「神の慈しみと厳しさ」
1999年4月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ11:13‐24
今日は13節からお読みしました。パウロは、福音をかたくなに拒否してい る同胞であるユダヤ人のことを思いつつこの部分を書いています。彼らの不信 仰のゆえに、彼の心には絶え間ない痛みがありました。(9・2)パウロは、 彼らが救われることを心から願い祈っています。(10・1)しかし、ここで 直接語りかけているのは、不信仰のうちに留まっているユダヤ人に対してでは ありません。異邦人キリスト者に対してです。「では、あなたがた異邦人に言 います」(13節)。彼らは信仰によって立っている人たちです。(20節) しかし、その彼らに18節では「誇ってはなりません」と言います。20節で は「思い上がってはなりません」と言います。ユダヤ人たちのことではありま せん。異邦人キリスト者のことです。彼らの内に、いつででも誤った誇りと思 い上がりの危険があったということです。そして、これは他人事ではありませ ん。誤った誇りと思い上がりは私たちにとっても大きな危険であるに違いあり ません。
●むしろ恐れなさい
はじめに17節以下を読んでおきましょう。「しかし、ある枝が折り取られ、 野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分 を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりま せん。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支 えているのです。すると、あなたは『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木 されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰の ために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」(17‐2 0節前半)。
折り取られた枝とは福音を拒否したユダヤ人たちです。接ぎ木された野生の オリーブとは異邦人キリスト者です。ここに書かれているのは、11節におい て「かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりまし た」と述べられていた事柄です。本来、救いの約束を与えられていたのはユダ ヤ人たちでした。メシアの希望を与えられていたのもユダヤ人たちでした。に もかかわらず、彼らはメシアを拒否し、神によって備えられていた恵みを退け たのです。その一方で、旧約聖書に約束されていた希望とはまったく無縁であ り、メシアを待ち望んでいたわけでもない異邦人が、救いの恵みに与るように なりました。「根から豊かな養分を受けるようになった」と書かれているとお りです。
豊かな養分を受けている枝として生きていることは何も悪いことではありま せん。しかし、その枝がオリーブの木につながっていない枝に対して誇り始め る時に誤りに陥ります。根によって支えられていることを忘れてしまうのです。 枝が豊かな養分を受けて生きているということは、何ら誇り得ることではない のだ、ということを忘れてしまうのです。いわゆる「立派なクリスチャン」に おいてこのようなことが起こります。周りの不信仰が目につくのです。福音を 拒否するかたくなさが目につくのです。そうして、いつの間にかパウロのよう に救いを祈り願う者ではなく、他者と比較して誇る者となり、冷たい批判者と なっていることがあり得るのです。
確かにユダヤ人は不信仰のために折り取られました。異邦人キリスト者は信 仰によって立っています。そのことをパウロも認めます。しかし、そこで何を 思わなくてはならないのでしょうか。思い上がってはならない。むしろ恐れる べきだ、とパウロは言うのです。
イスラエルは神の選び給うた神の民でした。神が「イスラエルはわたしの子、 わたしの長子である」(出4・22)とさえ、言われた民でした。しかし、旧 約聖書を読みますと、神がいかにこの民に対して厳しく臨まれたかを知らされ ます。彼らが思い上がった時、へりくだって悔い改めて立ち帰るようにとの呼 びかけに応えようとしなかった時、いかに厳しい裁きの言葉が臨んだかを私た ちは聖書を通して知るのです。そして、最終的にメシアであるイエスのご人格 とその死と復活を通して与えられた神の言葉を退けた時、神は彼らを救いの幹 から折り取られたのでした。しかし、自然に生えた枝、本来幹につながってい るはずの枝が救いの幹から折り取られたという事実を見て、「ああ、神は彼ら をそのかたくなさのゆえに退けられたのだ」などと言っていてはならないので す。どうして、明日は我が身でないと言えるでしょう。パウロは言うのです。 「恐らくあなたをも容赦されないでしょう。」
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)。私たちは神の厳 しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐 々として生きることを意味しません。パウロはあえて「慈しみと厳しさ」と言 われるのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈 しみにとどまるのです。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈 しみがあるのです」とパウロの言っているとおりです。
23節には「不信仰にとどまらないならば」という言葉が出てきます。しか し、ここであえて「信仰にとどまる」と言わず、「神の慈しみにとどまる」と パウロは書いたことには意味があります。信仰と信念の区別がつかない人は、 「信仰にとどまっている」ということを誇り始めます。しかし、自分がただ 「神の慈しみにとどまっている」だけだ、ということを知る人は誇れません。 そして、その神の慈しみからあえて自分を切り離して生きていこうとはしない はずです。十字架にかかられたキリストから離れて、その裂かれた肉と流され た血に与る食卓――すなわち聖餐の恵み――から離れて生きていこうとはしな いでしょう。「もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(2 2節)。思い上がることなく、むしろ恐れる人は、このパウロの言葉の意味す ることが分かるはずだからです。
