「無力なメシア」
1999年3月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ27・32‐54
教会の暦では受難週に入りました。今日はその最初の日、「棕櫚の聖日」で す。主イエスがエルサレムに入城された日に当たります。今週の木曜日が最後 の晩餐をされた日。イエス様が弟子たちの足を洗われたので「洗足木曜日」な どと呼ばれます。大阪のぞみ教会では洗足木曜日の礼拝を夕の7時から行いま す。次の金曜日は主が十字架につけられた日です。昼の12時から祈祷会を持 ちます。共に集うことの出来ない方々も、主の十字架を覚えて祈りの時を持っ てください。
そのような一週間の最初に私たちに与えられております御言葉は、先ほど読 みましたマタイによる福音書に書き記されている受難物語です。私たちは今週、 繰り返し繰り返し、ここに記されていることを思い返し、その意味するところ を思い巡らしたいと思うのです。
●あざける人々
さて、その十字架の場面でありますが、不思議なことに十字架刑そのものに ついての細かい描写がありません。主イエスが十字架につけられたことに関し ては、ただ「彼らはイエスを十字架につけると…」とだけ記されております。 考えてみれば、不思議なことです。釘はどれほど太かったのか。主の御顔はど れほど苦痛にゆがんでいたのか。まさに主御自身も、主を十字架にかけた者も 共に血まみれになっているその凄惨な情景を、マタイはほとんど描写しないの です。どうも主イエスの苦痛を細かく描いて同情を呼び起こすことには関心が なかったようです。あるいは、自己犠牲の極みとしての偉大なる死を描き出し て、感動を呼び起こすことにも関心がなかったようです。もしそのような関心 があったなら、もっと違った書き方をしていたに違いありません。
そう思って読みますと、もう一つのことに気づかされます。それはまわりの 人々についての描写がことさらに細かいということです。特に強調されている のは、人々が十字架につけられた主イエスをあざけり、罵っていることです。 通りかかった人々が罵倒します。祭司長たちも律法学者や長老たちと一緒に、 主イエスを侮辱します。一緒に十字架につけられた強盗たちも、主をののしり ます。まわりの人々の描写が細かいということは、読者がそこに自分自身を見 出すことができるように、ということなのでしょう。
では、主イエスをののしっている人々の姿に目を向けてみましょう。通りか かりの人々が主をののしります。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子 なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(40節)」ここで わざわざ「通りかかった人々は」と書かれていることから、これがもともと主 に敵対していた人々ではないということが分かります。ではなぜののしったか と言いますと、そこに「これはユダヤ人の王イエスである」と罪状書きが掲げ られていたからです。人々にとって、「ユダヤ人の王」と「神の子」とはほぼ 同じ意味です。つまり、メシアである、ということです。人々はメシアを待ち 望んでいたのです。しかし、そこにいる「メシア」は、十字架にかけられてい るメシアなのです。無力なメシアなのです。期待に応えられないメシアなので す。彼らを苦しい生活から解放することのできないメシアなのです。彼らは無 力なメシアなどいらないのです。それが彼らのあざけりの言葉の意味であるに 違いありません。
祭司長たちの侮辱の言葉は少々意味合いが違います。彼らにとっては思い通 りの結末でありました。様々な奇跡によって民衆を惑わし、宗教的な権威に逆 らうようなことをしたけれど、結局化けの皮がはがされたではないか。彼らの 心境はそのようなものであったに違いありません。彼らは初めから主イエスを 信じてはいません。そして、主が無力な姿を晒すことによって、信じなかった 彼らの正しさが実証されたことになると考えていたのでしょう。要するに、彼 らの罵倒の言葉は、自分の正しさの主張以外の何ものでもありません。
そして、強盗たちも主イエスをののしりました。ルカによる福音書では、の のしったのは片方であったと記されています。しかし、マタイでは区別されて おりません。彼らの言葉も記されておりませんが、内容の察しはつきます。彼 らの罵倒の言葉もまた、無力なメシアに向けられたに違いありません。彼らは 苦しいのです。現実に苦しみの極みにいるのです。そのすぐ隣りにはつい一週 間ほど前まで人々メシアであるとして騒がれていた男がいるのです。しかし、 今は十字架にかけられている。本当に助けて欲しい時に何もすることのできな いメシアが隣りにいるのです。そんなメシアがいったい何の役に立つか!それ が彼らの心境であったに違いありません。
●なぜお見捨てになったのですか
