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「神の義と人の義」

1999年1月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ9・30‐10・4

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マ タイ5・3)」この御言葉を覚えたのは、小学校低学年の頃だったと思います。 日曜学校で教えられた暗唱聖句でした。意味はまったく分かりませんでした。 これがマタイによる福音書に書かれていると知ったのは、後のことです。その 意味するところが少しずつ分かってきたのは、さらに後のことでした。しかし、 この言葉が記憶から失われることはありませんでした。小さい時に、聖書の言 葉に触れることは、その時には分からなくても、後々に決定的な意味を持つよ うに思います。

 ルカによる福音書では、「貧しい人々は、幸いである」となっています。し かし、単に経済的なことを主が言っておられるのではないことを、マタイは示 そうとしたのでしょう。ここで「貧しい」という言葉は、ただ不足していると いう意味ではありません。これは物乞いを表す言葉です。何も持っていないこ とを意味します。何も持っていなければ、受けるしかないわけです。誰から受 けるかといえば、それは神からです。私たちは神から助けをいただかなくては なりません。いや、それ以上に、赦しをいただかなければなりません。「天の 国はその人たちのものである」とは、簡単に言えば、「救われる」ということ です。自らの救いのために何をもなしえない、乞食のような者。受けるしかな い者。救いはそのような者に与えられる、と主は言われるのです。宗教改革者 のマルティン・ルターは言いました。「我々は乞食だ。それは本当のことだ。 」最後の言葉として伝えられております。しかし、私たちはなかなかそうは言 えません。自らの貧しさを認めなくないものです。「我々は乞食だ」とは、最 後まで言いたくない言葉なのかも知れません。しかし、そのような人は、主に 言わせれば「幸いな人」ではないわけです。

信仰による義

 この主イエスの言葉は、今日お読みしましたパウロの言葉とも関連いたしま す。はじめに30節から33節までをお読みいたしましょう。「では、どうい うことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得 ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達 しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いに よって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまず いたのです。『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。こ れを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです。(30‐3 3節)」

 この地上に、恐らくユダヤ人ほど宗教的な民族はいないかも知れません。彼 らほど神のこと、救いのことを真剣に考えてきた人々はいないのではないかと 思います。彼らは確かに神との正しい関係を求めていた人々です。彼らの目か ら見るならば、ユダヤ人ならぬ者、すなわち異邦人は、まったく義を求めてい ない人々であるに違いありません。「異邦人」という言葉を読みます時、私た ちはどこかよその人々を考えてはなりません。それは他ならぬ私たちのことで す。

 私たちは、このように神を礼拝し、聖書を読み、祈ります。そして、このよ うな信仰生活が、ただ日曜日の事ではなく、一週間を通じて、私たちの生活と ならねばならぬと考えていることでしょう。それはもちろん、とても大事なこ とです。しかし、それが大切なことであるゆえに、時として信仰生活そのもの が比較の対象されることが起こります。自分と他の人々を比べるのです。あの 人は、熱心なクリスチャンだ。あの人はクリスチャンらしい生活をしている。 あるいは、人を評価して、「あの人は本物のクリスチャンだ」というような言 い方さえいたします。「本物」がいれば「偽物」がいるわけです。しかし、神 に関わる事柄が生活に浸透して、生活全体を支配しているという点においては、 私たちのしているようなことは、敬虔なユダヤ人たちの足下にも及ばないだろ うと思うのです。かつて自らを「ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関して はファリサイ派(フィリピ3・5)」と見なしていたパウロから見るならば、 私たちはまさに「義を求めなかった異邦人」であるでしょうし、今だに「義を 求めていない異邦人に見えるかも知れません。

 しかし、パウロは言うのです。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信 仰による義を得ました。」その一方で、神との正しい関係に至らなかったのは、 むしろ宗教的な生活を徹底し、律法を守ろうとして生きてきたユダヤ人たちな のだ、と言うのです。「その律法に達しませんでした」というのは、そういう ことです。言葉を加えるならば、「律法によっては義に達しませんでした」と いうことです。何が問題だったのでしょうか。神の前に貧しいことではなくて、 富んでいることでした。すなわち、彼らの持っているものによって、神との正 しい関係に達せられると思っていたところに問題がありました。いわば、彼ら は神の前にある乞食であるとは自らを見なせなかったのです。「イスラエルは、 信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。 32節)」

 「貧しさ」ということに関して、もう一つ思い起こすキリストのたとえ話が あります。ただ持っていないというだけではなく、さらに借金をしている人の たとえ話です。マタイによる福音書に出ています。18章23節以下をご覧下 さい。「…ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始め たところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。し かし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち 物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってくだ さい。きっと全部お返しします』としきりに願った。(マタイ18・23‐2 6節)」一万タラントンを現在のお金に正確に換算することは不可能ですが、 だいたい労働者の賃金の六千万日分と考えたらいいでしょう。要するに返済不 可能な金額です。イエス様は人が神に負っている罪の負い目を、返済不可能な 額と見ておられたことが分かります。これが私の罪の重さ、あなたの罪の重さ です。この人は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言いま した。この人が、もし仮に、本当に自分の努力によって返せると考えていたと したら、それは狂気の沙汰であるに違いありません。パウロにしてみれば、ま さにそれがユダヤ人の姿でありました。ローマの信徒への手紙において「義」 と言われているのは、このたとえで言うならば「借金のない状態」です。その 借金のない状態に、行いによって達せられると考えたのが彼らだと言うのです。 「きっと全部お返しします」と言い続けて頑張っているので、いつまでも霊的 借金地獄にいるのです。

