「主はよみがえられた」
1999年4月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ28・1‐10
●キリストの「おはよう」
聖書を読んでいますと、思わず顔がほころんで笑いのこみ上げてくる箇所が いくつかあります。今日お読みしました箇所もその内の一つです。特に9節で す。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、 婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(9節)」以前 使っていました聖書協会訳ですと、イエス様の言葉は「平安あれ」と訳されて いました。ところが、これは特別に宗教的な言葉ではありません。もとのギリ シア語はごく普通の挨拶の言葉です。ですから朝ならば「おはよう」と訳され るのが正しいのでしょう。しかし、それにしても「おはよう」という挨拶は意 外です。この婦人たちは少し前まで絶望のどん底にいたのです。主イエスの死 によって、彼らの希望もなくなって、もう生きていけないような状態にあった のです。そこにイエス様が現れたのでしょう。死からよみがえって。彼らにと ってはまさに天地もひっくり返るような重大なことが起こっているわけです。 しかし、彼らにイエス様は言われるのです。「おはよう」と。もう少し神秘的 な言葉とか、厳粛な響きを持つような言葉を言うくらいのひと工夫があっても 良いではありませんか。にもかかわらずイエス様の言葉は、非常に素朴な、あ る意味で生活の匂いのする泥臭い言葉だったのです。それが復活後の第一声で あったとマタイは伝えるのです。
ちなみに、もう一つはルカの伝えている物語です。ルカの伝えるところによ りますと、復活のキリストは弟子たちの前で焼き魚を食べるのです。むしゃむ しゃと。(ルカ24・43)もちろん、誤った復活理解に対する弁証という神 学的な意図はあるに違いありません。しかし、それにしても、笑いを誘うよう な描写ではありませんか。弟子たちは絶望のどん底にいたのです。少し前まで。
主を失って、もう生きていけないような人たちだったのです。そこにイエス様 が現れたのでしょう。死をうち破って。しかも、復活というのは、どう考えて も、人間の経験の外にある出来事です。どうしたって説明が着かない、まさに 神秘の中の神秘であるはずです。そのような復活という出来事であるはずなの に、そこで何も魚を食べなくたっていいじゃないですか。これもまたあまりに 泥臭い姿として、ルカは復活のキリストを伝えているのです。
しかし、今回、それこそ顔をほころばせながら、この箇所を繰り返し読んで いまして、改めて「ああ、復活の使信というのはまさしくこれだな」、と思い ました。
間違えてならないのは、この物語は、決して子供の寝物語の類ではないとい うことです。そうではない、非常に厳しい状況の中で読まれ、そして聞かれ、 伝えられた物語だということを忘れてはなりません。外には迫害があります。 キリスト者の毎日の生活には様々な重荷があり労苦があったことでしょう。ま た加えて、生まれてまだ百年も経たない教会内には絶えず混乱がありました。 死人からの復活とは何であるかが様々な形で論じられてきた形跡を、私たちは 既に新約聖書の中に見ることができます。しかし、そのような厳しい状況の中 で生きている人々に大して、マタイは復活の主の「おはよう」という、実に素 朴な挨拶の言葉を伝えるのです。
「まず、一緒に主の復活を喜ぼうではないか。」――そんな呼び掛けが聞こ えてきませんか。
主の「おはよう」。それは、ある特別な人だけが到達できるような高い精神 性や深い思索の中の言葉ではありません。あるいは限られた人だけが経験でき るような特殊な神秘性の中の言葉でもありません。私たちのような凡人が身近 な出来事の中で泣いたり笑ったりしているその当たり前の日常の言葉なのです。
そのようなごく当たり前の生活をしている私たちに対する主の「おはよう」な のです。そのような言葉を伝えるこの福音書に響いているのは、「今のこの当 たり前の日常の中で、もしかしたら厳しい苦しいことも沢山あるかも知れない 日常の中で、ともかく主の復活を喜んで生きていこうではないか」という呼び 掛けに他なりません。ですから、今日、私たちは、まず何よりも、共に喜びた いと思うのです。この復活の使信に共に耳を傾け、共に受けとめて、そして共 に喜びたいと思うのであります。
● 転がされた墓の石
