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「神の業が現れるため」

1999年3月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ九・一‐一二

           その人は生まれつき目の見えない人でした。彼の両親は彼に物乞いをさせま した。それが、彼にとって、後々生きていくための、恐らく唯一の道であった からです。彼は今日も人通りの多い道の傍に座っておりました。多くの人々が 急ぎ足で彼の前を過ぎ行きます。とりたてて彼に関心を向けることもなく。し かし、主イエスはそのような彼の側で足を止められたのでした。主は彼に関心 を向けられました。主はこの人に目を注がれます。

 しかし、この人には主が見えません。近くにいるのに分かりません。主がこ の人に関わろうとしておられることを知りません。彼の耳に響いてくるのは、 相変わらずのこの世の言葉でした。「ラビ、この人が生まれつき目が見えない のは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。 (二節)」

 彼はこれまで幾度となく同じ言葉を聞いてきたことだろうと思います。通り すがりの人々の声として、人生経験を積んだ老人たちの声として、あるいは子 供たちの単純な疑問の声として、そして宗教家たちの神学的な問いとして…。 それらは皆、この世の声でした。そして、彼もまた同じ問いを自分のうちで繰 り返していたに違いありません。「わたしがこのような不幸を背負っているの は、わたしの罪なのだろうか。両親の罪なのだろうか。いったい誰のせいなの か。」この答えのない問いが、頭の中を行き巡ります。

 しかし、その時、彼は今まで聞いたことのないような言葉を耳にします。そ こに立っておられた方はこう言ったのでした。「本人が罪を犯したからでも、 両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(三節) 」それは彼がこれまで幾度となく耳にしてきたこの世の声ではありませんでし た。この世からでない、彼方から響いてくる声。この御方を通して天から響い てくる言葉――神の言葉でありました。

過去にではなく未来に向けられた目

 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。」 これはここにいる私たちにとっても馴染みの深い問いであろうと思います。人 は理由のない苦しみに耐えられません。それゆえ人の内には「不幸の理由を何 らかの形で説明したい」という普遍的な欲求があるものです。それゆえ因果応 報の思想というものは古今東西を問わず存在いたします。そして、理由を問う ということは原因を問うということですから、その目は必ず過去に向かいます。 過去の何かによって現在の不幸や苦しみは説明されねばならないと考えるので す。

 もちろん、皆が皆、悪いことについて単純に「バチが当った!」などと嘆い ているわけではないでしょう。しかし、それらを迷信として退ける人、むしろ 合理的な考え方をする人であっても、していることは基本的には同じです。現 在の苦しみに釣り合う何かを過去に探すのです。「ああ、あんなことさえしな ければ…」「あの人とさえ出会わなければ…」「あんなことに手を出しさえし なければ…」幾度となく私たちはこのような言葉をつぶやくのではないでしょ うか。

 弟子たちもまた、この人の過去に目を向けました。しかし、ここに全く別な 方向に目を向ける御方がおられます。この御方は、この目の見えない人の未来 に目を向けます。「どうして、この人の今があるのか」を問いません。「何の ために、この人の今があるのか」を考えます。それゆえ、主は言われます。 「神の業がこの人に現れるためである。」大切なことは、この人の過去に、こ の人の親の過去に何があったかではありません。この人がどうなっていくか、 なのです。そうです、人にとって決定的に重要なことは、その人生に神の業が 現れるということなのです。

 では主の言われる神の業とは何でしょうか。六節以下を御覧下さい。「こう 言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りにな った。そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味――の池に行って 洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、 帰って来た。(六‐七節)」

 さて、ここを読みますと、単純にいくつかの疑問に突き当たります。まず第 一に主イエスのなさったことです。あまりきれいな話じゃないな、と思います。 なぜ、唾で泥を作って塗らなくてはならなかったのでしょう。目を癒すこと自 体が目的であるならば、そしてそれを奇跡として行うならば、何かもっとスマ ートな仕方があるだろうに、と余計なことを考えてしまいます。  そして、もっと大きな問題は、このような癒しそのものが、主の言われる 「神の業」なのだろうかか、ということです。苦しみを解決する神の奇跡を、 主は「神の業」と言っているのでしょうか。諸々の苦難は、神の奇跡を経験す る契機であると、主は教えておられるのでしょうか。しかし、それならば、例 えば癒されることなく死んでいく病人の場合はどうなるのでしょう。神の業は 現れなかったということになるのでしょうか。癒されないまま最後まで盲人で ある人はどうなのでしょう。神の業は現れなかったということになるのでしょ うか。

神の業としての信仰

 そこで気づかされますのは、七節に「シロアム」という池の名前にわざわざ 注釈が付いているということです。それは「遣わされた者」という意味だと書 かれているのです。この物語は、「シロアム」という特定の名前を持つ池で洗 ったことに意味があるようです。そして「遣わされた者」という注釈は、明ら かに四節と関係しています。四節で主はこう言っておられるのです。「わたし たちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばな らない。」お遣わしになった方は、イエス・キリストの父なる神です。遣わさ れたのはイエス・キリストです。そうしますと、この池はキリストを象徴して いることが分かります。

 要するに、この物語は、単に目の見えない人の目が癒された物語ではなくて、 一人の人がイエス・キリストによって洗われたことを象徴する物語なのです。 そうしますと、なぜ主イエスが唾をして泥を作って塗ったかが理解できます。 唾そのものに意味があるのではありません。これは泥を作るためです。そして、 泥そのものにも意味はありません。これは目を洗わせるためのものです。主の すべての行動は、この人が「シロアム」で洗うところへと向かわせているので す。

