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「神の憐れみ」

1999年1月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ9・14‐29

 先週より、私たちはローマの信徒への手紙9章から再び読み始めました。こ の9章において、パウロは神の自由な選びについて語り始めます。しかし、パ ウロはここで「誰が選ばれ、誰が選ばれていないのか」ということを論じてい るのではありません。既に申しましたように、パウロが選びを語るとき、そこ で彼が本当に伝えたいのは神の憐れみなのです。それは、今日お読みしました 箇所において、彼が「憐れみ」という言葉を繰り返していることからも分かり ます。ここで語られていることは、私たちの信仰生活に深く関わっております。 というのも、私たちは実にしばしば神の憐れみが何であるかを見失っているか らです。神の憐れみが分からなくなるのは、私たちが往々にして傲慢であり不 遜であるからに違いありません。私たちは今一度へりくだって、聖書の言葉に 耳を傾け、神の憐れみに思いを向けたいと思うのです。

憐れもうと思う者を憐れまれる神

 はじめに14節をご覧下さい。「では、どういうことになるのか。神に不義 があるのか。決してそうではない。(14節)」

 このような言葉が出てきたのは、その直前に「わたしはヤコブを愛し、エサ ウを憎んだ」と書かれているからです。パウロは、そこで「神に不義がある」 と主張する人々を想定しているのです。さて、多くの人は、この箇所を「では、 どういうことになるのか。神は不公平なのか」と読み変えて理解していること と思います。「ヤコブを愛してエサウを憎むことは不公平だ」と思うからです。 そして、「不公平は不義だ」と思うのです。しかし、「ヤコブを愛してエサウ を憎むことは不公平だ」と考えるのは、現代の私たちの感覚です。そして、私 たちの感覚をもって聖書を読むと、誤解することがあるのです。

 「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」。これは私たちにとってショッキングな 言葉でありますが、ユダヤ人にとってはある面、受け入れがたい言葉ではない のです。というのも、ヤコブはユダヤ人の祖先であり、エサウというのはエド ム人の祖先と考えられていたからです。そして、エドム人は長い間イスラエル に敵対してきた民族です。これはマラキ書1章2節以下の引用ですが、マラキ 書もそのような背景のもとに書かれております。ですから、ユダヤ人にとって は、神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というのは不思議なことではあり ません。むしろ、イスラエルとエドムを一緒にされては困るわけです。

 ですから問題はこの言葉そのものではなくて、この言葉の引用の仕方にあり ます。パウロはこれを神の自由な選びの例証として引用しました。つまりここ に書かれているように、ヤコブが選ばれたのは「人の行いによらず」、ヤコブ とエサウの善悪によるのではないのだ、とパウロは言っているのです。何か優 れた点などの根拠があってイスラエルが選ばれたのではない、と言っているの です。そうしますと、ユダヤ人と異邦人の区別は、本質的な意味を失ってしま うことになります。

 事実、教会には異邦人キリスト者がおりました。パウロは彼らも神の民だと 主張いたします。しかし、これはユダヤ人にとっては大問題なのです。なぜな ら、彼らは、ユダヤ人としてアブラハムの子孫として生まれ、割礼を受け、律 法を守って生活していることが、選びと救いの根拠であると思っているからで す。無割礼の者たち、律法を守らない輩、イスラエルに敵対してきた民族の子 孫、豚を食う連中と一緒にされたくないのです。神が義なる神であるなら、神 の民に相応しい者のみを神の民とし、救いに相応しい者を救う神でなくてはな らない。もしそうでないならば、神は正しい神とは言えない。不義であるとい うことになる。「神に不義があるのか」というのは、そのような文脈の言葉で す。

 しかし、それに対して、パウロは聖書から引用して答えます。神はモーセに 何と言ったか。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う 者を慈しむ」と言ったではないか。これは出エジプト記33章19節の引用で す。そこに記されているように、正しい人間が何と言おうと、神は憐れもうと 思う者を憐れむのだ。人間の意志や努力とは関わりなく憐れむのだ。そのこと に文句あるか。要するに、パウロはそう言っているのです。

