ということではあ りません。「ヤコブを愛した」ということなのです。
神の恵みと憐れみが分からないのは、なにもパウロの言っているユダヤ人だ けではありません。私たちもしばしばそうなのだと思います。愛されて当然だ と考える。神の好意を得ることができるとするならば、その根拠はこちら側に あると考えるのです。人間は実に自分本位にしか神を思うことができません。 傲慢な私たちは、往々にして人間中心にしか物事を考えられないものでありま す。神なのだからすべての人を愛して当然である、と考えている人は、13節 を理解できないでしょう。しかし、考えて見てください。いったいどこに、神 に愛されるに相応しい人がいるでしょう。あなたは本当に聖なる神に愛されて 然るべき人ですか?神は人を愛するべきである――とんでもない!自分は愛さ れるべきであると神に主張できる人などこの世のどこにもいないのです。
人は誰も神に愛される資格などない、神の救いを主張できる根拠などこちら 側にはない、ということを知る時に、初めて13節が理解できるのです。「ヤ コブを愛した」と神は言われます。ヤコブが愛されたとしても、ヤコブには根 拠がない。絶対にない。そういうことです。それは私たちについても同じなの です。
このように、パウロが「選び」について語る時、そこで本当に明らかにした いのは神の恵みと憐れみなのです。なぜなら、パウロこそ、まさに神の憐れみ によって今の自分があることを知っている人だからです。私たちもまた、今こ うしてキリストを知るものとされたことを、今この場に導かれていることを、 当然のことと考えてはならないのです。こうして神に祈り、神を礼拝する者と されたことを当然のことと考えてはならないのです。私たちの側に、神の民と して召される根拠はありません。神の自由な選びであり、そこにあるのはただ 神の憐れみなのです。
パウロはすべてが神によるのであり、神の憐れみなのだということを知る故 に、まだキリストを受け入れない同胞のためにひたすら祈ったのでした。福音 を退け、迫害する者のために祈ったのでした。神の憐れみによって召されたこ とを思わぬ人は、不信仰な人を見下したり裁いたりするようになります。ただ 神の憐れみによって今の自分があることを知る人は、福音を受け入れない人の ために祈るのです。