そして、彼らがののしったそのメシアの無力さは、主イエスの叫びに極まり ます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(46節)」それは「わが神、わが 神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であります。主は、 十字架から降りることができなかっただけではありません。神から見捨てられ た者として叫び声を上げたのであります。
そこに居合わせた人々のうちには「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者 もおりました。他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」 と言いました。しかし、エリヤは助けには来ませんでした。どのようにこの言 葉を聞いたにせよ、明らかなことは、この言葉が彼らに「この男は絶対にメシ アなどではない」と確信させたであろうことです。泰然と死んでいくならば、 まだ尊敬もされましょう。見捨てられたことを嘆いているメシアの姿など、お およそ彼らの理解できるところではありませんでした。しかし、この主の言葉 を、マルコもマタイも記すのです。普通に考えるならば、主イエスをメシアと 信じることの妨げにしかならないような言葉を書き残しているのです。それは 取りも直さず、初代の教会がこの言葉に大きな意味を見出し、これを大切に言 い伝えてきたからに他なりません。
そこで、この言葉についてもう少し考えてみたいと思うのです。これは詩編 22編の言葉です。主イエスと弟子たちが、常々祈りの言葉として唱えていた 詩編であったことでしょう。ところで、皆さんは詩編を読んでいまして、この ような経験をしたことはありませんでしょうか。詩編を朗読します。詩編の言 葉をもって祈ろうといたします。しかし、どうもその言葉がしっくりこない。 詩編が自分の祈りにどうしてもならないという経験です。私どもの教会では受 難節の期間、毎夕の祈祷会において詩編を読みます。全150編を読んで祈り ます。しかし、その時に、先に述べたような経験をいたします。詩編が自分の 祈りにならないのです。
この詩編22編も、そのような詩編の一つでした。少なくとも、私にとって はそうでした。なぜなら、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになった のですか」という言葉は、本当に正しい人だけが口にすることのできる祈りだ と思えるからです。これは、神との正しい関わりの中に生き、神との交わりの 中に人生を生きた人だけが口にすることのできる祈りではありませんか。あな たは、これを口にすることができるでしょうか。私にはできません。なぜなら、 本来、たとえ見捨てられたとしても仕方のない、何も文句を言う資格のない人 間だからです。いや、私でなくとも、見捨てられることを不当とすることので きる人が、いったいどこにいると言うのでしょう。
この詩編22編は、まさに「苦しむ義人の祈り」です。であるなら、この祈 りを本当の意味で口にすることのできるのは、父の御心に最後まで従順に従わ れたこの方以外にはないだろうと思うのです。そのような思いをもって十字架 の場面を見直しますと、見え方が変わってまいります。そこで苦しんでいるの は、本来ならば見捨てられるはずのない唯一の方です。その御方が、真に神に 見捨てられた者として苦しんでいるのです。そして、そのまわりでは、真に神 に従うことも知らぬ者たちが、本来ならば神に見捨てられても仕方ない自分で あることさえ知らぬ者たちが、軽々しく神の名を口にしてこの方をあざけって いるのです。ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自 分の正義を振りかざして叫んでいるのです。それがこの場面です。彼らは、自 分の宗教観、自分のメシア観を振りかざして叫びます。「今すぐ十字架から降 りるがいい。そうすれば、信じてやろう!」私の思い通りに振る舞ってみろ、 私の願いを叶えてみろ、私を納得させてみろ、そうしたら信じてやろう! 実は、 主イエスの口にした詩編22編の言葉は、まさにそのような人間の傲慢で罪深 い姿を鮮明に浮き上がらせているのであります。そこで叫んでいるのは、他な らぬ私たちではありませんか。
●終わり、そして始まり
しかし、主イエスの十字架は、ただ人間の罪を明らかにするものではありま せんでした。見捨てられるはずのない方が見捨てられるということが神の御心 であるならば、そこには神の目的があるはずだからです。聖書は何と言ってい るでしょうか。エリヤは救いに来ませんでした。主イエスは再び大声で叫び、 息を引き取られました。そして、さらにこう続けられているのです。51節以 下をご覧下さい。
「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、 岩が裂け、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 そして、イエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に 現れた。(51‐53節)」
