「荒れ野の誘惑」
1999年2月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ4・1‐11
2節に「四十日間、昼も夜も断食した後」と書かれております。これは「四 十日、四十夜」という言葉です。旧約聖書のモーセについても、「モーセは主 と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかっ た。(出34・28)」と書かれています。実は、これは偶然の一致ではあり ません。マタイによる福音書には、モーセによる出エジプトの物語と重なるよ うな記述がたくさん出てくるのです。結論から申し上げますと、マタイによる 福音書は、あたかも主イエスが第二のモーセであるかのように描いているので す。もちろん、主イエスがモーセと対等であるということではありません。モ ーセがキリストを予め指し示す雛形であった、ということです。
それは教会についての理解にも関係します。かつて、イスラエルの民はモー セに導かれて荒れ野を旅して、最終的にヨルダン川を渡って約束の地に入りま した。教会は、キリストに導かれてこの地上の荒れ野を旅して、終末のヨルダ ンを渡って神の国に至るのです。ここには、「約束の地に向かう神の民」とい う教会理解があります。かつて、彼らは紅海を渡るという奇跡を通して救われ、 約束の地に向かう民となりました。この紅海を渡るという奇跡に対応するのが、 キリストの十字架と復活です。十字架と復活を通して私たちは贖われ、約束の 地へ向かう民とされたのです。
私たちはキリストに導かれながら旅を続けます。マタイによる福音書は、そ の旅路を問題にしています。つまり、私たちの具体的な教会生活の在り方です。 そこで大切なことは、何よりもまず、導いてくださっている方がどのような方 であるか、という理解でしょう。私たちは、今日、キリストがいかなる御方で あるかを共に考えたいと思うのです。キリストがどのような方であるかを知っ てこそ、従い方も分かるからです。
第一の誘惑
それではまず、1節から4節までをお読みしましょう。「さて、イエスは悪 魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日 間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イ エスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。 』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口 から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。』(1節‐4節)」
主の与えられた答えから第一の誘惑の意味を考えてみましょう。これは申命 記8章3節からの引用です。もとの箇所にはこのように書かれています。「主 はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べ させられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての 言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記8・3) 」最後の言葉が、主の答えとして引用された部分です。この言葉の背景となっ ているのは、荒れ野で飢えた民に、“マナ”という食物が与えられた、という 物語です。
その物語そのものは出エジプト記16章に記されています。荒れ野での飢え は、神の与えられた試練でありました。しかし、民は神に信頼するのではなく、 モーセ向かって不平を述べ立てます。「我々はエジプトの国で、主の手にかか って、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、 パンを腹いっぱい食べられたのに(出16・3)」と言うのです。そのような 彼らに対して、神はマナを与えます。しかし、条件がつきました。「毎日必要 な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。ただし、 安息日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集めようとしてはな らない。それが神様の指示でした。彼らは、神に信頼し、神の言葉に従って生 きることを求められたのです。逆説的ですが、人々が飢えた後に、神がマナを 与えたのは、そのマナだけで生きるのではない、パンだけで生きるのではない、 ということを示すためだったのです。人は神の言葉によって生きるものなのだ、 ということを知らせるためだったのです。
しかし、神との関わりにおいて、この「人は神の言葉によって生きる」とい うことがしばしば抜け落ちます。そして、神が飢えた民の必要を満たされた、 という事実だけが一人歩きを始めるのです。その結果、神と人との関わりは、 人が必要を訴え、神がその必要を満たす、というだけのものとなってしまいま す。事実、それがイスラエルの民に起こったことでした。ある者は二日分のマ ナを集めようとしました。ある者は、安息日にもマナを集めに出かけていきま した。人々は、必要は満たされましたが、「神の口から出る一つ一つの言葉で 生きる」ことは理解しませんでした。
マタイによる福音書に戻ります。既に見てきましたように、荒れ野でパンを 与えたのは神でありました。しかし、直接的にマナを降らせることに関わった のはモーセであるというのが、当時のユダヤ人の理解でありました。そして、 第二のモーセであるメシアが現れた時には、第一のモーセが行ったことをすべ て行うのだ、と信じられていたのです。石をパンにせよ、という悪魔の言葉は、 この線上で理解することができるでしょう。悪魔の言葉は、単に目の前にいる キリスト一人に関わることではありません。要するに、人間の飢えに対してパ ンを得ることができるということが、神の子でありメシアであることのしるし だ、と言っているのです。ここに悪魔のキリスト理解が現れております。そし て、そのような理解は多くの人々の中に見られます。人ごとではありません。 私たちもしばしばキリストの救いを目の前の必要が満たされること以上に考え ていないものです。そして、そのようなものとしか人々に示していないことが 多いのです。そのようにして、荒れ野におけるイスラエルの民と同じように、 いつの間にか「人は神の言葉によって生きる」という大事な一点が抜け落ちて しまっているのです。
キリストはそのような悪魔の理解を断固として退けられたのでした。そして、 言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ 一つの言葉で生きる。」私たちは、そのように言われるお方に導かれて、荒れ 野の旅路を進んでいることを忘れてはなりません。このお方が与えようとして いるのは、何よりも、神との真実なる関わりなのです。私たちは、神の言葉に よって生きる民となるために救われたことを忘れてはならないのであります。
第二の誘惑