そして、一方、不信仰によって折り取られた枝は、もうそれで終わりではな いことが語られています。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木さ れるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」(2 3節)。神はおできになる。そこにパウロの希望がありました。パウロは、折 り取られた枯れ枝を見ているのではありません。再び神によって接ぎ木され、 根から豊かな養分を取って成長し、多くの実をつけている枝を見ているのです。 12節において「まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばら しいことでしょう」と言っていたようにです。
●ねたみを起こさせるため
さて、ここまで読みまして、13節に戻ります。そもそも、パウロが言いた かったことは何だったのでしょうか。「では、あなたがた異邦人に言います。 わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何と かして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(1 3‐14節)。
パウロは自分自身を「異邦人のための使徒」と呼びます。彼が福音を宣べ伝 えることによって多くの異邦人がキリストを信じ、キリスト者となりました。 この務めをパウロは確かに光栄に思うと言います。しかし、それにもかかわら ず、パウロの働きは異邦人がキリスト者となることによって完結してはいない のです。その先があるのです。その先に来るべきことを、パウロはこう表現し ます。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたい のです。」
彼はここで「全イスラエルを救いたいのです」とは言いません。あくまでも 自分の働きに関わるところにおいては「その幾人かでも」という言葉に留めま す。しかし、彼が信仰の目によって見ているところは全イスラエルの救いであ りました。それは単に同胞意識からくる同情のようなものではありません。パ ウロがあくまでも思い描いているのは、終わりの日を目指して進んでいる神の 計画なのです。15節にこう書いているとおりです。「もし彼らの捨てられる ことが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中か らの命でなくて何でしょう」(15節)。
ユダヤ人は不信仰のゆえに折り取られた枝となっています。しかし、神の計 画は人間の不信仰によって挫折せられることはありません。神は不信仰をも人 間のかたくなさをも御計画の前進のために用いることのできる御方です。直接 的にはユダヤ人の不信仰によって主イエスは十字架にかけられましたが、その 十字架によって神と人との和解が与えられました。さらに、彼らが不信仰によ って折り取られましたが、そのことにより野生の枝が接ぎ木され、福音はユダ ヤ人の枠を越えて外へ飛び出しました。それは異邦人を含め、世界を神との和 解へと導くものとなりました。そして、そのように世界に流れ出た救いの業は、 神の御計画のもとに完成へと向かいます。異邦人の救いはやがてのイスラエル の救いにつながっているのです。イスラエルは捨てられて終わりではありませ ん。彼ら――すなわち全イスラエル――が神によって受け容れられるとの時が 来るのです。パウロはそれを「死者の中からの命」と呼びます。これは終末論 的な言い回しです。これは約束されている終わりの日の復活に他なりません。 言い換えるならば、救いの完成です。
それゆえ、パウロはこの希望を、次のように表現しています。「麦の初穂が 聖なるものであれば、練り粉全体もそうである。根が聖なるものであれば、枝 もそうです」(16節)。麦の初穂や根は、イスラエルの父祖たち、特にアブ ラハムを意味するのでしょう。神はアブラハムを選ばれ、召されました。そこ からすべては始まりました。「聖なるもの」とは神に属することを意味します。 神が御自分のものとしてアブラハムを召されたところから始まったのですから、 全イスラエルの歴史は神のものなのです。ですから、全イスラエルが神に立ち 帰るところにこそ、終末における全世界の救いの完成もあるのです。
パウロは、このことを異邦人キリスト者に語ります。なぜでしょうか。それ は、彼らがキリスト者とされたという事実がどこに位置づけられるかを知って ほしいからです。彼らが、救いの歴史の途上にあることを理解してほしいから に他なりません。彼らは、自分たちの救いが「終点」ではないことを知らなく てはならないのです。あたかも自分が終点にいるかのように、かたくななユダ ヤ人たちを見下げて「彼らは神に退けられたのだ」などと言っていてはならな いのです。自分たちがキリスト者にされたのは、今は反抗しているように見え る人々の救いのためでもあることを忘れてはならないのです。
そこでパウロの願いは同胞であるユダヤ人たちにねたみが起こることでした。 救いに関することを語るにしては、「ねたみ」という何とも人間臭い言葉を用 いるものです。しかし、私たちはこの人間臭い現実をも神が用いて救いの計画 を進められることをよく理解しなくてはなりません。神の計画は人間によって 阻止されることはないにしても、人間と無関係に進められていくわけではあり ません。「ねたみ」――これは感情的に動かされることです。この場合、例え ば「うらやましくなること」と言い換えることもできるでしょう。パウロは、 異邦人キリスト者が、本来イスラエルに約束されていた恵みに与るのを見て、 ユダヤ人たちがうらやましく思うように、ねたましく思うように、と願ってい るのです。
そして、そのような人間的な心の動きを神が救いのために用いられるとする ならば、やはり問われるのはキリスト者の生きている姿であろうと思います。 「ねたみ」は、単に言葉によってではなく、目に見える現実の姿によって起こ るからです。しかし、それは必ずしも、キリスト者が立派な行いをすることや、 高潔な人格者になることが求められている、ということではありません。そう ではなくて、必要なことは、キリストの十字架と復活、聖霊降臨によって与え られた救いの喜びと希望を真に自らのものとして生きるということであります。 それは「慈しみにとどまる」ということに他ならないでしょう。
「不信仰なユダヤ人を神に見捨てられた者であるかのように断罪するのでは なくて、むしろ神との平和を与えられたあなたがたの生活を通して彼らの内に ねたみを起こしてほしい!」そんなパウロの心の叫びが聞こえるような気がい たします。そのような思いのゆえに、先に読みましたように、この後の「誇る な」「思い上がるな」という彼の言葉が続くのです。
さて、このような「誇り」や「思い上がり」は、ユダヤ人の近くにいた異邦 人キリスト者の問題だけでなく、今日の私たちの問題でもあります。私たちは パウロの言うように、神の慈しみと厳しさをよくよく考えねばなりません。そ して、私たち自身がまず信仰にとどまり慈しみにとどまることの意味をしっか りとわきまえるべきであろうと思うのです。