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「献身」

1999年5月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ12:1‐8

 私たちはこうして集まり礼拝する時に、必ず献金をいたします。週報の礼拝 プログラムの中にも「献金」の二文字がしっかり印刷されております。そして、 献金を捧げた後に、一人の人が会衆を代表して祈ります。多くの場合、「この 献金を私たちの献身のしるしとして捧げます」と祈られます。何年教会生活を していても、献金について「余ったお金、使わなくて残ったお金を捧げること 」としか考えていない人にとっては、「献身のしるし」という言葉はあまりピ ンと来ないかも知れません。あるいは教会生活をして間もない人が、「あれは いったい何を意味するのだろう」と考えることもあるかも知れません。しかし、 これはすこぶる重要な意味を持つ言葉であります。これは私たちがこうして集 まって捧げている礼拝が、本当の意味で「礼拝」になるかどうか、ということ にも関わっているのです。そこで、今日は与えられている聖書箇所から共に 「献身」ということについて考えたいと思うのです。

●神の憐れみによって勧める

 はじめに1節と2節をご覧下さい。ここで「自分の体を献げなさい」とパウ ロは言っています。献金にせよ犠牲にせよ、何かを献げるという行為そのもの は、あらゆる宗教の祭儀において見られる行為であります。当時のギリシア・ ローマ世界においても珍しいことではありませんでした。しかし、パウロはこ こで「自分を献げよ」と言うのです。神が欲しておられるのは、献げ物そのも のではありません。私たち自身なのです。だから自分自身を献げるのです。そ して、それは単に私たちの心を献げるということではありません。精神的な事 柄ではありません。語られている事柄は単に神への愛情でもなければ、宗教的 な熱心ささでもありません。ですからあえて自分の「体を」献げよと言われて いるのです。「体を献げる」ということは明らかに私たちの具体的な生活に関 わっております。それこそ「お金」が関わってくるような具体的な目に見える 生活に関係しているのです。そのことを抜きにした精神主義は、ここで聖書が 語っていることと何の関わりもありません。

 しかし、私たちはここでパウロが最初に「こういうわけで、兄弟たち、神の 憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っていることを見落としてはなり ません。語られている事柄が具体的であるからこそ、なおさらこの言葉が意味 を持ってまいります。「こういうわけで」という言葉は、これまで語られてき ました、イエス・キリストを通して与えられた神の救いの御業を指し示してい ます。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、すべて信じる者を義とし、 新しい命に生かし、神の栄光に与かる希望に生かし給う神の救いの業と、その 根底にある神の憐れみを指し示しているのです。ですからパウロは「神の憐れ みによって」勧めているのです。

 彼があえて「神の憐れみ」に言及しているのは、「あなたがたの体を献げよ 」という勧めの言葉が、この神の憐れみによって初めて成り立つからです。単 に「神の救いへの感謝の応答が献身である」ということではありません。献身 そのものが神の憐れみなくして成り立たないということなのです。私たちは普 段このことをあまり真剣に考えません。ですから、ともすると具体的な生活に 関わる私たちの献身は、それ自体神に当然受け入れられて然るべき良き行為で あるかのように思ってしまうのです。例えば、そのしるしである献金を考えて みたらよいでしょう。献金を献げる人の多くは当然神に受け入れられると思っ ているものです。もしかしたら、「こんなに献げているのだ」という誇りさえ 抱いているかも知れません。もしそれが神に受け入れられないなどと言われれ ば、カインのごとく(創世記4・5)激怒することでしょう。

 私たちはここでもう一度よく考えねばならないと思うのです。パウロはここ でただ「体を献げよ」と言っているのではなくて、「神に喜ばれる聖なる生け るいけにえとして献げよ」と言っているのです。この言葉の重みを受け止めな くてはなりません。私たちの体は聖なる生けるいけにえになりますか。体の関 わる具体的な生活が、私たちの一生が聖なる生けるいけにえになりますか。神 に喜ばれるいけにえになりますか。それは当然のことですか。当然のことでは ないでしょう。どう考えてみたって、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえなど にはならないではありませんか。

 それゆえ、私たちの体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ得る とするならば、それは神の憐れみと救いの御業によるしかないことは明らかな のです。神の憐れみと救いの御業によって初めて成り立つ私たちの具体的な献 身。それこそが、私たちのなすべき礼拝だ、と言われているのです。

 ですから、続いて「心を新たにして自分を変えていただきなさい」と語られ ております。変えてくださるのは神様です。人間は自分で自分を変えることは できません。この訳ですと、「心を新たにして」というのが、私たちの側のな すべきことであるかのように読めそうですが、この言葉はそのようなことを言 っているのではありません。ここで言われている「心の一新」は神の行為であ り、「自分を変えていただく」ということの内容なのです。そして、神による 「心(あるいは考え)の一新」は一つの方向へと向かいます。何が神の御心で あるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる ようになる、ということであります。これが「自分を変えていただく」という ことなのです。私たちはもともと、そのようなわきまえのない者であるからで す。人はもともと、何が神に喜ばれることか、ということには関心がないもの なのです。

