「光を見て生きる人」
1999年3月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編三六編
私が牧師になるために神学校に入学する前、大学の鉱山関係の学科で学んで いた時がありました。そのような関係で、何回か地下に潜ったことがあります。 見学や実習のためでした。初めて現場に行ったのは大学一年の夏です。北海道 の炭鉱でした。炭鉱に無理やり頼んで見学させていただいたのです。初めて地 下数百メートルに降りた時の経験は強烈でした。考えてもみてください。地下 深く、炭塵飛び交う真っ暗な採炭現場に、何時間も何時間もいるわけです。何 を思ったでしょうか。情けない話ですが、現実を知らないで地下に潜った若者 は、太陽が恋しくて恋しくて仕方がありませんでした。やがて見学を終えて地 表に向かい、遠くに日の光の差し込むのを見たときのうれしかったこと!
詩編三六編を読みますと、そんな地下の暗さと地上の明るさのコントラスト を思い出します。ここには人間の経験する最も深い闇があります。しかし、こ こにはまた人間の経験する最も明るい光があるのです。「あなたの光に、わた したちは光を見る。(10節)」私たちはその光を見て生きている人の祈りを 共に読んでおります。そして、ただその人の祈りを読むだけでなく、私たちも また、その同じ光を仰ぎ見て歩み続けたいと思います。この光へと招いてくだ さっている御方に応え、このいにしえの聖徒と共に心を合わせて祈りたいと思 うのです。
●闇は罪のささやきによって
それでは、初めに一節から五節をお読みいたしましょう。
【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】
神に逆らう者に罪が語りかけるのがv わたしの心の奥に聞こえる。
彼の前に、神への恐れはない。
自分の目に自分を偽っているから
自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。
彼の口が語ることは悪事、欺き。
決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
床の上でも悪事を謀り
常にその身を不正な道に置き
悪を退けようとしない。 (一‐五節)
私たちは、地下数百メートルの闇の中にいるように感じる時があります。先 を照らすわずかばかりの光を頼りに、深く狭いトンネルの中を歩いているよう に思える時があります。物事がうまくいかない時、大きな失敗した時、進もう としていた道が閉ざされてしまった時、思いがけない病に苦しむ時、人間関係 のもつれに悩む時、私たちは闇の中にいるように感じます。そして、すべてが 順調に行っている人、生き生きと力強く進んでいる人、何不自由なく生活して いる人をうらやましく思ったりいたします。彼らは皆、光の中にいるように思 えてきます。時として、自分以外の人間は皆、光の中にいるかのように感じる 時もあるでしょう。
しかし、この詩人の視点はどうもそのような私たちの視点とは違うようです。 この人は光を見て生きている人です。しかし、彼はまず人生の闇について語り ます。そして、彼が人生の闇を思う時、真っ先に思い起こすのは一つの声であ りました。人間にささやきかけてくる、その声です。それは「罪」の語りかけ です。真に恐るべきは、神に背いた行為のもたらす結果そのものではありませ ん。その「罪」そのものが、語りかけてくるところにあります。誰に語りかけ るのでしょう。神に逆らう者に語りかけてくるのです。旧約聖書に出てくる神 の預言者に神が語りかけたように、神に逆らうも者に、罪が語りかけてくるの です。
神に逆らう者とは、神を恐れない者に他なりません。この世においては強い 者が重んじられます。恐れない者が重んじられます。ですから人は、恐れない 者になろうといたします。神をさえ恐れない者になろうとするのです。そして、 神さえ恐れない者であることを誇るかも知れません。しかし、真に恐れるべき 方を恐れないということは不幸なことです。なぜなら、その人に、神の声は聞 こえないからです。べつの声がささやいてくるのです。罪の語りかけです。
