「恵みによって選ばれた者」
1999年4月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ11・1‐12
受難節の期間中断しておりましたが、私たちは再びパウロの書きましたロー マの信徒への手紙を11章から読み始めたいと思います。この章をもって大き な第二の区分が終わりますが、ここを三回に分けて読み進んでまいりましょう。 今日は1節から12節までです。
●退け給わぬ神
はじめに1節をお読みします。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けら れたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハ ムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。(1節)」
パウロは誰に尋ねているのでしょうか。13節には「では、あなたがた異邦 人に言います」と書かれています。11章の話の流れからしますと、この1節 においても、やはりパウロが念頭に置いているのは異邦人キリスト者であると 考えられます。この言葉を理解するために、まず、この直前の10章を振り返 っておきましょう。
10章12節には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ 主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」 と、パウロが大きな喜びをもって記しておりました。しかし、同時に、パウロ の内には大きな悲しみがありました。なぜなら、「すべての人が福音に従った のではない(16節)」ということも事実だからです。パウロが具体的に思い 描いていたのは、福音をかたくなに拒否するユダヤ人たちであったに違いあり ません。救いの言葉は彼らの近くにありました。聞こえていなかったわけでは ありません。パウロは詩編の19編を引用して言います。「その声は全地に響 き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」。彼らにも、その言葉は及んでい るのです。神が救いの手を伸ばしていなかったのではありません。10章の最 後に、パウロはイザヤ書を引用します。「わたしは、不従順で反抗する民に、 一日中手を差し伸べた」。
彼らの不信仰を神の責任に帰することはできない。それが10章に記されて いたことでありました。その当然の帰結は、次のようなものとなるでしょう。 「神はなすべきことをなされたのだ。にもかかわらず、ユダヤ人たちが福音に 従わないとするならば、もはや神から退けられたとしても当然ではないか。」 そこから「神はユダヤ人を捨てられ、代わりに我々を選ばれたのだ」という思 いが異邦人キリスト者の内に起こったとしても不思議ではありません。後に読 みます19節の「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」 というのは、そのような異邦人キリスト者の考えを表しています。
あるいは、そのような考えは、10章のパウロの論述によらないでも、具体 的な伝道の働きの中で既に起こっていたのかもしれません。ユダヤ人がかたく なに福音を拒否する一方で、異邦人たちが信仰に導かれていく。使徒言行録を 読みますと、それがパレスティナ以外の地における初代の教会の一般的な状況 でありました。ローマの教会においても、恐らく会員の大部分は非ユダヤ人だ ったことでしょう。そのような中で、「神はもう彼らを見捨てられたのだ。退 けてしまわれたのだ」と誰かが言ったとしても、それは無理もないことであり ました。
状況は違いますが、これは私たちにとっても身近な経験ではないでしょうか。
私たちも、いつの間にか心の中で、そうやって人を切り捨てていることがある だろうと思うのです。「あのような人は信仰とは無縁だ。彼らにキリストを伝 えることは無意味だ。あのような人はどうにもなりやしない。」例えば、それ は家族に対してであるかも知れませんし、土地の住民であるかも知れません。 しかし、それは言い方を変えれば「神はもう彼らを退けてしまわれたのだ」と 言っているのと少しも変わらないのです。
しかし、パウロはここで異邦人キリスト者に言うのです。「神は御自分の民 を退けられたのであろうか。決してそうではない。」考えて見れば、パウロほ どユダヤ人たちの強い拒絶に遭った人はいないだろうと思います。それは使徒 言行録を読めば分かります。彼はまずユダヤ人の会堂に行っては福音を伝えよ うとするのです。しかし、どこに行ってもユダヤ人たちはパウロを口汚くのの しります。暴動を起こします。リストラではパウロに石を投げつけ、殺そうと さえしました。このローマの信徒への手紙は、コリントから書き送られたと言 われます。しかし、そのコリントにおいても、第二回伝道旅行の際、ユダヤ人 たちの非常に強い反抗に遭い、会堂で伝道ができなくなったのです。しかし、 そのような経験をしてきたパウロが言うのです。「神は御自分の民を退けられ たのであろうか。決してそうではない。」そうしますと、明らかにこれは、た だパウロの同胞意識から出た心情的な言葉ではありません。では、パウロはい ったい何を根拠に、このように語るのでしょうか。
●残された者
そこでパウロは旧約聖書に出てくるエリヤの物語を引用いたします。2節以 下をご覧下さい。
エリヤは列王記上17章から登場する預言者です。時代は紀元前9世紀、イ スラエルの王アハブの治世です。それは、シドン人であったアハブの妻イゼベ ルの影響で、バアル宗教が圧倒的支配力を持った時代でありました。アハブ自 ら主を捨ててバアルを礼拝し、都であったサマリアにバアルの神殿を建てたほ どです。そして、イスラエルの預言者たちは迫害され、殺されたのでした。
そこに突如として現れたのが預言者エリヤです。列王記下18章には、この エリヤが、カルメル山にバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人 を集め、彼らと対決をするという有名な話が出てきます。エリヤはまさに命が けで、イスラエルの民に、主に従うのかバアルに従うのかを問うのです。詳細 は該当個所をお読みください。結果としては、そこに神の火が降り、その奇跡 によってエリヤの勝利に終わります。しかし、奇跡によって人々の心は変わり ませんでした。エリヤはイゼベルから命を狙われ、逃亡者となり、荒れ野に身 を隠します。誰が助けてくれるわけでもありません。孤独です。戦いに疲れ果 てた男がそこにいます。彼は、ただ自分の死を願います。そのようなエリヤの 言葉をパウロは引用しているのです。
「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そ して、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。(3 節)」その前に、「彼は、イスラエルを神にこう訴えています」と書かれてい ることを見落としてはなりません。エリヤが訴えているのは、アハブやイゼベ ルではないのです。悔い改めることのないイスラエルの民全体です。エリヤは もはや彼らのために神に執り成そうとはいたしません。自らイスラエルに敵対 して語っているのです。イスラエルを、もはや神から見捨てられて然るべきも のとして語っているのです。
