「信仰は聞くことから」
1999年2月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ10・14‐21
「主を信じる者は、だれも失望することがない。」先週お読みしました11章 11節の御言葉です。「だれも」――原文では「すべて」となっています。12節 にも「すべての人」が繰り返されています。13節にも「主の名を呼び求める人 はだれでも救われる」と記されています。「すべての人」です。この部分を口述 筆記させていたパウロの頭の中には「すべての人、すべての人」という言葉がこ だましていたのではないかとさえ思われます。もはやユダヤ人もギリシア人もな い。キリストによって、すべての人に救いの扉が開かれている。そのことをパウ ロは喜びをもって思い巡らします。すべての人に同じ主がおられる。この主は、 御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みくださるのです。救いを決定する のは、その人が何者であるか、ではありません。どのようなところに生まれ、ど のようなところで育ったかではありません。その人が過去に何をしてきた人であ るか、ですらありません。「主の名を呼び求める人はだれでも救われる」のです。
キリストの呼び掛け
それでは14節と15節をお読みしましょう。「ところで、信じたことのな い方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じら れよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わ されないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の 足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。(14‐15節)」
「主の名を呼び求める人は救われる」。しかし、「主の名を呼び求める」と いう出来事は、ただある瞬間に直接的に生起するのではありません。そこに至 るまでの一連の鎖があるのです。パウロはその鎖の一つひとつを問いかけの形 で明らかにいたします。人が主を呼び求める。それは主を信じるから呼び求め るのであるに違いありません。ここで、「主を呼び求める」ということと、パ ウロがこれまでに述べてきた「信仰」ということがつながります。そして、主 を信じるということは、「聞く」ということなくしてあり得ません。聞くこと ができるのは、宣べ伝える人がいるからです。そして、宣べ伝えるのは、キリ ストによって遣わされるからです。教会の宣教はキリストによる派遣に基づく のです。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と書かれて いるとおりです。
この最後の言葉は重要です。これは、福音の宣教ということが、ただキリス ト者の自然な心情から生じるのではない、ということを意味します。時々、伝 道ということを、この世に数ある「良いものの紹介」と同じことに例えられる のを耳にします。「自分が美味しいものを食べたら、他の人にも『食べてごら んよ』と言いたくなるでしょう。」伝道をこれと同じように理解するのです。 それは必ずしも間違いとは言えないかも知れませんが、それがすべてであると 考えてもなりません。「あなたも食べてごらんよ」と言うのは、遣わされてす ることではないでしょう。福音の宣教は、あくまでも人間の自然な心情に根拠 があるのではなく、キリストの派遣に根拠があるのです。
そして、この後に書かれていることとの関連で、もう一つ大切なことを理解 しておかなくてはなりません。それは「宣べ伝える」ことと「聞く」ことの意 味です。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」これは通常、次 のように理解されます。「キリストについて聞いたことがなかったら信じるこ とは不可能だ」。しかし、考えてみれば、キリストについての何らかの情報を 与えるというだけならば、キリストから遣わされなくてもできることでしょう。 誰でもキリストについて語ることはできるのですから。そうしますと、どうも ここで「宣べ伝える」というのは、単に“キリストについて”語るということ でなく、「聞く」というのも、単に“キリストについて”聞くことではなさそ うです。
キリストが派遣する、そして派遣された者が宣べ伝える。それは、直接的に は宣べ伝えている者が語っているのでありますが、間接的にはキリストご自身 が語っていることを意味します。キリストが宣教を通してご自身を伝え給うの です。キリストが宣教の言葉を通して、信仰へと人を招き給うのです。キリス トが教会の言葉を通して、呼び掛け、語りかけておられるのです。教会の宣教 とは、私たちがキリストについて世に語ることではありません。教会を遣わし て、キリストが世に語るという出来事なのです。でありますならば、「聞く」 という事の内容も自ずと明らかになってまいります。「聞く」ということは、 キリストについて聞くことではありません。宣教の言葉を通して語られるキリ ストの語りかけを聞くことなのです。
信仰は聞くことから
このように、パウロはキリストの御意思が貫かれている一連の鎖の先に、主 の名を呼び求めるという出来事があることを明らかにしました。そのようにし て、主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。
しかし、一つ明らかな事実は、すべての人に救いの扉が開かれているにもか かわらず、すべての人が主の名を呼び求めるわけではない、ということです。 それは福音が宣べ伝えられているところにおいて、常に経験されることであり ます。パウロが具体的に心に描いているのは、ユダヤ人たちの頑強なる抵抗で ありました。彼らの間において、主の名、キリストの名が呼び求められていな い。どこかで鎖が切れてしまっているのです。いったいどこで鎖が切れてしま っているのでしょう。
16節と17節をご覧下さい。「しかし、すべての人が福音に従ったのでは ありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じまし たか』と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言 葉を聞くことによって始まるのです。(16‐17節)」
パウロはイザヤ書を引き合いに出します。神はイザヤを預言者として立てら れました。神による派遣ということはそこで起っています。イザヤは神の言葉 を語りました。「わたしたちから聞いたことを」と言っているとおりです。し かし、彼らは信じませんでした。そして、パウロは「信仰は聞くことにより」 と言うのです。すると、彼らの不信仰については、そもそも聞くことそのもの に問題があったということになります。聞くことそのものに問題があるゆえに、 聞くことと信仰との間が切れてしまっているのです。
