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「万人の救い」

1999年2月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ10・5‐13

 この世界は災いと不幸に満ちています。人生には常に悲しみと悩みの影がつ きまといます。それゆえ、いかなる人の内にも、それがどのような形を取るに せよ、救いへの希求が存在するものです。ある時には漠然と心の奥底にある求 めであるかも知れません。ある時には切実なる叫びとなって現れるでしょう。 このように救いを求める人間に対し、聖書は人間の救いが神との正しい関係に あることを教えています。満たされなくてはならない必要や、解決されねばな らぬ問題が山ほどあることでしょう。しかし、神との正しい関係なくして、人 に本当の救いはありません。この世界は神の世界であり、私たちは神の手によ る被造物です。この人生も、本来神のものです。その神との関わりなくして、 私たちに救いがあろうはずがありません。

 10章1節において、パウロはこう言っています。「兄弟たち、わたしは彼 らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」明らかに、 パウロは、救いを得ていない人々のために祈っています。神との正しい関わり に生きていない人々のために祈っているのです。しかし、彼らはなぜ、救いを 得ていないのでしょうか。彼らが神との正しい関係を求めなかったからでしょ うか。いいえ、そうではありません。彼らは「義」、すなわち神との正しい関 係を何よりも求めていた人々です。では熱心さが欠けていたのでしょうか。あ るいは熱心さはあっても努力と行いが欠けていたのでしょうか。いいえ、そう ではありません。2節を見ますと、パウロは「彼らが熱心に神に仕えているこ とを証しします」と言っているのです。では何が問題だったのでしょう。その 熱心さが正しい認識に基づいていないことに問題がありました。では誤った認 識とは何でしょう。9章32節にはこう書かれています。「イスラエルは、信 仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。 」これが10章3節にある「自分の義を求めようとして」ということです。人 は自分の正しさを立てようといたします。そして、それによって打ち立てられ る神との正しい関係を求めようとするのです。こちら側からその関係を築くの でなければ気が済まないのです。しかし、パウロは、それこそが認識の欠如だ、 と言います。そうしている限り、救いを得ることはできないと言っているので す。

信仰による義

 それでは5節から8節までをお読みしましょう。「モーセは、律法による義 について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。しかし、信仰 による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか 」と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりませ ん。また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、 キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われている のだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。 』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。(5‐8節)」

 確かに、聖書は「律法による義」すなわち、人間が律法を守ることによって 打ち立てることのできる神との関係について語っています。「掟を守る人は掟 によって生きる」と訳されている言葉は、レビ記18章5節からの引用です。 「生きる」というのは、神との交わりにあって神の命に与ることです。真に人 が「生きる」というのは、神との交わりによるのであって、それは神の掟を守 ることによって得られると聖書は語るのです。

 イスラエルの人々が掟を守ることによって義を得、命を得ようとしたのは、 確かにこのような言葉に基づいてのことであったに違いありません。そして、 彼らは真剣にこのことを努めたのです。しかし、本当に努力した人ならば知っ ていたはずです。「掟を守る人は掟によって生きる」という言葉は、とてつも ない要求を伴うということを。人間がいかに罪深く、いかに神に対して不従順 な存在であるかを知っている人、その性根がいかに腐っているかを認識してい る人は、自分がいかに神の救いから遠いか悟らざるを得なかったに違いありま せん。人間が自分の行いによって義に至るということは、まさに自力で天にま で上っていくようなものです。あるいは自ら底なしの淵に降るようなものです。 多くの敬虔な人々が、律法を守る努力をしていながらも、いかに救いについて 不確かであったかは、主イエスのもとを尋ねてきた人々の言葉からも伺い知れ ます。幼い頃から律法は遵守してきたと語った富める青年。(マタイ19・1 6以下)彼は主にこう尋ねます。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いこ とをすればよいのでしょうか。」

