「永遠の命に至る水」
1999年3月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ4・1‐26
野菜が欲しいのに電気屋に行く人はいません。パンが必要なのに病院に行く 人はいません。相手によって求めるべきものは異なります。キリストに向かう 時、いったい私たちは何を求めているのでしょう。
主はサマリアの女に言われました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、 また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、 あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろ う。(10節)」
サマリアの女と呼ばれているこの人は、語りかけてくださった方がだれであ るかを知りませんでした。知っていたなら、自分の方から求めただろう、と主 は言われるのです。知らないために、求めるべきものをこの人は求めませんで した。主は何を与えようとしておられたのでしょう。ここに言われているよう に、それは「生きた水」でありました。今日私たちに語られていること――そ れは、この御方が私たちに「生きた水」を与えてくださる御方である、という ことです。
生きた水をください
では、主の言われる「生きた水」とはいったい何を意味するのでしょうか。 13節と14節を御覧下さい。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者 はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』 (13‐14節)」
主イエスの言葉は、「しかし」という言葉によって前後に分かれます。主が 言われる「生きた水」については後半に語られています。ここに明瞭な対比が あります。「この水」と「わたしが与える水」が対比されています。「わたし が与える水」は、先の主の言葉によれば、「神の賜物」です。ですから、この 対比は「この世に属するもの」と「神から来るもの」との対比です。この世に 属する水を飲むものは「また渇く」のです。神の賜物である生ける水を飲む者 は「決して渇かない」だけでなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る 水がわき出る」と語られているのです。
この世に属する水に関しては、何の説明もいらないでしょう。私たちは、実 際、水を飲まないことによる渇きを経験することがあるからです。また、渇い たままでいるならば、やがて死に至るということも知っています。この女の人 も、水が肉体に必要であることを知っているから、水を汲みにきたわけです。 そして、生きている限り、繰り返し渇くので、水を汲むことを繰り返さなくて はならないことも知っているのです。
また、私たちはさらに肉体的な渇きだけでなく、しばしば精神的な渇きをも 経験いたします。そして、やはりこの世に属するもので、その渇きを癒そうと いたします。そして、一時それは癒えるかも知れません。しかし、また渇くこ とを経験いたします。
この女の人は、正午ごろ水を汲みにきました。これは珍しいことです。普通 は暑い盛りに水を汲みに来たりしません。明らかに人目を避けての水汲みです。 その事情は後の主イエスの言葉から察せられます。18節で主はこう言われま した。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」 まさか五人と死別したわけではないでしょう。何らかの理由において結婚関係 が破れたのだろうと思われます。初めから別れるつもりで結婚する人はいない でしょう。しかし、結果的に別れてしまいました。主にどちらに問題があった のかは分かりません。「今連れ添っているのは夫ではない」という言葉は、あ るいはこの女の人の側に問題があったことを暗示しているのかも知れません。 いずれにせよ、明らかなことは、この人が同じことを繰り返したということで す。その度に、彼女には求めと期待があったに違いありません。そして、当初 はそれが満たされていたのでしょう。しかし、それが続かないのです。求め、 満たされ、また渇く。その繰り返しです。考えて見れば、彼女の場合それは結 婚でありましたが、私たちは皆、違った形で同じようなことを繰り返している のかも知れません。求め、満たされ、また渇く。この世に属するものでは、 「また渇く」のです。
しかし、主は、肉体的な渇きではなく、精神的な渇きでもなく、もっと根元 的な渇きを問題にいたします。それは命そのものの枯渇です。「永遠の命に至 る水がわき出る」と主は言われました。「永遠の命」とはもちろん、限りない 長生きのことではありません。永遠という形容が成り立つのは本来神だけです。 ですから、これは神の命に他なりません。真の命の源は神であり、神との交わ りにおいて人はこの命に与かるのです。その時、人は真に生きた者となるので す。ですから、この交わりを失えば、命は枯渇し死に至ります。これが人間の 根元的な渇きです。これはこの世のものによって癒すことができません。「神 の賜物」によるしかないのです。ですから、主はこのサマリアの女に、永遠の 命に至る水について語られたのです。
