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「神の深き富と知恵と知識」

1999年5月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ11・25‐36

●信仰とうぬぼれ

 パウロはここで「兄弟たち」と語りかけます。これは異邦人キリスト者のこ とです。彼らに対して「自分を賢い者とうぬぼれないように…知ってもらいた い」と言います。彼らが自分を賢い者と見なすとするならば、それはだれに対 してでしょうか。これまでの話の流れからしますと、それはユダヤ人たちとの 比較においてであるに違いありません。

 この手紙の2章には「だから、すべて人を裁く者よ」と書かれていたことを 思い出してください。そこでパウロが「人を裁く者」として具体的に思い描い ていたのは明らかにユダヤ人たちでありました。ユダヤ人たちはだれを裁いて いたのでしょう。特にその対象は異邦人であったと思われます。神の律法を持 たぬ異邦人。神の御心を知らぬ異邦人。それゆえに、やがて神に裁かれ滅ぼさ れるであろう異邦人。そのような者として、ユダヤ人たちは異邦人を裁いてい たのです。

 しかし、初期の宣教によって生み出されていった諸教会において、事態はま ったく逆転しておりました。圧倒的多数を占めていたのはユダヤ人ではなく異 邦人だったのです。ユダヤ人の多くは福音を受け入れません。異邦人キリスト 者の目から見るならば、彼らは旧約聖書に繰り返し語られているように、依然 としてかたくなな悟りのない民でありました。そこで、ともすると自分たちと ユダヤ人たちを比較して、あたかも自分たちが賢い者であるかのように思う 「うぬぼれ」が生じてまいります。自分を賢い者とし、他者を愚かな者として 裁くようになるのです。

 ユダヤ人が異邦人を裁き、異邦人キリスト者がユダヤ人を見下す。人間はい つでもこのようなことを繰り返してきたのでしょう。だれでも自分を賢い者と 見なしたいものです。「私は愚か者ではない」という誇りを保ちたいと思うの です。そのためには、時として、他の人々を愚か者とみなし、貶め、軽蔑し、 見下すことさえいたします。しかし、考えてみますなら、そのような誇りは往 往にして劣等感の裏返しでしかありません。

 たぶん初期の異邦人キリスト者の心情も同じではなかったかと推察します。 最初にキリスト者になった異邦人たちは、主に普段からユダヤ人の会堂に出入 りしていた「神を敬う者・敬神家」と呼ばれる人々でした。彼らは異邦人がユ ダヤ人たちから裁かれ、軽蔑されていることを良く知っている人たちだったの です。そして、事実、倫理的な高さにおいても、聖書についての知識において も、ユダヤ人たちにはかなわないのです。どうしたって、劣等感を持たざるを 得ないでしょう。ですから、そのような彼らがキリストによる救いの真理を知 って、劣等感の裏側がそのまま出るならば、やはりユダヤ人に対する誇りとな って現れたとしても無理はありません。十分に起り得ることです。しかも、実 際に教会の伝道において、福音に対するユダヤ人たちの頑強な抵抗や拒否に出 会うにつれ、なおさらそのような思いを強めることになります。「彼らは聖書 には詳しいかも知れないが、本当に大切な救いの真理を知らない。かたくなで 無知な人々である。我々の方が遥かに賢いではないか。」今度は彼らが裁く方 にまわるのです。

 こうして、信仰の事柄さえ、つまらぬ思い上がりとうぬぼれの原因となって しまいます。パウロはそのような人間の罪深さを知っています。ですから「ぜ ひ知ってもらいたい」と言うのです。そのようなうぬぼれに陥らないためにも、 知らなくてはならない事柄があるのです。もちろん、それは私たちもまた聞く べきこと、知るべきことであるに違いありません。