 これは私たちもまた深く考えねばならない言葉であろうかと思います。ユダ ヤ人でなくても、自分が神の民に相応しい人間、自分は選ばれるに相応しい人 間、救われてしかるべき人間であると思っている人は、しばしば「神は不義で はないか」と言い出すのです。例えば、「何でこんな人が教会にいるのか」と 言い出します。こんな人が神の民であり、こんな人が救われると言うなら、そ れは正しくない。もし、それを良しとする神なら、そんな神は正しくない。そ のように言い出します。私たちが正しさの基準を持っていて、それをもって他 人を裁く時、神も同じように裁くべきだと考えるのです。私たちが正しく裁い ているように神も裁かないならば、神は正しくない、と考えるのです。

 しかし、そのような人に対して神は言われるでしょう。「わたしは自分が憐 れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。」神に問題があるので はありません。神の選びと召しは、人の意志や努力ではなく、ただ神の憐れみ によるのです。むしろ問題は、神を不義とする人間の側にあります。神よりも 自分を正しい者とし、神の主権を受け入れない人間の傲慢さにあるのです。

主権者なる神の権限

 そのことを浮き彫りにするために、パウロはあえて神の主権を強調する言葉 を引用します。やはり出エジプト記からの引用です。神はファラオにこう語ら れました。「わたしがあなたがたを立てたのは、あなたによってわたしの力を 現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。(17節)」これは出 エジプト記9章16節の引用です。

 その前後の物語を思い起こしてください。神はモーセを通して、奴隷である イスラエルの民をエジプトから去らせるよう、ファラオに告げられました。し かし、それに対してファラオはこう答えたのです。「主とは一体何者なのか。 どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならない のか。(出5・2)」ここからファラオと主なる神との戦いが始まりました。 彼は神の主権に挑んだ男です。しかし、それは虚しい戦いでありました。ファ ラオは決して神と対等ではないからです。彼は主なる神の支配に逆らいます。 そして、心をかたくなにしていきます。物語では、「ファラオの心はかたくな になり…」という言葉が繰り返されます。しかし、聖書は、神に逆らって戦っ ているファラオが、その時点で既に神の支配下にあったことを告げるのです。 神に逆らうファラオの心が益々かたくなになって行ったところに、既に神の裁 きが現れているのです。神はまさにファラオの心をかたくなにすることによっ て、神の主権を明らかにされたのでした。そして、最終的に、ファラオは破れ、 奴隷の民イスラエルは救われます。ファラオが破れることによって神の力が現 され、奴隷の民が救われることによって、これが完全に神の憐れみによること が現されたのでした。すべては主の名が全世界に告げ知らされるためでした。 そこでパウロは言うのです。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、か たくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。(18節)」

 この18節の言葉は、ある種の反応を引き起こすであろうことをパウロは知 っております。19節をご覧下さい。「ところで、あなたは言うでしょう。 『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らう ことができようか』と。」

 人は自分を義として神を不義とするような者でありますが、もう一方で神に 責められる部分を持っていることを知っているものです。本当には正しくない ことを知っているのです。しかし、そこでなおも人は、自分を正当化するので す。神が主権者であり、すべてが神の御心によってなされるならば、神には人 を責める権利がない。私がこうなったのも神の責任だ。私がこうしているのも 神の責任だ。誰が神の御心に逆らうことができるだろうか、と言い始めるので す。

 それに対して、パウロは神を弁護しようとはしません。あくまでも神の絶対 的主権を主張いたします。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造 られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言える でしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを 貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。(20‐21節)」

 さて、これを皆さんはどう読みますでしょうか。パウロの議論はいささか乱 暴なように思えなくもありません。しかし、神の絶対的な主権を主張するパウ ロの乱暴な論法によってこそ、まさに読者の内に隠れていた思いが表面に引き 出されるのです。いかに常々神に言い逆らって、神に口答えして生きているか。 いかに神の主権を受け入れようとせず、かたくなな心で生きているか。自分を 義とし、神を不義とする傲慢な思いがいかに根強く私たちの内を支配している ことか。神の主権に挑んだファラオは他人の姿ではありません。そうやって神 の前に身を低くしようとしない私たち人間の不遜な有様を象徴しているのです。

