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「待望の詩」

1999年1月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編第25編

 今日は詩編第25編をお読みします。これは内容的には個人の詩です。しか も、恐らくある特定の状況における苦難を背景とした詩です。しかし、この詩 の最後は、「神よ、イスラエルをすべての苦難から贖ってください」という言 葉で終っています。この部分は後に加えられたもののようです。これが加えら れて、イスラエルの民の共同の礼拝で用いられたのでしょう。また、この詩は いくつかの例外を除いて、アルファベットで始まるいろは歌のようになってお ります。それは記憶するためであり、また共に歌うことができるようにするた めであるに違いありません。このように、イスラエルの民は、この非常に個人 的色彩の強い詩を、あえて共に記憶し、共に用いる歌としたのでした。それは この個人的な詩の中に、信仰者に共通した経験が歌われているからに他なりま せん。それゆえに、私たちもまた、この歌を私たちの歌として読み、歌うこと ができるのです。これは私の歌であり、あなたの歌なのです。

わたしの魂はあなたを仰ぎ望む

 はじめに1節から7節までをお読みしましょう。

     主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
     わたしの神よ、あなたに依り頼みます。
     どうか、わたしが恥を受けることのないように
     敵が誇ることのないようにしてください。
     あなたに望みをおく者はだれも
        決して恥を受けることはありません。
     いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
     主よ、あなたの道をわたしに示し
     あなたに従う道を教えてください。
     あなたのまことにわたしを導いてください。
     教えてください
     あなたはわたしを救ってくださる神。
     絶えることなくあなたに望みをおいています。
     主よ思い起こしてください
     あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
     わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず
     慈しみ深く、御恵みのために
        主よ、わたしを御心に留めてください。                   (1‐7節)

 ここで語られている敵がどのような者たちであるかは分かりません。彼が具 体的にどのような苦しみを受けているのか分かりません。ただ、そこには「い たずらに人を欺く者」という言葉が出て来ますから、この詩人の苦しみは、他 者の不真実によるものと考えることもできるでしょう。もともとは彼の友であ った人々かも知れません。しかし、今は彼らの憎しみに取り囲まれているので す。

 人は常に友に囲まれて生きているわけではありません。いつでも人の真実に 囲まれて生きているわけではありません。明瞭な敵ではなくても、しばしば苦 しみは周りの人々からやってきます。私たちはしばしば他者の不真実、欺きの ゆえに苦しみます。そして、受ける苦しみが何の謂われもないものであるとき、 苦しみは幾倍にも膨らむものです。この詩人の経験は、多かれ少なかれ、私た ちの誰もが経験するものであるに違いありません。

 多くの人は、敵に囲まれている時にはただ敵のことを考えます。苦しんでい る時にはただ苦しみのことで頭がいっぱいになるものです。しかし、この人は、 敵に向って、苦しみに向かって時を過ごしません。むしろ、より多くの時を神 に向かうことに費やします。彼は自分の魂を高く引き上げてくださる神の向か うのです。彼は敵の不真実に囲まれようとも、唯一真実なる方を知っているか らです。人に望みを置くならば、失望することもあるでしょう。しかし、この お方に望みを置く人は、失望せられ、恥を受けることはありません。それゆえ、 彼はただ苦難を逃れる道ではなく、神の道を求めます。神の真実によって生き る道を求めていくのです。

 しかし、人が神の道を求めて神に向かう時、その真実の前で知らされるのは 己の汚れです。自分自身の罪であります。他人の罪しか見えていない人、敵の 不真実しか見えていない人は、いまだ闇の中にいる人です。光を求めていくな らば、光に曝されねばなりません。光に曝される時に、自らの汚れを認めざる を得なくなるのです。この人は、神に向かった時、ただ神の憐れみと慈しみに 依り頼むことしかできませんでした。憐れみと慈しみに依り頼むことなくして、 まことの神に向かうことはできません。彼はただ神に御自身の慈しみを思い起 こしてくださるように、そして自分自身の過ぎし日の罪を忘れてくださるよう にと願います。彼は確かに他者の罪のために苦しんでいるのでしょう。しかし、 神の前にはいかなる己の正しさをも持ち出すことはできないことが明らかにさ れるのです。

契約の主に向かって

 続いて、8節から14節までをお読みしましょう。

     主は恵み深く正しくいまし
     罪人に道を示してくださいます。
     裁きをして貧しい人を導き
     主の道を貧しい人に教えてくださいます。
     その契約と定めを守る人にとって      主の道はすべて、慈しみとまこと。
     主よ、あなたの御名のために
        罪深いわたしをお赦しください。
     主を畏れる人は誰か。
     主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
     その人は恵みに満たされて宿り
     子孫は地を継ぐであろう。
     主を畏れる人に
        主は契約の奥義を悟らせてくださる。                   (8‐14節)