●知るべき秘められた計画

 では、知るべきこととは何でしょうか。パウロはそれを「秘められた計画」 と呼びます。これを「奥義」と訳している聖書もあります。「奥義」と言いま すと、何か特別な人だけが得ることのできる悟りのようなもののように聞こえ なくもありません。しかし、パウロがここで言っているのは、人間の努力や神 秘経験によって悟り得る何かではないのです。今だに覆いがかかったままであ る何か、中を覗くのに苦労する何かではありません。もしそうであるならば、 そのような奥義を知ることは、彼らをますますうぬぼれに陥らせるだけであろ うと思います。そうではなくて、パウロが「知ってほしい」と言っているのは、 既に覆いの取り除かれた奥義なのです。秘められていたけれど、神御自身によ って明らかにされた事柄なのです。これを神の啓示といいます。神御自身が覆 いを除き、啓(ひら)き示されたのです。

 では、どのようなことによって覆いは取り除かれたのでしょうか。覆いは神 が語られることによって除かれました。しかし、それは神がかつて預言者を通 して言葉として語ってこられたようにではありません。神が一人の生ける人格 を通して、特にまたその死と復活を通して、最終的に決定的に語られることに よってでありました。言うまでもなく、それはイエス・キリストの到来、十字 架と復活のことであります。このキリストこそ神の啓示に他ならないのです。

 この啓示のもとで、人間の罪が明らかにされました。十字架のもとで、神に 敵対する人間の現実が明らかにされました。しかし、その神に敵対する人間の 罪さえも、神の手の外にあり続けることはできませんでした。神は敵対する罪 人の手を用いて、贖いの十字架を立てられたのであります。そして、神はキリ ストを復活させ、人間の罪に対する勝利を明らかにされたのであります。最終 的に支配するのは罪と死ではなくて、神の義であり命であることを明らかにさ れたのであります。

 そのキリストの光のもとで見るならば、今かたくなに反抗しているイスラエ ルについての神の計画も明らかなものとなります。秘められていた計画がそこ においても明らかにされました。肉の目には、イスラエルの不従順が最終的な 姿に映ります。しかし、キリストの光のもとで見る時に、イスラエルは罪のゆ えに滅ぼされて終わりではないのです。かたくなさは最終的な彼らの姿ではあ りません。それは異邦人が救われるまでのことだ、とパウロは言うのです。神 は彼らをかたくななままではおかれません。罪が最終的な勝利者なのではなく て、神が勝利者だからです。それゆえ最終的に救いは全イスラエルに及ぶので す。神の救いは必ず完結に至るのです。

 そこでパウロは聖書を引用します。「救う方がシオンから来て、ヤコブから 不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を除くとこに、彼らと結ぶ わたしの契約である。」必ずしもこのままの形で聖書に書かれているわけでは ありません。イザヤ書やエレミヤ書の中からの引用です。これを引用するのは、 キリストによって明らかにされた神の秘められた計画を指し示しているからで す。強調点は明瞭です。不信心を遠ざけてくださるのは神御自身であるという ことです。神が罪を除かれるのです。

 確かに現状を見るならば、ユダヤ人たちは神に敵対しています。パウロは彼 らの不従順の罪を思って心を痛めております。しかし、神に敵対する彼らは神 にとっても敵であるのか。神も彼らに敵対しておられるのか。そうではない、 とパウロは言うのです。彼は大胆にも「彼らは神に愛されているのだ!」と言 うのです。彼らに与えられた約束は生きているのです。「先祖たちのお陰で」 と言います。この先祖たちというのは、アブラハム、イサク、ヤコブたちのこ とです。神はかつて彼らに言われました。「わたしは、あなたとの間に、また 後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなた とあなたの子孫の神となる」(創世記17・7)。神はイスラエルの罪にもか かわらず、いかにこの約束に真実であろうとされたことでしょうか。そして、 その神の真実がイエス・キリストにおいて完全に現されました。それゆえ、パ ウロは確信をもって言うのです。「神の賜物と招きとは取り消されないものな のです」(29節)と。

●ただ憐れみによって

 そして、神が敵対する者をもなお愛されるとするならば、それは神の憐れみ によるとしか言いようがありません。人の側には愛される要因がまったくない のですから。それゆえ、その後の30節以降には「憐れみ」という言葉が繰り 返されることになります。しかし、この憐れみについて語る時、パウロは話を イスラエルのことに限定いたしません。「あなたがたは、かつては神に不従順 でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています」(30節)と異 邦人キリスト者に言い始めるのです。