 いや、このような人は、何もユダヤ人だけではありません。今日、この国の 多くの人々の中に、同じ考えを見出すことができます。、自分には救いが必要 だと認識し始める。しかも、それは今目の前の問題が解決したら良いというよ うなことではないらしいことが分かり始める。小手先の気休めのようなもので はなくて、人生の根本的な変革が必要らしいことも分かる。そして、更に言え ば、それはそのような根本的な救いは、神との正しい関係なくして得ることは できないことも理解できる。本当の命は、神との関わりなくしてあり得ないこ とも分かる。そこまでは行くのです。しかし、その先の一歩が出ない。なぜで しょうか。神との正しい関係を築くのは、やはり人間の行いだと思っているか らです。だから真面目に考える人であればあるほど、それは天にまで上るよう なこと、底なしの淵に降るようなことに思えるのです。とてもそこまで行けな い、と。

 しかし、6節でパウロはこう言うのです。「しかし、信仰による義について は、こう述べられています。」これは分かり易い訳ですが直訳ではありません。 ここには、「しかし、信仰による義がこう言っている」と書いてあるのです。 人間が行いによって獲得していく義ではなくて、「信仰による義」が語ってい るのです。「信仰による義」が私たちに向かって叫んでいるのです。「心の中 で『だれが天に上るか』と言ってはならない」と叫んでいるのです。頑張って 天にまで上ろうとしなくていいし、またそのゆえに諦めてしまう必要もないの です。なぜでしょうか。私たちが上っていくのではなくて、キリストが降って きてくださったからです。ですから、まだ天にまで上らなくてはならないと考 えている人は、神様の恵みによって降ってきてくださったキリストを、私たち がわざわざ頑張って再び地上にまで引き下ろそうとするような愚かなことなの です。

 また信仰の義はこうも叫んでいます。「『だれが底なしの淵に下るか』と言 ってもならない。」私たちは神との関係を築くために、一生懸命に苦悩を自ら 頑張って背負って底なしの淵にまで下っていこうとしなくてよいのです。なぜ なら、キリストご自身が死の世界である陰府の深淵に下ってくださったからで す。あなたはそのキリストを引き上げに行こうとでも言うのでしょうか。それ は愚かなことです。なぜなら、神は御自らキリストを死者の中から引き上げ、 復活させ給うたからです。人間は何もしませんでした。神が為し給うたのです。

 要するに、すべて神がしてくださった、ということです。神との関わりは人 間が造り出すのではなく、神が与えてくださるのです。それが信仰による義で す。人間は信仰によってただ受けるだけなのです。それゆえ、このように語ら れています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。 」そうです。救いの言葉は、近くにあるのです。どこにでしょう。福音が宣べ 伝えられているところにです。信仰の言葉が語られているところにです。すな わち、今あなたがいるこの場所にです。御言葉は近くにあります。後は、あな たの口にあり、あなたの心にあればよいのです。そこに信仰による義もまたあ るのです。

あなたの口にあり、あなたの心にある

 では、信仰によって受ける、信仰の言葉が口にあり心にあるとは、具体的に どういうことでしょうか。9節から13節までをお読みしましょう。「口でイ エスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられ たと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、 口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、だれも失 望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、 すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵み になるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。(9 ‐13節)」

 心と口。心で信じて、口で公に言い表す。そのように繰り返されています。 しかし、一般的に「信仰」と言われます時、それは「心」にしか関わっていな いものと理解されているのではないでしょうか。心で「信じる」のですから、 それで十分であると考えられてしまうのです。しかし、パウロが信仰と言いま すとき、それは単に「心」にだけではなく、「口」にも関係しているのです。

 いや、さらに言うならば、「心で信じる」ということと「口で公に言い表す 」ということは一つのこととして語られているのです。別々のことではないの です。信じてから言い表すのでもなければ、言い表していることを信じるよう になるのでもないのです。それは9節と10節で順序が違っていることからも 分かります。9節では「言い表し、信じる」。10節では「信じて、言い表す 」。別々のことでしたら、これは成り立ちません。また、もし信じることと口 で言い表すことが別であったら、義とされることと救われることも別のことに なってしまいます。しかし、義とされているけれど救われていない、などとい うことはあり得ません。