 彼の意識から敵の存在が遠のきます。彼の思いは、唯一の拠り所である神と の契約へと向かいます。「契約」とは、神と人との絆です。それは人間が造り 出したのではなく、神の恵みによって与えられたものです。それは神が「あな たはわたしの民である」と言い、「わたしはあなたの神である」と言ってくだ さることです。信仰を言い表し、信仰者として生きるということは、神の民と して、神の与え給う絆に生きることに他なりません。

 彼は神の契約を思います。そして、神の与えてくださった神との絆を思う時、 神は決して罪人を捨て置かれる神ではなく、道を示して導いてくださる方であ ることを悟るのです。主はご自身の道を貧しい人に教えてくださいます。ここ で「貧しい人」とは、単に経済的に困窮している人のことではありません。1 2節にあるように、主を畏れる人です。すなわち、自分自身の罪深きことを認 め、自らを救い得る何らの手だてをも持たない貧しい者であることを認め、身 を低くしてただ主にのみ依り頼む人のことです。神はそのような人を滅ぼすこ となく、憐れみをもって道を示し給うのです。主の契約に生きる人にとって、 主の道はすべて慈しみとまことです。それゆえ、彼はただひたすら神の赦しを 乞い求めるのです。「主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しく ださい。

 私たちは、主を畏れる人の幸いを、この人の言葉の内に見ることができます。 神の前にへりくだり、憐れみを求めた罪人は、未来に向かって目を上げます。 道は人が切り開くのではありません。既に道は備えられているのです。主はご 自身を畏れる者に選ぶべき道を示されます。そして、神の恵みの約束は彼自身 のみならず、彼の子孫をも既に捕らえて離さないのです。こうして、主を畏れ る者たちは、その歩みにおいて、さらに深く神との絆を悟らされるに至るので す。

無垢でまっすぐな人の祈り

 最後に15節から22節までをお読みしましょう。

     わたしはいつも主に目を注いでいます。
     わたしの足を網から引き出してくださる方に。
     御顔を向けて、わたしを憐れんでください。
     わたしは貧しく、孤独です。
     悩む心を解き放ち
     痛みからわたしを引き出してください。
     御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。
     どうかわたしの罪を取り除いてください。
     御覧ください、敵は増えて行くばかりです。
     わたしを憎み、不法を仕掛けます。
     御もとに身を寄せます。
     わたしの魂を守り、わたしを助け出し
     恥を受けることのないようにしてください。
     あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら
     そのことがわたしを守ってくれるでしょう。                  (15‐21節)

 この詩人は再び自らの苦境を訴えます。彼は自分を罠にかかった動物のよう に感じています。自分の力で現状をどうすることもできません。彼は孤独です。 彼の苦しみを理解してくれる人がいません。敵はますます増えていきます。彼 は人々の憎しみに囲まれています。不法を仕掛ける者たちの中にあって自分自 身を守ることができません。

 しかし、彼は主にひたすら目を注ぎます。神に苦境を訴える彼の言葉は、も はや絶望の中からの叫びではありません。彼は、足を網から必ず引き出してく ださる方を知っています。その方に目を注いでいるのです。彼は孤独を訴えま すが、本当は孤独ではありません。御顔を向けて憐れんでくださる方を知って いるからです。本当に孤独である者は孤独を口にすることはできないでしょう。 彼は誰に理解されなくとも、彼の苦しみと労苦をつぶさに見ていてくださる方 がいることを知っています。かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民に ついて、主はモーセにこう言われました。「わたしは、エジプトにいるわたし の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、そ の痛みを知った。(出3・7)」この同じ主が彼の苦境に無関心であるはずが ないと信じて訴えるのです。「ご覧下さい、わたしの貧しさ(これは「苦しみ 」とも訳せる)と労苦を。」

 そして、何よりも、このお方は罪を取り除いて下さるお方です。「どうかわ たしの罪を取り除いてください」と祈り得るとは、何と幸いなことでしょう。 このことのゆえに、人は神のもとに身を寄せることができるのです。神のもと に身を寄せて彼は言います。「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そ のことがわたしを守ってくれるでしょう。(21節)」ここで彼が言っている 「無垢でまっすぐ」であるということは、彼の依り頼むことのできる自分自身 の正しさではありません。それは既に罪の赦しを求める彼の言葉の中に見てき た通りです。無垢でまっすぐであるということは、その前に書かれている「あ なたに望みをおき」ということと一つです。ただ、神に向かい、神に目を注ぎ、 神にのみ望みをおいて生きていることです。これを信仰と言い換えてもよいで しょう。神との絆に生きていることです。このこと以外に、最終的に人を守り 支え生かすものはありません。

     神よ、イスラエルを
        すべての苦難から贖ってください。                           (15‐22節)

 イスラエルの人々は、この一人の人の歌を、共に歌う礼拝の歌としました。 そして、この歌は苦難の歴史において歌い継がれて来たのであります。幾千年 を経て私たちの手元にまで届きました。この歌は、キリストによって贖われ、 神の民に加えられた私たちもまた与えられております。私たちもまた、この詩 人のように、はばかることなく御前に出て、神を待ち望み、「すべての苦難か ら贖ってください」と祈ることができるのです。

 
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