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「喜びが満ち溢れるように」

1999年4月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 協力牧師 松原 茂
聖書 Ⅰヨハネ1・1‐4

 イエスは大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」こ う言って息を引きとられました。百人隊長は、イエスが十字架につけられた一 部始終を見ておりました。彼はイエスの態度に深い感銘を受け「本当に、この 人は正しい人(神の子)だった」と言って神を賛美しました(ルカ23章46 節、47節)。

 十字架の上で、旧約聖書の約束を成就されたイエスのことを、ヨハネ1章1 ‐18節は、言(ロゴス)と表現しています。「初めに言があった。言は神と 共にあった。言は神であった」(1)。「万物は言によって成った」(3) 「言の内に命があった」(4)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られ た。わたしたちはその栄光を見た」(14)。「いまだかつて神を見たものは いない。父のふところにいる独り子である神、この方(イエス・キリスト)が 神をしめされたのである」(18)。

 確かに聖書は、十字架上で息を引きとられたナザレのイエスこそ、「初めに 言として神と共にあった方」であると、ヨハネ福音書は証言しています。

 今日から学んでまいりますⅠヨハネの序文1章1‐4には、「初めからあっ たもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの を伝えます。すなわち命の言について」(1)。とあります。この「もの」、 「初めからあったもの」は、福音のメッセージそのものを指すものと思われま す。キリストの先在を語り、その神性を証示しています。はじめ永遠の中にか くされていたキリストが、受肉の奇跡によって、すなわち、神の救いの業によ って、人類の歴史の中に実現した出来事が語られています。グノーシス主義者 にグゥの音もいわせない「命の言」を短い言葉の中に、具体的に伝えています。

 2節には、「永遠のいのち」が初めから神と共におられたこと、また「永遠 のいのち」はすでに現れ、歴史の中に出現したことを繰り返し語っています。

 Ⅰヨハネの手紙の最初から、反キリスト者の説く、異なった教えに挑戦的で あります。その教えとはグノーシス主義であり、また、キリスト仮現論(ドケ ティズム)であると思われます。それはキリストの受肉と受難、そして、イエ スがメシアであることを否定する教えであります。

 3節には、人間の知恵にもとずく教えではなく、わたしたち(弟子たち)が 事実、親しく、しげしげと見、また、直接聞いた福音の出来事を、あなたが伝 えるのは、あなたがたが、わたしたちとの交わり(コイノーニア)を持つため です、とこの手紙の直接の目的が語られます。「わたしたちの交わりは、御父 と御子イエス・キリストとの交わりです」。

 さて、(コイノーニア)とは「何か共通のものを所有すること、分かち合う こと、共にあずかること」を意味します。「あなた方もわたしたちとの交わり を持つ」(3節)とは、キリストにある命を共有することです。真の「喜び」 は「御父と御子イエス・キリストとの交わり」から与えられるとあります。 

 さて、今日はⅠヨハネの手紙の序文の中にしるされている「喜び」を「御父 とと御子イエス・キリストとの交わり」を通して、学びたく思います。

 4節に「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ち溢 れるようになるためです」と、あります。わたしたちキリスト信徒にとって、 このみ言は、改めて信仰の姿勢について、考えさせられるみ言であります。Ⅰ ヨハネの手紙には、「喜び」(4節)ということばは一ヶ所だけしるされてい ます。「喜ぶ」「感謝」「賛美」のことばは使われていません。Ⅰヨハネの文 章は淡々と書かれていますが、「反キリスト」の教えに対しては、実に、厳し いことばが漲っているといえます。Ⅰヨハネの手紙を読んでみますと、最後に 思わず、ハレルヤ、アーメン、と主に感謝し賛美せずにはおれません。そこに は悪の世に打ち勝つ勝利の信仰が歌われています(5章4節)。何ごとでも神 の御心に適うことを願うなら、神はその祈りを聞き入れて下さる(5章14節) とあります。Ⅰヨハネの手紙には「喜び」ということばは一ヶ所だけでありま すが、それは実に大きな存在の「喜び」であります。1章4節の「わたしたち の喜びが満ちあふれるようになるためです」。それは、この手紙の究極目的で あるからです。

 わたしたちが喜ぶのは、今、わたしたちの事情がどのように良くても、悪く ても、既に「御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられている」とい う信仰によるからであります。

 「主を喜ぶことは、あなたたちの力です。」(ネヘミヤ8章10節)とあり ます。まず、すべてのことにまさって主を喜ぶことが大切なことです。キリス トは弟子たちに向かって喜びの杯が満ち溢れるために次のように祈るように言 われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを 父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ16章24節)と。

 イエスは捉えられる前、わたしたちのために祈られました。「……世にいる 間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満たされるよう になるためです。」(ヨハネ17章13節)新しいキリスト者も以前からのキ リスト者も、現実の力に押しつぶされ、イエスを仰ぐことを忘れてしまいそう になることがあります。しかし、「御父と御子イエス・キリストの交わり」の 喜びについてイエスは次のように話されました。「父がわたしを愛されたよう に、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが 父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を 守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したの は、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるた めである」(ヨハネ15章11)。よろこびの泉は、イエスの言を守り、イエ スの愛のうちにとどまっていることの中にあります。

エレミヤも哀しみの人でありましたが、次のように書いています。「あなたの 御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御 言葉は、わたしのものとなりわたしの心は喜び躍りました」(エレミヤ15章 16節)。エレミヤは目の前の哀しい出来事に打ちひしがれそうになっていま したが、主が語られるみことばを求めました。現実の事情がどのような状況の もとにありましても、全能者のみことばこそよろこびの泉であったのです。よ ろこびはわたしたちの感情の中に見出すものではなく、神(御父と御子の交わ り)の中に見出すものだとエレミヤは記しています。