 「口でイエスは主であると公に言い表し」と言われています。「イエスは主 である」という言葉は、私たちが礼拝で唱えている使徒信条のようなものが出 来る前にあった、原始的な信仰告白の定式です。「イエスは主である」。この 言葉の根拠は、イエスの復活です。神はこのお方の死をもって私たちの罪を贖 われ、死人の内より復活させて、私たちが信ずべき主としてくださいました。 そして、このお方において、私たちの救いに必要なすべてが成し遂げられたこ とを宣べ伝えられ、信じた者たちは、「イエスは主である」と言い表して、イ エスを主として生き始めたのです。しかも、ある人が「イエスは主である」と 思ったというのではなくて、皆が共に言い表した。そして、共に「イエスは主 である」と言い表す教会の宣教によって、また別の人が信じ、同じ言葉で「イ エスは主である」と言い表す。このようにして、信仰を言い表す定まった言葉 が形成されていったのです。

 さて、ここで大事なことは、御言葉を宣べ伝えた教会と共に同じ言葉で言い 表すということです。「公に言い表す」という言葉は、しばしば「告白する」 とも訳されますが、実はこの言葉の元の意味は「同じことを言う」という意味 なのです。信仰の言葉を伝えてきた代々の教会と同じことを言うのです。言い 換えるならば、同じ言葉をもって信仰を言い表すその場に自らも身を置くとい うことです。洗礼を受けられた方は、その際に「この信仰を告白しますか」と 問われましたでしょう。このような告白と「心に信じる」ということと一つと なっているのが、聖書の語るところの信仰に他ならないのです。

 ですから、明らかなことは、教会から離れ、自分の心の中でだけ神を思いキ リストを思っているのをパウロは「信仰」とは呼ばないということです。ここ で語られているように、人が義とされ救われる、人を神との正しい関わりに生 かす信仰はそのようなものではない、ということです。少なくとも、それはキ リスト教の信仰ではありません。また、いかに大きな経験をしようが、霊的な 体験があろうが、それは代々の教会と共に、同じ信仰を言い表すこと以上の意 味はありません。

 教会が宣べ伝えてきた信仰の言葉が「あなたの口、あなたの心にある」とい うことが大切なのです。「信仰が深まる」という言葉を時々耳にします。これ は非聖書的表現ですが、あえてこの言葉を用いるとするならば、それは決して、 神について、キリストについて、聖霊について、何か特別な新しい発見や体験 をすることではないのです。そうではなくて、代々の教会が宣べ伝えてきた信 仰の言葉を、真に自分のものとしていくことに他ならないのです。そして、そ のように主を信じ、「イエスは主である」と告白して生きる者は、誰も失望す ることはない、と約束されています。なぜなら、代々の人々と共にこの方を主 と崇め、この方のものとして生きる者には、信仰による神の義が与えられてい るからです。御言葉はあなたの近くにあります。ただこの信仰の言葉が「あな たの口、あなたの心にある」かどうかが、決定的な意味を持つのです。

 そして、それが決定的な意味を持つということは、他の違いが引っ込むとい うことを意味します。ですからパウロは繰り返し「ユダヤ人とギリシア人の区 別はない」と言うのです。パウロがこう言うのは、「人類皆兄弟」的な発想で はありません。これは同じ主がおられる、ということによるのです。このお方 によって、救いは万民に対して開かれました。この主なるお方は、御自分を呼 び求めるすべての人を豊かにお恵みくださいます。パウロはヨエル書3章5節 を引用していいます。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」「だれ でも」ですから、そこに私もいることができ、あなたもいることができるので す。

 
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