「起きよ、恐れるな」
1999年2月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ一七・一‐九
私は毎週日曜日の夕刻、兵庫県の篠山に向かいますが、四季折々の景色を眺 めながら車を走らせることは、私の楽しみの一つとなっております。時折、山 にかかった厚い雲の隙間から、夕刻の陽の光が一筋差し込んで、山の麓を様々 な色合いに美しく照らし出しているのを見ることがあります。それはもう、こ の世のものとは思えない美しい光景です。
今日お読みしました聖書箇所の物語を景色に譬えるならば、そのような光景 になるのではないかと思います。厚い雲がかかってあたかも太陽がなくなって しまったかのように見えても、それで太陽がなくなったわけではありません。 雲の隙間から光が差し込むと、確かに厳然として存在する太陽の光が闇の地上 を照らすのです。同じように、この場面には、神の国から一筋の光が差し込ん でおります。罪の世界に救いの光が、死の支配の世界に復活の命の光が差し込 んでいるのです。やがてキリストの復活において現されることになる神の国の 栄光が、十字架へと向かう主の暗い道筋を照らし出しているのです。
今日お読みしました箇所の一番最後には、次のように記されております。 「一同が山を下りるとき、イエスは『人の子が死者の中から復活するまで、今 見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた。(九節)」 山の上において弟子たちは一つの神秘的な体験をしました。特別な経験をし た人は、そのことを他の人に話したくなるものでしょう。ところが主は、この ことを話すな、と弟子たちに言われたのです。いつまで。人の子、すなわちキ リストが復活するまでです。なぜ話してはいけないのでしょう。それはキリス トの復活という出来事から見なければ、弟子たちは自分自身の体験を理解でき ないからです。神秘経験がただ神秘経験としてだけ語られ、それが一人歩きす る時、キリストについての誤解が生じ、福音はねじ曲げられることになるから です。
キリストが復活されるまで語ってはならなかったことを、私たちは今ここで 読んでおります。キリストの復活の後に、弟子たちが山上での出来事を語り伝 えたからです。ですから、当然、キリストの復活の光のもとで、物語は語られ ております。山上に立っておられるキリストは、苦難の道を十字架へと向かっ て進んでおられるキリストです。しかし、このキリストの姿に、復活のキリス トの姿が重ね合わされているのです。あの山上で一時現れた栄光の姿は、やが てキリストの復活において完全に現される栄光の姿だったのだ、ということが 分かったからです。
ですから、ここに描かれているのは、ただ単にあの場所においてペトロ、ヤ コブ、ヨハネと共におられたキリストではありません。復活して弟子たちと共 におられるキリストでもあるのです。「わたしは世の終りまで、いつもあなた がたと共にいる(二八・二〇)」と言われるキリストです。ここに描かれてい るのは、今日、この礼拝において私たちと共におられるキリストの御姿でもあ るのです。
主イエスの変貌
それでは、一節と二節を御読みしましょう。「六日の後、イエスは、ペトロ、 それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿 が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 一‐二節)」
山上において、彼らの目の前でイエス様の御姿が変わりました。その姿につ いて、光と輝きを強調しているのが、マタイによる福音書の特徴です。ここで 輝いているのは復活の光であり、復活によって現されたキリストの神性の輝き です。それは神の命の輝きです。
もちろん、イエス様という御方は、一人の人間としても、ペトロやヨハネな どにとって多分に魅力的な人物であったに違いありません。イエス様の言葉や 行為は、弟子たちを生活の場から引き出し、従わせるに十分な力を持っていた に違いありません。今日でもなお、人間イエスに魅せられている人は数多くお ります。その方の生き方を模倣しようと努力している人も数多くいるのです。 しかし、彼らが山上で目にしたのは、およそ人間的な魅力とは全く次元の異な る神の栄光でありました。そこで彼らが目にしたのは、単に尊敬し、敬服し、 憧れるべき御方の姿ではなかったのです。そうではなくて、礼拝すべき御方の 姿だったのであります。(しかし、それを彼らが真に悟ったのは、キリストの 復活の後でありました。)
ここにおけるキリストの姿の描写は、直接的にヨハネによる黙示録に描かれ ている復活のキリストの姿につながります。そこには、「顔は強く照り輝く太 陽のようであった(黙示録一・一六)」と書かれております。古代のキリスト 者たちが、復活のキリストを考える時にまず心に浮かんだのはこの輝きであっ たに違いありません。私たちが復活のキリストに導かれて生きるということは、 この復活の命の光と共に生きることに他なりません。
光の反対は闇です。この世界はまさに闇の世界です。この世界を闇にしてい る黒雲は人間の罪と死です。私たちはこの世界の罪、私たち自身の罪をどうす ることもできません。また、この世界と私たち自身を滅びの縄目の内に捕えて 離さない死の支配をどうすることもできません。しかし、私たちがキリストと 共にあるということは、御顔の輝きと共にあるということです。その輝きは、 この闇の世界の彼方から差し込んで輝く太陽の光、復活の世界から差し込む命 の輝きです。山上で一時垣間見られたあの光は、キリストの復活によって、永 遠に私たちと共にある光となったのです。
起きよ、恐れるな
それでは続きをお読みしましょう。「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエ スと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたし たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここ に仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、も う一つはエリヤのためです。』ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が 彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。こ れに聞け』という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、 非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。 恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいな かった。(三‐八節)」