この人は確かに不幸です。どう見ても幸せではありません。しかし、この人 の本当の不幸は結婚に何回も破れたことではありません。人目を避けて生活し ているその惨めさでもありません。そうではなくて、神の命を失っていること なのです。枯れ木の惨めさは葉が落ちてしまったことにあるのではありません。 根が腐っていることにあります。もはや大地から水を吸い上げられないことに あるのです。それは人間も同じです。私たちは人間の悲惨さを、往々にして目 につくところのみによって判断いたします。しかし、本当の不幸は隠れたとこ ろにあるのです。人生の根が腐ってしまって、命の源なる神に結び付いていな いところにあるのです。それゆえ、主はこの世に属さぬ「生ける水」を与える ために来られたのです。
あなたの夫を呼んできなさい
しかし、この人が「神の賜物」が何であるか、そしてこの御方が誰であるか を知るためには、なお幾つかの過程を経なくてはなりませんでした。そして、 それは恐らく、私たちもまた通らねばならない過程であろうかと思われます。
この女は言いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに 来なくてもいいように、その水をください(15節)」。この人は明らかにま だ主の言葉を理解していません。一般的な言い回しですと、「生ける水」とは 淀んだ水ではなくて流れている水を意味します。この人も、恐らくそのような 意味として受け止めたのでしょう。しかし、主は誤解を責め給いません。話を 先に進められます。誤解にせよ、この人は水を求めました。その人に、主は唐 突にこう言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。(16 節)」
意表を突く言葉でした。女はとっさに答えます。「わたしには夫はいません。 」その話題は避けたかったのでしょう。一番触れて欲しくないことだったに違 いありません。ですから、そう言って話を終えようとしたのです。しかし、主 はそのままこの人を去らせませんでした。先に触れましたように、主はこう言 われたのです。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五 人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを 言ったわけだ。(17、18節)」
「夫を呼んできなさい」。「夫」が象徴しているのは、まさに彼女の隠され た生活であり、人生の陰の部分であり、惨めにほころびている日常の裏側であ りました。人間の罪の現実は、表に出ているところ、人目につくところではな く、そのようなほころびている日常生活の裏側にこそあるものです。私たちは それを見えないようにしておいて、自分でも見ないようにしておいて、何食わ ぬ顔で生活していたいものであります。そっとしておいて欲しいのです。しか し、主は「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われます。いわば罪深い 現実をそのまま携えて主のもとに来るように言われるのです。
それまで対等に主と相対していたこのサマリアの女は、日常生活の惨めさを 引きずってそこにいる、一人の罪人としてキリストの前に立たざるを得なくな りました。この人が永遠の命に至る水にあずかるためには、どうしてもこのこ とが必要でありました。それは私たちにしても同じです。罪深い日常の現実は どこかに置いてきたままキリストの前に立つことはできません。罪をどこかに 隠しておいて、あたかも自分は何者かであるかのようにキリストの前に立ち、 まるで上から見下ろすかのようにイエスを論じ、キリスト教を論じたところで、 そこに永遠の救いがあろうはずがありません。人はまず、すべてを見抜き給う キリストの鋭い眼光の前に、惨めな罪人として立たねばならないのです。
まことの礼拝をする時が来ている
しかし、この人はなおもささやかな抵抗を試みます。人は救い主の働きかけ に頑強に抵抗するものです。この女の人は言いました。「主よ、あなたは預言 者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた がたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。(20節)」こ の人は、自分の現実生活に関わる話題をそらして、これを宗教的な一般論に解 消しようとするのです。
もともとユダヤ人と同根であったサマリア人の宗教界がユダヤ教から完全に 分立したのは紀元前5世紀のことでした。彼らは、捕囚後再建されたエルサレ ムの神殿に対抗して、ゲリジム山に神殿を築き、その山こそ神の選ばれた聖所 であると主張したのです。サマリアの女が「この山」と呼んでいるのは、この ゲリジム山のことです。エルサレムとゲリジム山、どちらが神に選ばれた場所 か。これは私たちにはつまらない問いに思えるかも知れませんが、彼らにとっ ては何百年に渡る宗教的な論争の争点でありました。この女は、この論争に話 題を向けようといたします。しかし、似たようなことは、私たちもしばしばし ていることかも知れません。自分の罪の問題と向き合うよりは、「キリスト教 ではどうか、仏教ではどうか」という話をしている方が楽ではありませんか。 神と向き合うよりは、「神とは何ぞや」と、神を三人称で語っている方が楽で あるに違いありません。そのようにして、自分の身に火の粉が降りかからない 安全地帯に逃げ込もうとするのです。