パウロがあえてここで聞くことと信仰とのつながりを再び語って強調してい ることに、私たちは注意を向ける必要があるでしょう。ここでパウロは、信仰 が人間の内に生じるものというよりは、聞くことによって外からやってくるも のであるかのように語っております。しかも、「聞く」ということは、先にも 申しましたように、何かの情報を与えられるということではなくて、宣教の言 葉を通してキリストの語りかけを聞くことに他なりません。ですから、パウロ はここで「キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言っているの です。
このつながりを意識することは、信仰を理解する上で非常に大事なことです。 というのも、信仰が「聞くことから」と考えない人が多いからです。信仰が、 ともすると人間の生まれながらに備えている能力――信じる能力――であるか のように思ってしまうのです。そのように考える人は、「信じるも信じないも、 私次第だ」と思うのです。私が判断して信ずべきだと考えたら信ずるし、信ず るに値しないと考えたら、信じる必要はない。それが一般的な信仰理解でしょ う。しかし、良く考えてみると、そう言っている時には、既に自分の信じてい ることが先にあるのです。その信じていることに従って他のことを判断し、先 に信じていることと調和すれば信じるし、調和しなければ信じないと言ってい るだけなのです。このようなことは、聖書の語る信仰とは何の関係もありませ ん。なぜなら、そこではあくまでも人間が中心だからです。
「聞くこと」が本当になされる時、中心が移行いたします。中心が「語りか けてくださる方」へと移行するのです。語りかけてくださるキリストが「主」 となり、私は「従」となります。聞くことが正しくなされる時、私たちはキリ ストの言葉によって揺り動かされ、打ち砕かれ、へりくだらされ、その愛の内 にあってキリストをまことの主と崇めるようにされるのです。それこそが「聞 くことから」始まる信仰なのです。もし、そうではなく、聞くこととは何の関 係もない、人間中心のものであるならば、たとえそれを信仰と呼んでいたとし ても、「私の考えに適合したから受け入れた」という以上のものにはならない でしょう。「信じた」と言いつつも、悪く表現すれば、「信じてやった、受け 入れてやった」ということに他ならないのです。そして、その先には、「信じ てあげたのですから、見返りをよろしくお願いしますよ」というものにさえな るわけです。
「信仰は聞くことによる」。ですから、ユダヤ人たちの不信仰は、不信仰そ のものに問題があるというよりも、聞くことに問題があったことが分かります。 なぜ聞くことに問題があったのか。それはこの章の2節と3節に書かれている パウロの言葉から分かるような気がします。「わたしは彼らが熱心に神に仕え ていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではあり ません。なぜなら神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わ なかったからです。」彼らは熱心でした。そして、自分の義を立てることに一 生懸命だったのです。「何をなすべきか」ということに思いを捕らわれている ために、キリストの言葉を聞くことができなかったのでした。
そのようなことは、今日の私たちにも起こり得ます。「何をなすべきか」と いうことに捕らわれていますと、結局はキリストの言葉よりも、「私はこう思 う。私の経験によればこれが正しい」ということが先行するようになるのです。 今日においても、熱心かつ活動的な人にかぎって、御言葉に耳を傾けることを 軽んじるようなことが起ります。そうして、時代の精神や自己の思想を、聖書 や教会が代々に渡って宣べ伝えてきた十字架の言葉よりも上に置くようなこと をするのです。これは形を変えたファリサイ主義であり、当時のユダヤ人の問 題と同一なのです。
一日中手を差し伸べておられる主
さらに18節から21節までをお読みしましょう。「それでは、尋ねよう。 彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は 全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。それでは、尋ね よう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモ ーセが、『わたしは、わたしの民でない者のことで、あなたがたにねたみを起 こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。イザヤ も大胆に、『わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを 尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています。しかし、イスラエルに ついては、『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言 っています。(18‐21節)」
パウロはここで三つの聖書箇所を引用いたします。第一は詩編19編より、 第二は申命記32章、第三はイザヤ書65章からの引用です。それは実際に旧 約聖書を開いてみれば明らかなように、かなり自由な引用です。私たちが例え ば論文を書くときに文献を引用するのとは随分違います。言葉もところどころ 違っていますし、そもそも文脈をかなり無視した引用です。ですから、私たち はパウロの主張の正しさを、これら旧約聖書の引用をもって証明することはで きません。そもそもパウロ自身、これをもって自らの主張の正しさを証明しよ うとしているのではないと思うのです。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いた ことがなかったのだろうか」とパウロは言います。しかし、この答えは、何も 旧約聖書を引用しなくても明らかなのです。パウロはユダヤ人たちにも伝道し てきたのですから。彼らは確かに福音を耳にしたのです。
パウロがこれらの聖書箇所を通して伝えたいことは一つです。それは人間の 不信仰の責任を神に帰することはできない、ということです。人間は、キリス トに対して無関心であり、あるいは反抗をし、救いの言葉を受け入れないかも しれません。しかし、それは人間の側の問題なのであって、神はそのような人 々に対しても決して無関心であられるわけではないのです。神はもともと神を 探し求めてはいなかった異邦人たちにさえ、福音を与え、御言葉を語り、働き かけておられるのです。「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いださ れ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と主は言われるのです。そ の主は、反抗するイスラエルに対しても語り続けます。不従順で反抗する民に、 一日中手を差し伸べられたのです。
今日、この国にいる私たちすべての者に対しても、一日中手を差し伸べてお られる主がおられます。神の側からの鎖はつながって、御言葉を耳にしている 私たちのところにまで来ています。私たちのところで切れてはなりません。信 仰は聞くことから始まります。そして、聞くことから始まった信仰によって主 の名を呼び求める者はだれでも救われるのであります。