そして、罪のささやきの恐ろしさは、ただ単に悪へと誘うところにあるので はありません。自分を見失わせるところにあります。なぜなら、罪の語りかけ は、あたかも私たちの行為が素晴らしい行為であるかのように、正当な行為で あるかのように、語りかけてくるからであります。その結果、例えば心の欲す るままに行うことが、あたかも自由であるかのように、思ってしまいます。神 に逆らった生き方が、あたかも人間の解放であるかのように、考えてしまう。 神を恐れないことが、人間の強さであると信じてしまうのです。
こうしていつの間にか、人は自分で自分を偽って生きることになります。 「自分に正直に生きているのだ!」と言いながら、自分を偽って生きることに なります。自分の行為を正当化し、自分に説明し、自分を説得し、そのように して自分を偽って生きるようになります。しかし、そうしているかぎり、自分 の悪を認めることができません。自分の悪の結果、自分に降りかかってくる災 いは憎みますけれども、悪そのものを憎むことができません。だから悲しいこ とに、また同じ悪をを繰り返します。そして、いつしか罪に語りかけられてい た者は、悪事と欺きを口にする者となります。欺きが口から離れなくなります。 悪事と不正が生活を離れなくなります。寝ている時も起きている時も離れなく なります。それが生活の原理となってしまうのです。もはや悪を退けることが できなくなるのです。
真の闇はここにあります。世の災いによって闇がもたらされるのではありま せん。何不自由なく生活している人が、光の中にあるとは限りません。小さな、 小さな、罪のささやきによって、闇はもたらされるのです。罪は、神に逆らう 者、神を恐れぬ者にささやきかけます。神の声に耳を塞ぐとき、罪のささやき だけが聞こえます。闇はそこにあるのです。
●あなたの光に光を見る
続いて、六節から一〇節までをお読みしましょう。
主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。
恵みの御業は神の山々のよう
あなたの裁きは大いなる深淵。
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
神よ、慈しみはいかに貴いことか。
あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
あなたの家に滴る恵みに潤い
あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
命の泉はあなたにあり
あなたの光に、わたしたちは光を見る。 (六‐一〇節)
彼は闇に向けていた目を光に転じます。彼は、ここで光そのものである御方 について語り始めるのです。いや、正確に言えば、彼はその御方に語りかけて いるのです。そして、「あなたの光に、わたしたちは光を見る」と言うのです。
人生の闇が単にこの世的な不幸と同一ではないように、光の中に生きるとい うことは悩み無き安泰な生活を意味しません。また、闇の中を生きるというこ とが、単に悪人として生きることを意味していないように、光の中に生きるこ とは、いわゆる「正しい人」として生きることではありません。この詩人は、 正しい人の姿を描いて、五節までと対比させようとはしないのです。そうでは なくて、「主よ」と呼び掛けて、主への讚美の言葉を記すのであります。なぜ なら、そこにこそ、光を見ながら、光の内を生きるその人自身の姿があるから です。
彼は、神の慈しみと真実をほめたたえます。天に、大空に満ちているという 言葉で表現されているのは、その高さであります。計り知れないその高さです。 神はその民と結ばれた契約にあくまでもこだわられます。神は人に与えられた 絆に対して、真実であろうとされるのです。人間は不真実です。しかし、神は 真実です。そして、不真実な私たちに対して真実をもって関わられます。忍耐 強く真実をもって関わられます。そこに神の計り知れない慈しみがあるのです。 地にへばりついている不真実なこの世界を包み込む神の慈しみと真実の高さを 彼は歌うのです。
