(日本基督教団千里聖愛教会 松原茂牧師説教)         「徴税人の祈り」                           ルカ18・9‐14  イエス様は、この章の1‐8節に、気を落とさず、失望しないで絶えずお祈 りするように、弟子たちにたとえをお話になりました。今日学びますイエス様 がなさったお話は、自分は正しい人間である、自分は義人であると信じ、うぬ ぼれて、他人を見下している人々に対してなされた、次のようなたとえであり ます。  「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一 人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す 者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは 週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』(10‐12節)」  ファリサイ派の人は自分を立てて、自分自身に向かって(「心の中で」を直 訳するとこうなります)、自分自身に対してこんなお祈りをしました。「わた しはモーセの律法を守っています。(マタイ19・20)。また、この徴税人の ような罪人でないことを感謝します。週に二度断食をし、全収入の十分の一を 献げています」と。  「ファリサイ」とは「分離されたもの」という意味です。自分たちを律法に 忠実な者たちとして、すべて清くないものから分離したためにつけられました。 もともと彼らは神様の律法を大切にしていた人たちで、この世的な妥協などせ ず、一生懸命主の掟を守り、敬虔な生活をモットーとして、毎日の祈りと決め られた断食をして、神の国を待ち望んでいました。彼らは職人、農夫、商売を してた一般の信徒たちからなる集まりで、当時六千人以上のメンバーがいたと 言われています。ファリサイ派の人たちは、ユダヤ教の中でもエリート集団と して、「律法をわきまえない人たちは呪われている(ヨハネ7・49)」として、 そういう人たちから自分たちを区別していました。律法を守らない罪人と交わ ることは自分たちも汚れるとして、彼らから身を遠ざけていました。ですから、 ファリサイ派の人たちにとって、イエス様が公に罪人とみなされていた人たち と積極的に交わることは、どうしても理解できませんでした。(マルコ2・15 ‐16)ファリサイ派の人たちは律法を学ぶことに熱心でした。彼らの中から優 秀な律法学者が多く輩出しました。ですから彼らはモーセの律法には詳しく、 成文律法や口述伝承を用いて、自分たちの生活に生かせるよう解釈もしていま した。使徒言行録では、パウロも「わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたが って、ファリサイ派の人として忠実な生活をしていた(使徒26・5)」と言っ ています。パウロの先生ガマリエルも、ファリサイ派の人でした(使徒5・34 参照)。最高法院の中にあってファリサイ派は大きな影響力を持っていました。 さらにエルサレムの崩壊後、地方にあるシナゴーグを中心に活動をし、現在に 至るまでユダヤ教の再建に大きな指導的役割を果してきました。  ヨブ記の中で、あの敬虔な信仰の深いヨブが、「自分を無罪とするために、 神を有罪とさえするのか」と言われているように、その苦しみの中から全能者 でいらっしゃる神様と言い争ったことがありました。(ヨブ40・2、8)同じ ように、ファリサイ派の人たちはまじめに律法に取り組んでいる間に、へりく だることを忘れてしまっていました。私たちキリスト者も同じあやまちをして いることはないでしょうか。ファリサイ派の人に言われていることは、実は今 のキリスト者に言われていることでもあります。                   ○  「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ち ながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(13節)」  徴税人、収税請負人は国家から税法の執行権を買い取り、納税者から税を徴 収していました。収税請負人は、その年の間に請け負った額、全額を徴収する 義務があります。余剰金は請負人のものとなりましたが、不足分が出たときは 肩代りしなければなりませんでした。請負組合が組織されており、税の取り立 ては、雇われた運び人によって行われました。共観福音書の徴税人と言われて いる人たちは大抵ローマの収税請負組合に雇われた人たちであったと推測され ます。イエス様時代の徴税人は、個々の手数料(市場への出店料、通行料)、ま た、税(営業税、住居税、消費税)を請け負っていた裕福なユダヤ人たちでした。  徴税人マタイは、イエス様に、わたしに従って来るようにと、お声をかけら れました。彼はその喜びを分かち合うために、大勢の徴税人や罪人といわれて いる人たちを招きました。また、イエス様をもお招きして、一緒に食事をしま した。それを見て、ファリサイ派の人たちは憤って、弟子たちに、「なぜ、あ なたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。イエ ス様はこれを聞いてファリサイ派の人々に言いました。「医者を必要とするの は、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、い けにえではない』(ホセア6・6)。わたしが来たのは、正しい人を招くためで はなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・9‐13)  徴税人は何の功績、いさおしをも主張できません。彼は祈るとき、目を天に 向けることができませんでした。彼は罪を犯したことの悲しみをあらわすのに 胸を打ちたたいて、そのことを表現する以外、ことばにして祈ることができま せんでした。ルカ23章48節には、十字架上で息を引き取られたイエス様を 見物に集まっていた群衆も皆、「これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰っ て行った」とあります。  