しかし、そのようなエリヤに対して、神はこう言われたのでした。「わたし は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた。」エリ ヤはイスラエルをもう見捨ててしまっています。匙を投げてしまいました。し かし、神はそうされないのです。神は諦めてしまわれません。匙を投げません。 「七千人を自分のために残しておいた」という言葉は、神がまだイスラエルを 見捨ててはおられないことを意味するのです。
そこでパウロは言います。「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた 者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。も しそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(5‐6節)」
パウロがまず思い描いているのは自分自身でしょう。だから1節で「わたし もイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」と言っ ていたのです。彼はユダヤ人である自分がキリスト者とされていることの意味 を考えます。なぜ自分がキリスト者としてそこにいるのか。それは何か優れて いるものが自分の内にあったからか。優れた行いによるのか。そうではない、 とパウロは認めざるを得ません。そして、本来ならば真っ先に見捨てられて然 るべき者が、罪を赦され、義とされ、神と共に生きる者とされている事実に恐 れおののくのです。それは神の一方的な恵みにより、選ばれて残されたとしか 言いようがないのです。そして、自分のような者が残されている事実に、神が まだユダヤ人を見捨てておられないしるしを見るのです。それゆえ、彼は確信 をもって言うのです。「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそ うではない。」
私たちもまた、こうしてキリストの赦しのもとにあって礼拝する者とされて いる事実に、神の憐れみのしるしを見るべきでありましょう。この日本におい て、いまだキリスト者はごく僅かです。キリスト教は日本に根付かないと言う 人もおります。しかし、僅かなキリスト者であっても、それが恵みによって残 されているならば、それは全体が神の憐れみのもとにあるというしるしに他な らないでしょう。あるいは、あなたは家族や職場の中でたった一人のキリスト 者であるかも知れません。エリヤと同じように「わたしだけです!」と嘆かざ るを得ない時もあるでしょう。しかし、本来なら真っ先に見捨てられて然るべ きあなたが神のもとにいることを許されているのではありませんか。ならば、 そのようなあなたの存在は、まさに神は見捨て給わないという憐れみのしるし ではないでしょうか。
●進みゆく神の計画
「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」それゆえ、パウロ は目の前の現実に捕らわれません。目の前にあるユダヤ人たちのかたくなさや 反抗に捕らわれません。希望をもって神の為し給うことに目を向けます。7節 以下をご覧下さい。
「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者 がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。『神は、彼らに鈍い 心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで』と書いてある とおりです。ダビデもまた言っています。『彼らの食卓は、自分たちの罠とな り、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで 見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。』(7‐10 節)」
確かにイスラエル全体としては、いまだ求めてきた義を得ず、救いを得ては いません。それは9章32節に書かれているように、「イスラエルは、信仰に よってではなく、行いによって達せられるかのように、考えた」からに他なり ません。その自分の行いを誇り、自分の行いに依り頼む傲慢なプライドが、神 の恵みをただ感謝して受け容れる信仰から彼らを遠ざけたのでした。その不信 仰と不従順に対する神の裁きは、彼らがかたくなにされるということにおいて 既に現れているのです。旧約聖書に記されている裁きの言葉は、そのままパウ ロの目の前にいるユダヤ人たちの現状でありました。
しかし、パウロはそこから問うのです。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつま ずいたとは、倒れてしまったということなのか。」彼らはつまずきました。し かし、つまずいたということと倒れたということは異なります。つまずいて倒 れて終わりではありません。彼は現状を最終的な結論として見ていません。な ぜでしょう。既に見てきたように、選ばれて残された者が存在するという事実 に神の憐れみのしるしを見ているからです。ですから、自らの問いに答えます。 「決してそうではない。」そして、そこからパウロは人間の不信仰にではなく、 神の御業に目を向けるのであります。
「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということ なのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがも たらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだっ たのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれ ば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでし ょう。(11‐12節)」
彼らが福音を拒否したことにより、異邦人に救いがもたらされました。そし て、異邦人にもたらされた救いは異邦人のみに留まりません。それが神の御計 画のもとにある限り、必ずユダヤ人が救われるために用いられる。それがパウ ロの確信でありました。神の御計画は人間のかたくなな拒絶や不従順によって 無に帰してしまうようなものではありません。神は、人間の不信仰さえも用い ることのできる御方です。
その過程は実に遠回りに見えるかも知れません。その進行具合はまことにゆ っくりで、しばしば人間の感覚では捉えられないほどです。しかし、パウロは 希望をもって先を見て言うのです。「まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、 どんなにかすばらしいことでしょう。」目に見える現状からは、このような言 葉は出てきません。パウロが見ているのは、ただ神が見捨てておられないとい う事実であり、神がその憐れみによって事を為しておられるという事実なので す。
確かにパウロが語っている具体的な内容は、私たちにはそれほど身近なもの ではないかも知れません。しかし、状況は違い、時代は異なれども、目を向け るべきところは変わらないのです。もし私たちがパウロのように希望をもって 物事を語ることができなくなっているとするならば、それはパウロと同じとこ ろに目を向けていないからではないでしょうか。