 そして、もう一つ明らかなことは、この物語が盲人の癒しだけで完結しては いない、ということです。見えなかった目が開かれて「めでたし、めでたし」 ではないのです。少しもめでたくないのです。なぜなら、この人は、癒された ことによってトラブルに巻き込まれるからです。彼はファリサイ派の人々から 尋問された後、外に追い出されました。三四節にはこう書かれています。「彼 らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言 い返し、彼を外に追い出した。」この「外に追い出した」という言葉は、会堂 追放、すなわちユダヤ人のコミュニティーから追い出されることを暗示してい ます。このように、彼が癒されたこと自体は、単純に喜ばしいこととして書か れてはいないのです。

 ではこの物語はどのような形で完結しているでしょうか。三五節から三九節 までをお読みしましょう。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きにな った。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は 答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。 』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話してい るのが、その人だ。』彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イ エスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、 見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』(三五‐ 三九節)」

 このように、この人に関しては、目が癒されたことではなく、「主よ、信じ ます」という信仰告白、そして、ひざまずいて主を礼拝した、ということに至 って、物語が完結しております。まさにこのことが彼に現れるべき「神の業」 であったことが分かるのです。そうしますと、彼に起こったすべてのことは、 彼に最終的に与えられる信仰と礼拝を象徴していると言えるでしょう。

 しかし、一方、主イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、こう言 いました。「我々も見えないと言うことか。」それに対して、主はこう答えら れました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、 『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。(四 一節)」

 このファリサイ派の人々は、自分たちと物乞いをしていた盲人とは、決定的 に異なる人間だ、と考えておりました。「彼は目が見えない、私は目が見える。 」「彼は全く罪の内に生まれたのであって、私たちはそうではない。」しかし、 主イエスは、そのようには見ておられません。この盲人のかつての姿は、彼ら の姿に他ならないのです。しかし、彼らは、自分たちこそ見えていない人間、 神の光の中にいない人間であることを悟りません。そのゆえに「罪が残る」と 言われているのです。

 ここで私たちが、この物語をどう読むかが問われます。目の見えなかった物 乞いは、私たちとは異なる、「気の毒な人」なのでしょうか。彼の癒しは他人 事なのでしょうか。私たちは、この盲人の外に立って、彼を見ているのでしょ うか。もしそうならば、私たちの罪もまた残ることになるでしょう。間違って はなりません。この人の物語は、私の物語であり、あなたの物語なのです。

 この人は生まれながらの盲人でした。光を経験したことがありませんでした。 同じように、人間は生まれながらにして霊的な闇の中に生きています。光を遮 っているのは、弟子たちが問うたのとは全く異なる意味における、私たちたち の「罪」です。人間の存在そのものにまとわりついている根元的な罪の問題で す。何か悪いことをして罪人になるのではありません。人間は罪人であるから 悪い行いが生まれてくるのです。私たちはしばしば人生の暗さを経験いたしま す。またこの世界の暗さを経験いたします。しかし、本当の暗さは、病気や、 不当な抑圧や、人間関係のトラブルや、不況や社会の混乱によってもたらされ ているのではありません。闇があるのは神の光が届いていないからです。神の 光が人間の罪によって遮られているからです。ですから、その闇は何か特別に 「不幸な人」の問題ではありません。万人の問題です。言い換えるならば、霊 の闇にいることにより、すべての人が不幸なのです。かつての物乞いが不幸な だけではなく、ファリサイ派の人々も不幸なのです。

 しかし、闇の中にいたこの人の傍らに、世の光なるキリストが立たれました。 キリストは、神の光を世にもたらすために来られた方でした。しかし、目が閉 ざされているゆえに、世の光なるキリストは彼に見えません。光は近くにある のに、彼はまだ闇の中にいたのでした。キリストは同じように、私たちの暗い 人生の傍らに立っておられます。しかし、罪がそのままであり、神の光を遮っ ているならば、光はなおその人の内に入ってくることはありません。闇は闇の ままに留まります。

 そこで、彼は「シロアムに行って洗え」という声を聞きました。彼はその御 声に従いました。洗ってどうなるかを彼が知っていたから洗ったわけではあり ません。泥を塗られたから洗いに行ったのです。しかし、泥が洗い落とされた 時、目が開かれました。光が差し込みました。彼は、その開かれた目をもって イエスを見たのです。同じように、主は私たちにも泥を塗られます。洗われな くてはならない罪深い現実を明らかにされます。罪を認識せられるようになる ことは恵みです。自分の汚れに気づかされることは恵みなのです。そして、私 たちの罪を洗い清めることのできる方は、父によって「遣わされた者」である キリストです。父によって遣わされ、十字架において私たちの罪の贖いを成し 遂げられ、復活して今も生きておられる救い主です。「シロアムに行って洗え 」という声を私たちもまた聞きます。私たちは、罪を洗い清めてくださる方の もとに赴きます。罪が洗われて光が差し込みます。闇の中に光が差し込みます。 人は光の中を生きることができるのです。

 この盲人の目の癒しは、単純に彼の生活を楽にはしませんでした。しかし、 彼は主を拝してまことの光を得たのです。そして、これこそが私たちに与えら れている神の業です。こうして「主よ、信じます」と信仰を告白し、主を礼拝 して生きる生活こそ、私たちに与えられている神の業です。そのようにして光 の中を歩み続ける者とされることこそ、神の業なのです。すべては神の業が現 れるためでした。私たちの悲しみも、悩みも、惨めさも、病気も、貧しさも、 死の恐れさえも、すべては神の業が現れるためでした。もはや因果を問う必要 はありません。大切なことは、人の過去に、人の親の過去に何があったかでは ありません。人がどうなっていくか、なのです。そうです、人にとって決定的 に重要なことは、その人生に、この神の業が現れるということなのです。

 
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