日頃、親を大切にしなければいけない、大事にしなければ――と思っている うちに、突然親が亡くなったとき、また葬儀のあとで親族代表として皆様に挨 拶するときに、挨拶の途中、ことばが途切れ、慟哭してしまうことを、わたし たちは経験いたします。「胸を打ちたたいて」というのは、そのような様に似 ています。  「神様、罪人のわたしを憐れんでください。(13節)」自分は哀れな罪人以 外の何者でもないことを神様に、胸を打ちたたいて訴え、赦しを徴税人は真剣 に求めています。ここには自己信頼はありません。あるのは悔い改めと神様へ の信頼だけであります。  「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、 互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にあり ません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦 し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがな いと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの 内にありません。(一ヨハネ1・7‐10)」  ファリサイ派の人の祈りの中には、神様に自分の罪の告白は見出すことはで きませんでした。反対に自分は正しい人間だとうぬぼれ、自分自身を義なる者 であると頼んだお祈りをしました。  パウロは次のように言っています。「律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者で した。…わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰に よる義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。(フィリピ3・6‐9 )」また、「イエス・キリストを信じる信仰」義認のため、「律法の行いによる 」義認を排除します。「なぜなら、律法の行いによっては誰一人として「義と される」ことがないからである」(ガラテヤ2・16‐21)と。  そして、イエス様は仰いました。「言っておくが、義とされて家に帰ったの は、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低 くされ、へりくだる者は高められる。(14節)」  「へりくだる者」についてはこのように書かれています。「わたしが顧みる のは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。(イザヤ66 ・2)」  「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言 われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人 と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得さ せる。(イザヤ57・15)」  わたしたちは、自分に都合のよいみ言葉、気に入ったみ言葉だけを喜び、気 に入らないメッセージには反発しがちです。それこそが、主に却けられます。 私たちの期待を粉々にする主のみ言葉の前に、心砕かれ、畏れおののきつつ、 「父のみこころをなしたまえ」とお祈りになられた、主イエス・キリスト様に 倣う者としてください、と祈ります。  また、神様ご自身が、砕かれへりくだらされた者と共に住んで、その人の霊 と心を生かすと仰っておられます。私たちの霊と心を生かすものは、主ご自身 の臨在とお交わりなのです。私たちはそのことを十分に悟らないため、しばし ば主にそむいて自分勝手な道に進んでいきます。そんな私どもを主は打ち砕き 給います。その主の愛の鞭を覚えて、主の御前に――イエス様のたとえに出て きました徴税人の祈りのように――罪を告白する者が、砕かれた、へりくだっ た人なのであります。私たちが主のみ恵みに与る道は、この他にないというこ とです。  イエス様の、み言葉の中に、「(誰でも)高ぶる者は低くされ、自分を低く する者は高くされる」という文が三回現れます。マタイ23・12は、その一 例です。この諺は、ファリサイ派の人の行いへの警告との関連があります。自 分を低くすることは、仕える者であるということと同義であります。(マタイ 23・11)自分を低くする者は、仕える者であります。このような者は、神 様によって高められるのです。しかし、自分の栄誉を求める者(マタイ23・ 5‐10)は、神様によって低くされます。                   ○  イエス様は多くのたとえをお話になりました。しかし、多くの人々は、その たとえの意味が理解できませんでした(マタイ13章)。今日学びました、た とえは大変やさしいたとえであります。が、実はファリサイ派の人たちが気づ いていない高慢の罪、徴税人が犯してきた罪、咎をば、すなわち、わたしたち すべての罪人の罪をば、十字架の上に贖われることが、これらのたとえの意味 の背景に隠されているのであります。イエス様御自らが、本当に、父なる神様 の御前にへりくだられ、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられま した。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに なりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべて、イエス の御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に 宣べて、父である神をたたえるのであります(フィリピ2・7‐11)。  イエス様は、どうしてファリサイ派の人の心や、徴税人の心の中をご存じな のでしょうか。実は、イエス様は、わたしたちすべての人の心をご存じな方で す。徴税人の、祈りにならない祈りの言葉を通して、今日イエス様は、私たち 「自分自身」を聖霊によって判断し、自らをわきまえる者にしてくださいます。 私たちは、イエス様によって罪を贖われ、罪赦された「罪人」であります。神 の国と神の義のみ言葉を成就された、主イエス・キリスト様の御名に栄光があ りますように。