姿の変わったイエス様と共に語り合っていたのは、モーセとエリヤでした。 モーセもエリヤも旧約聖書における代表的な人物です。モーセは律法の書を表 します。エリヤは預言書を表します。両者合わせて旧約聖書全体を指すと見て よいでしょう。この二人がイエス様と共に語り合っていたということは、すな わち旧約聖書がこのイエスという御方に関わっているということを意味します。
しかし、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と いう声が輝く雲の中から聞え、最終的にそこに残ったのは、イエス様だけだっ たと語られております。これは、旧約聖書とキリストとの関係を表しています。 旧約聖書は、それだけで完結した神の言葉ではなく、完全な神の啓示でもない ということです。それはイエス・キリストを指し示す限りにおいて、神の言葉 なのです。ですから、キリストと無関係に個々の言葉や一部分を取り出して、 それを神の言葉として絶対化することはできません。例えば、旧約聖書の記述 の一部を取り出して聖戦を肯定したり、輸血を禁じたりすれば、それは間違い なのです。完全かつ最終的な神の言葉はイエス・キリスト御自身です。他のも のは過ぎ去るのです。ですから、キリストが残り、神は「これに聞け」と言わ れるのです。
残るべき方と消えていく二人が共に語り合っている時に、ペトロが口をはさ みました。「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一 つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」こ れがペトロの提案でした。「お望みでしたら。」その後の展開を読みます限り、 イエス様は「お望み」ではなかったようです。いや、輝く雲の中から声をかけ られた御方もまた、お望みではなかったようです。なぜ、ペトロの提案は御心 に適わなかったのでしょうか。どこが間違っていたのでしょう。
その後の神の言葉から考えますと、まず気づきますのは仮小屋を「三つ建て ましょう」と言ったことの問題性です。なぜなら、神はキリストについてのみ、 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言っているからです。先にも申 しましたように、三者は対等ではないのです。
しかし、もっと大きな問題は、ペトロが山の上にキリストと共に留まろうと したことです。キリストはその山に留まるべき御方ではなく、山から下りて十 字架への道を進まなくてはならなかったからです。罪の贖いを成し遂げるため に、十字架への向かわなくてはならなかったのです。なぜなら、罪が取り除か れないままに、弟子たちが復活の栄光に輝くキリストと、そのまま共にいるこ とはできないからです。先ほど、キリストと共に生きることは、彼方から差し 込む復活の命の光と共に生きることだ、と申しました。しかし、考えて見ます ならば、事はそれほど単純ではありません。なぜなら、罪人はそのままで光の もとに生きることはできないからです。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」とペトロは言 いました。光輝くキリストと共にいることは、本当にすばらしいことなのでし ょうか。そんなに喜ばしいことなのでしょうか。実はそうではない、というこ とがその直後に明らかにされます。彼らが光輝く雲に覆われ、「これはわたし の愛する子」という言葉を聞いた時、彼らはどうしたでしょうか。神の臨在を 喜んだでしょうか。いいえ、そうではありません。「弟子たちはこれを聞いて ひれ伏し、非常に恐れた」と書かれているのです。ただ異常な出来事に驚いた のではありません。「恐れた」のです。「恐れた」という言葉は、神の顕現に 際してしばしば用いられる言葉です。人は神に出会う時、恐れざるを得ないの です。神の光に照らされる時、恐れざるを得ないのです。なぜなら、人には罪 があるからです。罪ある者が神と共にあるということは、裁きと滅びを意味す るからです。
私の恩師であります故左近淑師は、神に祈るということについて、「それは 神の御前に死ぬことだ」とよく言っておられました。「祈りというのは、神の 御前に立つことであり、それは罪人が立つことが赦されていない方の前に立つ ことなのだ。それは死ぬことに他ならないのだ。しかし、死ななければならな い者が赦されて立っている。そのようなあり得ない、起こり得ないことが赦さ れている。それが祈りという経験なのだ」と学生たちに熱っぽく語っておられ た姿を思い起こします。
弟子たちは神の御前にあって倒れたのでした。それは喜ばしいことではなか ったのです。恐ろしいことだったのです。キリストが神の子の栄光をもって共 におられるということは、本当は恐ろしいことなのです。それは左近先生に言 わせれば、まさに死ぬことに他なりません。
しかし、そのような弟子たちに対して、キリストが近づき、彼らに手を触れ て言われたのです。「起きなさい。恐れることはない。」神の御子であられる キリスト御自ら近づかれ、手を伸ばされたのです。裁き主としてではなく、救 い主として手を伸ばされたのであります。そして「起きよ」と言われる。この 「起きる」という言葉は、死者の復活を表わす言葉でもあります。神の裁きの 前に死すべき者が再び起こされ生かされる。生き得ない者が起こされる。それ こそ、罪の赦しの恵みに他なりません。このキリストが「恐れることはない」 と言われるからこそ、もはや恐れずに神の御前に立つことができるのです。
この山の上で弟子たちに起こった出来事は、まさにキリストの十字架と復活 によって全うされる救いを指し示すものでありました。主は、神の裁きの前に 死なざるを得ない罪人を起こすために、十字架に向かわれたのです。罪の贖い を成し遂げられた復活の主は、今も私たちに近づいて来られ、「起きよ。恐れ るな」と言われるのです。そして、主はまさにそのことによって、私たちを主 の御顔に輝く復活の光と共に生きる者とされるのです。
受難節の第二週にこの聖書箇所が与えられていることには大きな意味がある ように思われます。確かに、この季節は私たちがキリストの御受難を覚えつつ、 悔い改めへと導かれる時であります。しかし、それはいたずらに内省的になる ことを意味しません。私たちはキリストの受難の道程に復活の光が既に差し込 んでいたことを忘れてはなりません。真の悔い改めは、神の恵みのもとでこそ 正しくなされるのです。十字架へと向かっておられた主は、同時に私たちに近 づき、罪人である私たちに触れてくださり、「起きよ、恐れるな」と言ってく ださる方であることを忘れてはならないのです。