それでは福音書の伝えるところに、共に耳を傾けてまいりましょう。何がこ こに書かれているでしょう。安息日が終わりました。週の初めの日です。日曜 日です。マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。彼ら は十字架にかけられた主イエスのもとに向かいました。墓の中にいる主イエス のもとに向かいました。彼らが出来ることは、せめて朽ちゆく屍に香料を塗る ことぐらいでした。人間に出来ることは限られています。死に大して人間は無 力です。ですから、彼らはせめて出来ることをしようと墓に向かったのでした。
そこで彼らは何を見たのでしょうか。開かれた墓を見ました。岩に掘られた 墓です。その入口は大きな石が塞いでいるはずでありました。しかし、その石 がどけられていたのです。そこには主の天使が座っていました。主の天使が石 をわきへ転がし、その上に座った、と書かれております。その天使は言いまし た。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったの だ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。(5‐6節)」天使が「見な さい」と言ったのですから、彼らは当然そこを見たことでしょう。主イエスの 体はありませんでした。そこには空の墓がありました。
墓の石が転がされていた。そのように四つの福音書は口をそろえて伝えます。 しかし、石が転がされていたこと自体は大したことではありません。石は大人 が何人か寄れば動かすことができるものです。そして、墓の石を動かしても、 一般的には事態は大して変わらないことを私たちは知っています。墓が開かれ ても、死の扉は開かれないからです。墓が開かれても死体は死体のままです。 骨は骨のままです。教会でも納骨式をします時に、墓を開きます。中にあるの は変わることのない骨です。墓を閉じればもとに戻ります。もし、ここに書か れていることが同じようなことならば、恐らく書き記すに価しないことでしょ う。しかし、四つの福音書があえてこれを記すのは、転がされた石がもっと大 きな出来事を象徴しているからに違いありません。それは、死そのものを閉ざ していた大きな石が転がされたということであります。死が閉ざされたもので なくなった、という出来事なのであります。
閉ざされた墓というものは、死という現実をよく現していると思います。そ れは出口のない闇の世界です。そこにあるのは死体です。しかし、考えてみれ ば、死によって閉じこめられているのは、必ずしも死んだ人々だけとは限りま せん。生きている者も同じではないかと思うのです。
死は人生の先端にあるのではありません。そこに至るまで人間は死とは無関 係であるとは言えません。ある人は、「人間は死を背負って生きている」と言 いました。それはカードの裏表のようです。ある時、裏にひっくり返るのです。
人生のカードの裏には死が厳然として存在いたします。言い方を変えますなら ば、私たちの人生は既に死の内に閉ざされているとも言えるでしょう。墓は単 にやがて最終的に入るところではありません。いわば私たちの人生そのものが、 既に墓の中にあるのです。死の内に閉ざされているのですから。
死の内に閉ざされた人生の閉塞性は、私たちが普段無意識に送っている生活 にも現れていると思います。なぜ目の前の出来事に振り回されてしまうのでし ょう。なぜ物事をゆったりと余裕をもって見ることができないのでしょう。 「長い目で見る」ことが大事であることは、誰だって分かっているのです。し かし、実際には長い目で見ることができません。なぜでしょう。時が限られて いることが分かっているからです。死を背負った者であり、死に閉ざされてい る限り、人生には限界があるのです。後戻りはできないことを知っています。 振り出しには戻れないことを知っています。崩れてしまったら、もう積み上げ ることはできないことを知っています。壊れてしまったら、もう二度と作れな いことがあることを知っているのです。余裕をもって見られるのはやり直しが きくうちだけです。やり直しがきかなくなれば、もはや長い目などで見られな いのです。