怒りの器を耐え忍ばれた神

 しかし、パウロはそのような私たちに対して、神がどのようなお方であるか を語り始めます。神の憐れみを語り始めるのです。パウロは絶対的主権者であ られる神の権限を語りました。そのために焼き物師のたとえを用いました。こ れはイザヤ書にもエレミヤ書にも用いられている、ユダヤ人にとっては馴染み 深いたとえです。しかし、パウロはそこで、焼き物師を超えた方について語り 始めるのです。絶対的な権限を持ちながら、なおも憐れみ深く関わってくださ る方について語り始めるのであります。

 「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器と して滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それ も、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の 豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。(22‐2 3節)」

 神は怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれ たのだ、とパウロは言います。怒りの器として滅びることになっていた者たち ――ユダヤ人たちにとって、それは異邦人に他なりませんでした。彼らこそ、 怒りを受けて滅びるに相応しい者たちであると思っていたのです。しかし、そ うではないことが明らかになりました。不遜にも神を不義とし、何にも支配さ れない自由なる神の主権を認めず、ファラオのように神に挑戦し、神に言い逆 らって来たのは、選民を自認していたユダヤ人たちに他なりませんでした。そ して、私たちもまた同じです。自分を正しい者とし、他人を裁き、神をさえ裁 いていた私たちこそ、まさに神の怒りを受けて滅びるべき怒りの器であったの です。

 焼き物師でしたら、そのような器は叩き壊してしまうでしょう。しかし、神 はそのような怒りの器を耐え忍ばれたのでした。23節に書かれている憐れみ の器と、22節の怒りの器とを、全く別の二者として考えてはなりません。本 来滅びるはずであった者が憐れみを受けたから、憐れみの器と呼ばれているの です。神はただ憐れみによって、そのような者たちに栄光を与えようと備えら れたのです。

 パウロもまた、自分自身が滅びることになっていた怒りの器であったことを 否定できなかったに違いありません。ですから、異邦人たちと共に憐れみの器 として召し出されていることを、感動をもって語っているのです。「神はわた したちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し 出してくださいました。(24節)」

 そして彼はさらに、旧約聖書からホセアとイザヤの預言をかなり自由な形で 引用し、憐れみの器としての教会がいったい何であるかを明らかにします。  「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛 された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所 で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。(25‐26節)」

 もともとホセアが語っていたのはイスラエルの民についてでありました。神 に背いたイスラエルが「自分の民でない者」と呼ばれているのです。しかし、 そのような民が、ただ神の憐れみのゆえに、赦され、受け入れられたのです。 パウロはその神の憐れみの完全なる成就を、本来神の民ではない異邦人が、神 に愛され、生ける神の子らと呼ばれるようになることに見たのでした。そして、 さらにパウロはユダヤ人についても次のように語ります。

 「また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。『たとえイスラエル の子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上にお いて完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。』それはまた、イザ ヤがあらかじめこう告げていたとおりです。『万軍の主がわたしたちに子孫を 残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされた であろう。』(27‐29節)」

 この「残りの者」という言葉はイザヤの預言における一つの鍵語です。その 背景となっているのは、神の裁きの預言です。神はイスラエルをその罪の故に 滅ぼすと宣言されました。しかし、神はイスラエルを滅ぼし尽くしません。神 は「残りの者」を残されるのです。本来滅ぼされて然るべき者が残されるので ありますから、それはただ神の憐れみによるのです。パウロはユダヤ人キリス ト者の中に、その預言の成就を見たのでした。

 そのように私たちもまた、神の憐れみによって、今こうして召されているの です。神の憐れみによることを見失う時、キリスト者は本来の姿を失います。 神の憐れみによって召された教会であることを忘れる時、教会は本来の姿を失 ってしまうのです。

 
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