次に5節以下をお読みしましょう。「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れ て行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらど うだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当た ることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。』イエ スは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言わ れた。(5‐7節)」
この誘惑の意味するところも、主の答えから理解できます。引用されている のは、申命記6章16節です。もとの箇所にはこう書かれています。「あなた たちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。 (申命記6・16)」これもまた、出エジプト記の物語に関係しています。い ったい、イスラエルはマサで何をしたのでしょうか。彼らはモーセに不平を言 ったのです。そこには水がなかったからです。「なぜ我々をエジプトから導き 上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。(出1 7・3)」そして、モーセを石で打ち殺そうとしたのです。そこで神はモーセ に、一つの岩を杖で打つように指示しました。モーセがその通りにすると、岩 から水が流れ出て、民は飲むことができたと記されています。
神の恩寵が見える形で現されました。神とモーセの関わりも、これによって 明らかにされました。しかし、聖書はこの出来事の起こった場所について、そ れを神の愛の現れた場所であるとは説明していないのです。こう書かれていま す。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエ ルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モ ーセと争い、主を試したからである。」
試みておられたのは神だったはずです。その試練の中で、本当は、彼らの信 頼と愛と従順が問われていたのです。しかし、人間は試みられることを良しと しません。神に問われるよりは、神を問う側に立とうとするのです。「果たし て、主は我々の間におられるのか」と言って、試みる側に立とうとするのです。 神への信頼が求められているのに、逆に、神の愛の見えるしるしを求めて神を 問うのです。そこにこそ、人間の分を弁えない思い上がりがあると言えるでし ょう。
悪魔は、キリストに「神の子なら飛び降りたらどうだ」と言いました。神の 恩寵の見えるしるしを現すことを求めたのです。「人々は、お前が神の愛する 子であることのしるしを求めているのではないか。そのようにして、神が彼ら に対しても恵み深くあるというしるしを求めているのではないか。飛び降りて、 証明したらどうだ。」そのように悪魔は言っているのです。
しかし、キリストはこの悪魔の言葉を断固として退けたのでした。悪魔の言 葉に従うことは、まさに人々をマサにおけるイスラエルと同じ罪に導くことに なるからです。主は言われます。「『あなたの神である主を試してはならない 』と書いてある。」そして、主はここにおいて悪魔の誘惑を退けられただけで なく、その生涯を通じて、この誘惑を退けられたのであります。この誘惑は最 終的な形として、十字架の上の主イエスに向けられました。人々は言ったので す。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っ ているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言 っていたのだから。(マタイ27・42‐43)」しかし、主は十字架から降 りようとはしませんでした。こうして、主は悪魔の誘惑に勝利されたのです。
私たちを導き給う主はそのような御方です。このお方が与えようとしている のは、何よりも、神との真実なる関わりであることを忘れてはなりません。私 たちは、神を試みる者ではなく、神への信頼と従順をもって生きる民となるた めに救われたことを忘れてはならないのです。
第三の誘惑
最後に8節から11節までをお読みしましょう。「更に、悪魔はイエスを非 常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、 ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イ エスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕 えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来て イエスに仕えた。(8‐11節)」
この第三の誘惑もまた、主の答えから、その誘惑の本質を理解しなくてはな りません。主イエスは申命記6章13節を引用して答えられたのです。もとの 箇所にはこう書かれております。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、そ の御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはなら ない。(申命記6・13‐14)」この言葉から、誘惑の中心は単に悪魔を礼 拝するか否か、ではないことが分かります。主なる神を礼拝するのか、それと も他のものを礼拝するのか、ということなのです。キリストは、世のすべての 国々とその繁栄を手中にすることよりも、ただ主なる神のみを礼拝し仕えるこ とを選ばれたのです。その結果、主イエスは権力と繁栄の道ではなく、僕とし て十字架へと向かう道を歩まれたのです。
この世の多くの人々は、自分が悪魔に心を売り渡しているとは思っていない に違いありません。私たちも、自分が悪魔を礼拝しているなどとは思わないで しょう。しかし、問題は悪魔と私たちの関係ではありません。神と私たちとの 関係なのです。そこに誘惑は働くのです。神との関わりにおいて、何が私たち にとって最も大切なこととなっているでしょうか。それはこの世において、物 質的なものにせよ精神的なものによせよ、何かを得ることでしょうか。神信仰 はその手段に過ぎないのでしょうか。神との関わりにおいて、神を礼拝するこ と、神に仕えることそのものが、この世において何かを得ることよりも大切な こととなっているでしょうか。
私たちの主は、この誘惑に打ち勝たれた方でした。そして、このお方が世の 栄光の道ではなく、十字架への道を進まれたのは、何よりも、私たちに神との 真実なる関わりを与えるためだったのです。主が十字架にかかられたのは、私 たちをまことの礼拝者とするためでありました。私たちは主なる神のみを礼拝 する民となるために救われたことを忘れてはならないのです。
受難節に入りました。この期間、この地上の荒れ野における旅路を深く省み たいと思うのです。主の御苦しみを思い、この御方がいかなる方であるかを思 い見るということは、この御方に従うということがどういうことであるかを考 えるということでもあるのです。