また、彼は山々のように揺るぎなく、変わることのない神の恵みの御業に思 いを向けます。人の世は移り行きます。確かであると思っていたものも崩れ去 ります。しかし、神は変わることのない御方です。その「恵みの御業」も変わ りません。この神の恵みの御業は歴史を貫きます。やがて時満ちて、キリスト を遣わされ、変わらざる恵みの御業は完全に啓示されます。そして、恵みの御 業は神の国が来たり、救いが完成するまで貫かれるのです。その恵みの御業に 基づいて、神は事をなされます。神のなし給うことは、計り知れなく深く、私 たちの思いを越えています。そして、神の慈しみの及ぶ広さは、私たちの思い を越えています。「主よ、あなたは人をも獣をも救われる」という言葉をもっ て、彼は救いの神をほめたたえるのです。
そして、その神のもとに彼は身を寄せます。身を寄せるべきところを知って いることは幸いなことです。そして神のもとに身を寄せることができるのは、 人の正しさや功績によるのではありません。彼はそのことを知っています。そ れはただひとえに神の慈しみによるのです。ですから、その慈しみの貴さを、 喜びと感動をもって語るのです。
彼は神のみもとに身を寄せ、その豊かさにあずかります。彼は自分を満たす ものを、この世の過ぎ行く豊かさの中に求めません。また渇きを癒すものを、 この世の水に求めません。命の泉は神にこそあるからです。神を離れていかに この世の豊かさに与かろうとも、その魂はがりがりに痩せ衰えていきます。命 の泉を離れて、この世の淀んだ水ためから水を汲み出しながら、実のところ渇 きにあえいでいる人の何と多いことでしょう。命の泉は神にこそあるのです。
光の中を生きるとは、単に悩みなき安泰な生活を意味しません。神の慈しみ と救いの御業に思いを向け、神のみもとに身を寄せ、神の豊かな命にあずかっ て生きること、それが光の中に生きることに他ならないのです。先に述べられ ていた、闇の中の生活とはなんと対照的なことでしょう。地下数百メートルの 闇に対する地上の光の明るさなど、その比ではありません。私たちの人生を、 私たちの運命を、決定的に異なるものとする闇と光であります。そして、神は 私たちがこの人と同じところに立つことを、同じ光を見て生きることを、願っ ておられるのであります。
●慈しみと恵みの御業が常にありますように
最後に一一節以下をお読みしましょう。
あなたを知る人の上に
慈しみが常にありますように。
心のまっすぐな人の上に
恵みの御業が常にありますように。
神に逆らう者の手が
わたしを追い立てることを許さず
驕る者の足が
わたしに迫ることを許さないでください。
悪事を働く者は必ず倒れる。
彼らは打ち倒され
再び立ち上がることはない。 (一一‐一三節)
彼の姿は、まことの光を見て生きている人の姿です。しかし、彼は人が信仰 に生き抜くことの、決して容易ではないことをも知っています。光を見て生き ることが、ただ一時的なことではなく、生涯を貫くものとなるということは、 決して易しいことではないことを知っているのです。現に彼を苦しめる「神に 逆らう者の手」「驕る者の足」があります。彼の周りには「悪事を働く者」が いるのです。
それゆえ、彼は自らのため、また信仰に生きようとするすべての者のために 祈ります。何を祈るのでしょう。神に逆らう者の手に対抗し、打ち負かすこと のできる強さでしょうか。驕る者の足が追い迫る時、それを凌駕する能力でし ょうか。私たちに押し迫り信仰生活を不可能とさせるような様々な妨げや不当 な抑圧と戦い、打ち勝ってゆく力でしょうか。いいえ、そうではありません。 彼がまず祈り求めているのは、神の慈しみです。神の恵みの御業です。神の恵 みの御業が常にあるように祈るのです。人を神との絶えざる交わりに生かすの は、ただ絶えざる神の慈しみと恵みの御業によるからです。
そして、その上で、神と共に生きる生活が具体的に守られるよう祈ります。 変わらざる慈しみに基づいて、神が現実の生活の中に生きて働き給うことを信 じて生きるのです。彼は自らの戦いによって、自分自身を守ろうとは思いませ ん。悪事を働く者を憎み、自ら復讐しようとも思いません。ただ神の手にゆだ ねるのです。神の光にこそ光を見て生きる者は、その生活そのものが神に支え られていることを覚え、ただ神に信頼し、神の義の支配を祈り求めて生きるの です。