 そうです、神に不従順であり、神に敵対していたのは、イスラエルの人々だ けではありません。今はキリストを信じている異邦人キリスト者も同じであっ たのです。その彼らが神に愛されているとするならば、それはやはり神の憐れ みによると言わざるを得ません。イスラエルの人々の不従順によって、福音は ユダヤの世界を飛び出しました。そして、もともと聖書を知らず、メシアを待 望していたわけでもなかった彼らが、その恵みに与かることとなりました。し かし、それは彼らが優れていたからではありませんでした。そこにあるのはた だ神の憐れみだったのです。

 ですから、そのことを思うとき、彼らはかたくなに福音を拒否しているユダ ヤ人を裁くことはできないはずなのです。無知な者として軽蔑したり、かたく なな者として見下したりするのではなく、自分たちと同じように神の憐れみの もとにある者として理解しなくてはならないのです。彼は異邦人キリスト者に 言います。「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによ って不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなの です。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべ ての人を憐れむためだったのです」(31‐32節)。パウロは何よりもこの ことを彼らに知って欲しかったのです。

 私たちもまた、このことを知らなくてはなりません。ユダヤ人の世界をも異 邦人の世界をも閉じ込めている不従順。神への敵対と反抗。それは現代におい ても変りません。しかし、私たちはその不従順の世界をさらに包み込む神の憐 れみを見なくてはならないのです。すべての人を憐れもうとしておられる神の 憐れみに目を向けなくてはならないのであります。そして、このような人間の 不従順の歴史にもかかわらず、否、不従順の歴史であるからこそ、そこに神の 憐れみが明らかにされ、なお確実に完成へと向かう神の救いの計画があること を知らなくてはなりません。それこそが、メシアの十字架における死と復活と いう、まったくこの世の知恵と対立するような出来事によって明らかにされた、 神の秘められた計画なのであります。

●ああ深きかな!

 そして、ここまで記したパウロは「ああ!」と感嘆の声をあげます。彼はこ の手紙を口述筆記させているのですから、実際に「ああ!」と大声で叫んだに 違いありません。人は神の憐れみを知る時に、神を讚美せざるを得なくなるの です。神をほめたたえて礼拝せずにはおれなくなるのです。「ああ、神の富と 知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理 解し尽せよう」(33節)。

 「富」とはこれまで述べられてきた神の憐れみの圧倒的な豊かさのことであ ります。そして、神はその驚くべき知恵と知識をもって、その憐れみの富の内 にこの世界を、この歴史を、そして私たちを包み込んでいるのです。この知恵 と知識は、それを人間の浅い知恵と知識をもって計り知ることができません。 人はただこの知恵と知識に基づく神の救いの御業をほめたたえることができる だけなのです。

 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であ っただろうか。」神はもとより私たちの知恵に従って、私たちの浅い知識の容 れうるような仕方で事をなされる必要はありませんでした。「だれがまず主に 与えて、その報いを受けるであろうか。」神は私たちから受け取ったことに従 って事をなされたのでもありませんでした。神の憐れみがすべてに先行してそ こにあったのです。それゆえパウロはこう言って9章からの論述を締めくくり ます。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている のです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

 まことに神の憐れみに対する驚きから生まれた讚美には、自分の功績につい てのつまらぬ誇りなど、入る余地がありません。神の知恵と知識の深さへの驚 きから生まれた礼拝には、自分を賢い者として他者を見下すようなうぬぼれな ど、入る余地はないのです。言い換えるならば、このようなまことの讚美と礼 拝こそ、人間の劣等感の裏返しでしかないような惨めな誇りから人を解放する ものであると言えるでしょう。私たちもまた、パウロと同じように、驚きをも って神の憐れみの富と知恵と知識の深さに目を向け、共にこのお方をほめたた えたいと思うのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか!栄光 が神に永遠にありますように。アーメン」と。願わくは、私たちの人生そのも のが、この神の憐れみに対する驚きから生まれるまことの礼拝となりますよう に。

 
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