 主イエスはどのようにたとえ話を続けられたでしょうか。「その家来の主君 は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」救いはただ主 人なる神の赦しによるのです。憐れみによるのです。霊的借金地獄がら解放さ れるのは、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と頑固に言い 続ける者ではありません。自分が霊的な破産者であることを認め、神の赦しの 恵みを感謝して受け入れ、神の憐れみに信頼して自分自身を委ねる者なのです。 そのような人が、「信仰による義」をいただくのです。

つまずく者と信じる者

 さて、たとえ話は先に続くのですが、後は読んでおいてください。私たちは 本題であるローマの信徒への手紙に戻りましょう。

 行いによって達せられるかのように考えたユダヤ人たちは、「つまずきの石 につまずいた」とパウロは言います。そして、イザヤ書から自由に引用します。 これはイザヤ書28章16節の引用のようです。原文と若干言葉が違っていま すが、明らかにこの石をキリストを指すものとして理解して引用しています。 十字架にかかられたキリストです。キリストは、行いによって救いが達せられ ると考える人にはつまずきなのです。しかし、信頼し寄り頼む者にとっては、 決して裏切られることのない救いの岩なのです。

 もちろん、パウロは、つまずいたユダヤ人が滅びることを望んでいるわけで はありません。パウロの切なる願いは、彼らの救いです。だから彼は祈るので す。10章1節以下をご覧下さい。「兄弟たち、わたしは彼らが救われること を心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕 えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではあ りません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に 従わなかったからです。(1‐3節)」

 パウロは、彼らの熱心さを証しします。私たちは、律法を守って、行いによ って救われようとしていた人々ついて、「それは表面的なことに過ぎないのだ。 彼らの偽善こそが問題なのだ」と言ってはなりません。彼らは確かに熱心に神 に仕えていたのです。それはパウロ自身、ファリサイ派のユダヤ人であったか らよく分かるのでしょう。

 問題は、その熱心さが「嘘」であったということではありません。そうでは なくて、その熱心さが「正しい認識に基づくものではなかった」ということな のです。そこにあるのはまず罪に対する認識の欠如です。一万タラントンの借 金が分からないことです。十字架のキリストの上に下された神の怒りは、とり もなおさず人間の罪の重さを表しています。人間の罪に対して本来下されるべ き神の怒りがそこに現されているのです。それは私の罪であり、あなたの罪で す。そして、神の憐れみに対する認識が欠如していました。神は、ただその憐 れみによって、キリストを十字架にかけ、贖いとされ、人に神の義を与えよう と定められました。しかし、往々にして人は、その神の方法を良しとせず、自 分の義を求めようとするのです。「自分の義を求める」という言葉は、「自分 の義を立てようとする」という言葉でもあります。そのほうが分かりやすいか もしれません。いずれにせよ、そこに彼らのつまずきがありました。

 しかし、そのような認識を欠いた熱心さ、神の義を知らず、自分の義を立て ようとする熱心さは、今日においてもいくらでも見られることです。神の為に 何をするかが神との関係において決定的な意味を持っていると考えている人は、 神の憐れみに身を委ね、神の感謝して、神を礼拝し、キリストの血と肉とに与 って生きていくことを良しとしないでしょう。自分が神の為に何をしているか が最大の関心事である人は、何もなさずに聖餐に与っている人を見下し、「彼 らは本物のキリスト者じゃない」と言い出すことでしょう。自分の行いに誇り を持っている熱心な善良な人ほど、「わたしはキリスト教につまずいた、教会 につまずいた、クリスチャンにつまずいた」と言うものです。しかし、そのよ うに言うことによって、実は本当はキリストにつまずいているのだ、というこ とを知らねばなりません。行いによらず、ただ神の憐れみによって人を救おう とされるキリストにつまずいているのです。自分の救いのために何も差し出し 得ない罪人を救うために十字架にかかられ、血を流されたキリストにつまずい ているのです。ただご自身を信じる者を義としたまうキリストにつまずいてい るのです。正しい認識に基づかない人間の熱心さほど自分自身と他者を不幸に するものはありません。

 最後に4節をお読みしましょう。「キリストは律法の目標であります。信じ る者すべてに義をもたらすために。(4節)」

 ここで「律法の目標」は「律法の終わり」とも訳せます。キリストは律法の 目標であり、その成就であり、それゆえに律法の終わりなのです。律法の目標 は、人を義とすることです。しかし、人は律法の行いによって義とされたので はなく、キリストによって神の義が与えられました。人が何かを成したのでは なく、キリストが成してくださいました。それゆえ、義は信じるすべての者に もたらされます。義は与えられ、律法の目標は成就しました。信じるすべての 者は、もはや多額の負債者ではなく、負債を帳消しにされた者として、神との 正しい関係に生きることができるのです。それゆえ、律法の行いによって義と される道は閉ざされました。律法に終止符が打たれました。「きっと全部お返 しします」と言っていた人間に対し、神は「もういいのだよ」と言われました。 信じる者は、神の赦しによって、新たに神と共に生き始めます。その人は「我 々は乞食だ。それは本当のことだ」と認識して生きていきます。しかし、それ は神に憐れまれた者としての認識に基づいて生きることに他なりません。実は、 それが最も豊かな者として生きることに他ならないのです。「信ずる者は、失 望することがない。」キリストにつまずかない者は幸いです。

 
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