しかし、主はこの女の人の言葉を用いて、さらに話を核心へと導かれます。 礼拝についての問いかけを足掛かりに、まことの礼拝について語り始めるので す。なぜなら、この人の問題は命を失っていることであり、主の与え給う生け る水によって与えられる救いとは、神との交わりの回復であるからです。そし て、神と人との関わりとは、まず人が神を礼拝することに他ならないからです。 サマリアの女は、この話題に逃れたつもりであったかも知れません。しかし、 実は「生ける水」についての主の言葉は、初めから「まことの礼拝」という主 題に向かっていたのです。至るべくしてここに至ったのです。
主はこう言われました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、こ の山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知ら ないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救 いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真 理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのよ うに礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝す る者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(21‐24節)」
主の意図を理解する上で決定的な言葉は「今がその時である」という言葉で す。なぜ「今がその時」なのか。主イエスがそこにおられるからです。主がそ こにおられるゆえに、まことの礼拝をする者たちが、霊を真理をもって父を礼 拝する時が来ているのです。
「霊をもって礼拝する時が来ている。」――この福音書を先まで読み進みま すと、7章37節以下にはこう書かれております。「祭りが最も盛大に祝われ る終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだ れでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書い てあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた のである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っ ていなかったからである。(ヨハネ7:37-39)」そこで初めて、「生きた水」と は聖霊のことであることが明らかにされます。神を離れて命を失っていた者が、 キリストによって聖霊を与えられて生きた者とされ、霊をもって神を礼拝する 者とされるのです。
「真理をもって父を礼拝する時が来ている。」――神が「父」と呼ばれてい るのは、神が私たちの父親に似ているからではありません。(もしそうならば、 そんな神を信じたいとは思わない、と言う人もいるでしょう!)これはまず第 一義的には、イエス・キリストの父なる神であるから「父」と呼ばれているの です。神は御子によって御自身を現されたということです。「いまだかつて、 神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示さ れたのである(ヨハネ1:18)」と書かれているとおりです。キリストの御前に 立つ哀れな罪人は、御子によって憐れみに満ちた父なる神を啓示され、その真 理によって父を礼拝する者とされるのです。「今がその時である!」
主が十字架に向かわれたのは、まさにこの「今がその時である」を成就する ためでありました。主が十字架にかかられ、復活されたので、私たちもまた 「今がその時である」と言い得る者となったのです。贖いの御業を成し遂げら れた復活の主は、私たちにも生ける水なる聖霊を与え、霊と真理をもって父を 礼拝する者としてくださるのです。こうして、私たちに与えられた生ける水は 泉となり、永遠の命に至る水がわき出るのです。
そうしますと、「この山でもエルサレムでもない所で…」という言葉は、 「どこでもいいんだよ」という意味ではないことが分かります。神様は霊であ って形がなくどこにでもおられるのだから、どこにいたって礼拝はできるのだ 」と言っているのではないのです。「この山でもエルサレムでもない所で…」。 いったいどこででしょう。それは霊と真理をもって父を礼拝することを可能と してくださるキリストのおられる所で、ということです。それはここに他なり ません。福音が語られ、パンが裂かれるここにおいて、主の名によって集めら れた私たちのただ中に、復活の主はおられるのです。そして、この御方こそが、 私たちに永遠の命に至る生ける水を与え、父なる神を礼拝させてくださり、そ の命の交わりに生かしてくださるのであります。