しかし、人間を闇の内に閉じこめていた死に風穴があきました。しかも、大 きな風穴が開いたのです。石は転がされました。それがここに書かれている出 来事であります。誰が転がしたのでしょうか。天使が転がしました。聖書に天 使が登場しますとき、それはそこに神の関与があることを表します。死を開き 給うたのは、神の御業であることを意味しているのです。人には出来ることと 出来ないことがあります。確かに人間の努力は尊いものです。しかし、人間の 努力ではどうすることも出来ないことがあります。人は自ら死を克服すること はできません。助けは墓の中からではなく、外から来なくてはなりません。救 いは死に閉ざされている人間からではなく、死の外から来なくてはなりません。 そして、救いは来たのです。石は転がされました。四つの福音書はまずそのこ とを喜びをもって伝えているのです。
●主イエスの復活
しかし、この神の業、救いの出来事は、まだこの二人のマリアの喜びと希望 にはなっておりません。神は確かに石を転がされました。しかし、まだこの出 来事は彼らの救いとはなっておりません。彼らの見ている不思議な光景は、た だ恐怖をもたらしているだけです。
そこで天使はどうしたでしょうか。まず「恐れるな」と言いました。そして、 主イエスの復活を伝えます。彼らに知らされるべきことは、単に墓が開かれた ということではありません。主イエスが復活された、ということなのです。 「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはお られない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置い てあった場所を見なさい。(5‐6節)」そして、御使いは開かれた墓の中を 見せました。そこには主イエスがおられません。「あの方は、ここにはおられ ない。」天使のこの言葉が象徴していますのは、主イエスがもはや「死」の内 におられない、ということであります。単に墓の中におられない、ということ ではありません。だから「あの方は死者の中から復活された」と語られている のです。彼らが死の中に捜していた十字架につけられたイエス。その御方はも はや死の中におられない。死の外に立っておられるのです。そのことが彼らに 告げ知らされたのでありました。
そして、何が起こったのでしょうか。もはや死に閉じこめられていない主イ エスが、死の外に立たれたキリストが、死の内に閉ざされていた二人のマリア に出会ってくださったのです。「おはよう」という言葉をもって。彼らは、近 寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏します。「ひれ伏した」――この言 葉はマタイによる福音書において13回も繰り返されます。最初に出てくるの は、幼子イエスを訪ねて東方から来た占星術の学者たちの行為としてです。彼 らが、イエス様の前にひれ伏します。最後に出てくるのは、28章17節です。
そこで弟子たちが主の前にひれ伏します。この言葉は、主イエスへの礼拝を意 味します。その主題が、福音書の最初から最後まで貫かれております。ここで 二人のマリアも、死をうち破り、死の外に立つ救い主を礼拝する者としてここ に描かれているのです。
そこで何が起こっているでしょうか。石が転がされたあの出来事と二人のマ リアが復活のキリストへの礼拝によって結びつけられているのであります。復 活のキリストが宣べ伝えられ、復活のキリストに出会い、復活のキリストを礼 拝し、復活のキリストと共にあることにより、彼らはもはや死に閉ざされた者 ではなくなっているのです。
石が転がされました。主はよみがえられました。天使が彼女らに主の復活を 宣べ伝えました。そして、「急いで行って、弟子たちに告げなさい」と二人に 言います。主イエスに出会った彼女らは、さらに弟子たちに主の復活を宣べ伝 えました。これがあの日曜日に起こった出来事です。そして、主の復活は代々 に渡って宣べ伝えられ、私たちにまで伝えられました。
あの日曜日に起こったことが、この日曜日にも起こります。死をうち破られ た方と共にある私たちは、もはや死の闇の中に閉ざされてはおりません。生活 の重荷はあるかも知れません。人生の苦闘は続いております。悲しみに打ちひ しがれることもあるでしょう。しかし、キリストと共にあるならば、私たちは 死の闇に閉ざされてはおりません。私たちの人生に命の光が差し込みます。ぽ っかり開いた死の口から、天の風が吹き込ます。そこに私たちの喜びがありま す。私たちの希望があります。私たちは何も特別な人間である必要はありませ ん。ごく当たり前の日常を営む人間として、主の復活を喜んで生きるよう招か れているのです。今日はイースターです。大いに喜びましょう。主はよみがえ られました!