 詩編33編1節に「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美すること は正しい人にふさわしい」とあります。喜びと感謝と賛美は互いに結びついて います。そして悲惨に満ちた此の世の悲しい現実を打ち破っていく力を秘めて います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝し なさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおら れることです」(Ⅰテサロニケ5章16‐18)。「どんなことにも」であり ます。どんなことにも、すべてのことを感謝することが大切だと教えられてま す。

 マーリン・キャロザースさんは、『賛美の力』の中でさらに次のような記事 を書いておられます。聖霊に満たされ、長年よき御奉仕してこられた老婦人キ リスト者についてです。此の女性は、関節炎で体が不自由でした。何年も続い ている痛みのため、彼女は生きていく喜びを見失っていました。家の中の小さ な仕事も苦痛でした。そしてますます落ち込んでいきました。いやしの集会に も度々出席しましたが、一向に良くならず、悪くなる一方でした。ある日、彼 女はどんなことにも感謝することによって神から大きな力が与えられるという 話を聞きました。そして実行してみようと決心しました。しかし、関節炎を患 っている彼女にとってそれは、並大抵のことではありませんでした。毎日が昼 夜を問わず痛み通しだったからです。ところが、彼女は、この苦痛を含めて自 分の生活のあらゆる事柄を心から神に感謝しようと務められたのであります。

 あるとき、お盆の上にいろんなものをのせて台所をそろそろと歩いていた時 です。突然そのお盆を落としてしまい、お盆の上のものがすべて床一面に散ら ばってしまったのです。背中は痛みが走るし、指はこわばっていますから、か がんでそれらを拾い上げることができません。今まででしたら、ものを落とし た時、自らのあわれな身の上に涙を流していましたが、この時は、そうではあ りませんでした。神に感謝し、賛美するという約束を思い出したのです。「主 よ、ありがとうございます。床の上にみんな落としてしまいましたが、主よ感 謝いたします。これをわたしの益になるようにしてくださることと信じます」 と彼女は祈りました。瞬間、彼女は不思議な経験をしました。台所に自分の他 にだれかがいることに気づきました。彼女はひとりだったのです。ところが今、 だれかがいるのに気づきました。驚いたことに、彼女は天使に囲まれていたの です。その天使は笑い喜んでいました。その喜びは自分のためであることを知 りました。突然彼女は悟ったのです。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使 たちの間に喜びがある」(ルカ15章1○節)とイエスが語っておられたこと を。

 彼女は確かに、奇跡的に心が変えられ、救われた罪人でした。彼女は長年、 自己憐憫にひたり、自分の苦しみを神は黙って見過ごしておられるのかと神に 対して不平をいっていました。いやしを求めていましたが、心の中では神が自 分をこんなにみじめにされたのだと思っていました。ついに自分のつぶやきが 不信仰から来ていたことを悟らされました。そして、お盆をひっくりかえした 事を神に感謝し、賛美し、主に信頼した時、天使たちの間に喜びが満ち溢れて いたのであります。

 彼女は台所の真ん中に立ち、部屋中に満ち溢れた喜びに自分がひたされてい るのを感じました。御父と御子との交わりに入れられていたことを悟った彼女 は今までの苦しみを神が黙認されていたことを心から喜びをもって感謝するこ とができました。その後まもなく、彼女は、病人のための祈り会に出席しまし た。そしていやされるという確信を与えられて前に進み出ました。彼女の信仰 は"感じ"にとらわれていませんでした。その夜、彼女は即座にいやされました。 苦痛はなくなり、まがっていた関節はまっすぐになりました。

 神のいやしはなんとすばらしいことでしょうか。しかし、もっとすばらしい ことは、いやしがもはや肝心な問題ではないということです。本当に大切なこ と、それは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に入れていただいてい るということなのであります。わたしたちの人生のすべてのささいなことに対 しても配慮してくださる神の愛に信頼することであります。

 大正の頃、大阪に富山という大きな商家がありました。ご主人が急な病のた めに亡くなられました。ところが、後には莫大な負債が残されていたのです。 家を追い出された一家は、ほんとうに小さい借家に移り住みました。三人の子 どもたちは奉公に出されました。しばらくして、長男が結核にかかり、奉公先 から帰ってきました。家族は次々に全員が感染してしまいました。

 いまや、この家族は、施設に移り、しかも、日当たりのよくない部屋で枕を 並べて寝ていました。富山夫人はキリスト者でありました。ある年の暮、牧師 がさがし当てて、この家を訪ねました。夫人は、ふとんの上に起き上がり、ね まきの胸をかきあわせて、牧師に、きちんと挨拶を致しました。

 「今年も、神さまは、わたしたち家族を守ってくださいました。来年も、き っと、最善のことをしてくださるでしょう」。

 神さまも見捨てたとしか思えない不幸の中で、この夫人は、どうしてそのよ うな言葉を語ることができたのでしょうか。

 試練や悲しみがやって来る時、わたしたちの最初の反応は「ああ神さま、ど うしてわたしをお見捨てになったのですか」という嘆きのことばです。

 しかし、イエスは言われました。「あなたがたは、わたしが与える平和の中 にいなさい。あなたがたは、この世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさ い。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。

 この夫人は、いつも、主イエスのおことばに信頼し、父なる神に感謝の祈り をささげ、深く、神とイエス・キリストととの交わりに入れられていました。 どんなにつらいときでも、平安と喜び、希望と愛とを、信仰によって、持ち続 けておられたのであります。

 
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