ここにはヨハネによる黙示録と共通するような表現様式が用いられています ので、実際に何が起こったのかを、この箇所から正確に判断することは不可能 です。ここだけを取り上げて、そのまま映像にしたらホラー映画の一場面にな ってしまいますでしょう。大切なことは、何が起こったのかを詮索することで はなくて、ここに記していることをもって福音書が伝えようとしていることを 聞き取ることです。
そこで大切な言葉は「そのとき」です。原文は「そして、見よ」と訳せる言 葉です。「見よ」と呼び掛けられている「そのとき」です。それは、主イエス が息を引き取られた「そのとき」です。つまり誰の目にも終わりに見えた「そ のとき」です。ひとりの方が、神に見捨てられて終わりとなった「そのとき」 です。しかし、それは終りではなかった、というのが福音書の伝えているとこ ろなのです。終わりではなく、決定的なことが始まっているのです。特に注目 すべきは、神殿の垂れ幕が裂けたことと、死人の復活であります。
「垂れ幕」とは、神殿の聖所と至聖所を隔てている幕のことです。神殿の一 番外側には「庭」があり、その内側に聖所があります。そして、さらにその奥 に至聖所と呼ばれるところがあるのです。その至聖所には、通常誰も入ること ができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入るこ とが許されておりました。しかし、ただ何も持たずに至聖所に入ることはでき ません。何を持って入るかというと、「血」を携えて入るのです。贖いの犠牲 の血を携えていくのです。そうしなければ、通ることができない神殿の垂れ幕 は、神と人との隔てを象徴しています。聖なる神と人間との隔てであります。 罪ある人間は神に近づくことができないのです。罪が贖われることなくして、 罪を持ったままで、神に近づくことはできないのです。
しかし、その垂れ幕が裂かれました。「上から下まで真っ二つに裂け」とい う表現によって、この行為が神によってなされたことが示されています。神自 らが隔ての垂れ幕を取り除かれました。もはや繰り返し贖いの犠牲の血が携え られていく必要がなくなりました。犠牲の血という雛形が用いられていた時代 は終わりました。なぜなら、まことの犠牲が屠られたからであります。彼らは 今まで繰り返し、贖いの犠牲となる動物が悲鳴を上げながら血まみれになって 死んでいくのを見てきたことでしょう。しかし、ついに、神自ら備えられた罪 なき贖いの犠牲が、「わが神、わが神、なぜお見捨てになったのですか」とい う悲鳴を上げ、死んでいったのであります。そして、神御自身がその手で垂れ 幕を引き破られ、すべての人が罪の赦しを得て神に近づく道が開かれたのでし た。
そして、死んだ者の体が生き返ったという言葉によって言い表されているの は、死の完全なる克服であります。死の支配は終わりました。命の支配が死の 支配に打ち勝ちました。私たちは、これが垂れ幕が裂かれたということと共に 記されていることを無視してはなりません。死の克服と罪の赦しは別々の二つ の救いではなく、一つの救いなのです。それは一人のお方、イエス・キリスト によってもたらされた救いなのであります。
考えてみてください。皆さんが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来 れば、それが死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きし て死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、それは きっとあなたにとって地獄を意味するに違いありません。本当に必要なのは、 罪の赦しであり、神に義とされることであり、神との永遠の交わりが回復せら れることなのです。そのことなくして、いかなることも死の克服にはなりませ ん。ただ墓から出てくるだけなら、それは地獄への帰還でしかありません。私 は、今まで病の床にて共に祈り、そして亡くなっていった方々を思い起こしま す。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ま せん。豪華なご馳走も、意味を持ちません。最終的に死が克服されるために必 要なのは、神の語り給う「あなたの罪は赦された」という言葉以外の何もので もないのです。
主イエスは十字架の上の無力なメシアでした。しかし、その無力さの極みに おいて、私たちにとって最も必要とされた救いの御業を成し遂げられたのです。 主は、無力な王として、罪人からあざけられ、神から見捨てられました。それ は、罪ある私たちが見捨てられぬ者となるためでありました。それゆえ、パウ ロはこの出来事を次のように言い表します。「罪と何のかかわりもない方を、 神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の 義を得ることができたのです。(2コリント5・21)」この事実のゆえに、 聖書は今も私たちに呼び掛けているのです。「キリストに代わってお願いしま す。神と和解させていただきなさい。(同5・20)」