 先日、それとなしにテレビのスイッチを入れましたら、その番組の中で、一 人の青年が「いったい自分が本当にしたいことは何なのだろう」と悩んでおり ました。そばでは物識顔の大人が「本当にしたいことを見つけなさい。そして それをやり遂げなさい」と諭しております。誰でも言いそうではありませんか。 どこにでも見られるような場面です。「自分の一番やりたいことをやりなさい 」――まさに、これがこの世の鋳型です。実にしばしば、その型どおりの人生 にこそ、真の幸福があるかのように語られるのです。そして、人は絶えずこの 型に押し込まれ形作られていくのです。

 しかし、自分のしたいことを追求し、自分の願望の実現、自己の実現を最高 位に位置づけるところに、本当に幸福があるのでしょうか。それが小さくは個 人において、大きくは国家においてなされていくところに、実際には、悲しみ と嘆き、絶望の叫びが絶えないではありませんか。それはこの世の歴史の証明 するところではありませんか。そのような生き方は、幸福を約束する清い水の 泉のように見えて、実は不幸の悪臭を放つ汚水が吹き出る排水口でしかないの です。そこから飲んでいたら滅びざるを得ないのです。

 そして、この自己実現の追求は、一見すると自己否定に見える全体主義体制 への献身の中にも起ります。そして、さらに言えば、教会において語られる奉 仕と献身においてさえも起るのです。自分を献げているように見えながら、実 は、中心にあるのが「本当に私がしたいことは何であるか」という意識でしか ない、ということが起ってくるのです。

 このような私たちでありますから、先にも申しましたように、自分の体を献 げるということは、神の憐れみと救いの御業によってしか成り立たないのであ ります。神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして自分の体を献げ得るという ことは、当然のことではありません。それは神の憐れみによってのみ可能とな るのです。ですから、私たちは自分に向けている目を、まず神の憐れみに向け なくてはなりません。神の御業に目を向けなくてはなりません。そして、神に よって心を新たにされ、絶えず変えていただかなくてはなりません。何が神の 御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわき まえて生きるという方向に、絶えず向けていただかなくてはならないのであり ます。

●慎み深い自己評価

 そして、そのようにただ神の憐れみによって自分の体を献げて生きる新しい 生活について、パウロはさらに具体的な勧めを書きはじめます。これが15章 まで続きます。今日は3節から8節までをお読みしましょう。

 ここでパウロは信仰者に「慎み深さ」を求めています。この「慎み深い評価 」という言葉は、醒めた理性的な状態であることを意味します。酔ってもいな ければ熱狂もしていない状態における正しい判断です。信仰のことに限りませ んが、一般的に「献身」という事が語られる時、そこには熱狂と陶酔が伴いや すいものです。何かに身を献げている自分そのものに陶酔してしまうのです。 そして、それが自己の過大評価に結び付いていきます。そのような過大評価は、 自分を誇り他を見下す傲慢を生み出すに至ります。その傲慢さは教会という信 仰の共同体においても起ります。そして、教会を破壊する威力を持つのです。 それゆえパウロは醒めた理性的な状態における自己評価を求めるのです。

 しかし、それにしても「信仰の度合いに応じて」とはどういうことでしょう か。パウロは、自分の信仰と他の人の信仰を比べて、その信仰の大きさをもと に判断することを求めているのでしょうか。「あの人の信仰は大きいけれど、 自分の信仰は小さい」とか、逆に「あの人と比べれば自分の信仰は大きい」と 言うように、他のことではなくて「信仰の度合い」を判断基準としなさい、と 言っているのでしょうか。

 どうもここで語られているのは、そのようなことではなさそうです。パウロ がここまで語ってきたことに、まったくそぐわないからです。実は、この「信 仰の度合い」という言葉は、それが唯一の訳ではありません。ここはむしろ 「信仰の量り」と訳すべきだと思います。信仰の量りがあれば、信仰によらざ る量りがあります。この世の量りです。そして、この世の量りは信仰の量りと は異なるのです。

 コリントの信徒への手紙(一)の12章には、様々な霊の賜物について語ら れております。そこには「奇跡を行う者」「病気をいやす賜物を持つ者」など が出てきます。恐らくローマの教会にも、そのような聖霊の賜物の現れが決し て珍しいものではなかったと思われます。そこで、例えば、ここで私たちの身 近に病気をいやす賜物を持つ者がいたと想像してみてください。あるいは、そ のような超自然的な力を持つ者ではなくても、人々に圧倒的な影響を与える能 力を持つ者がいたと考えてみてください。この世の量りに従って判断するなら ば、そのような人々は重んじられますし、他の目立たない人々は軽んじられる ことでしょう。そのような人々が殊更に持ち上げられるに違いありません。そ してさらに、もし自分がそのような者であるならばどうでしょうか。そこに自 己を過大評価し、自分を他者と比べて偉大な者であると見なす誘惑があること は、疑うべくもないでしょう。これが信仰によらざる量りです。

 しかし、信仰の量りは、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、 神に向かっている」(11・36)ことを知っています。パウロが自らの使徒 職を「わたしに与えられた恵み」と呼んでいることに注目してください。信仰 の量りは神の恵みを知っているのです。その信仰の量りによって自らを評価す るときに、そこで誇りもしない、卑下もしない、真に醒めた判断、慎み深い評 価をなし得るのです。そして、その慎み深い評価においてこそ、初めて自分の 体を神に献げて生きる新しい生活は成り立つのです。なぜなら、その新しい生 活の場は、パウロがここで真っ先に挙げているように、何よりもまずキリスト の体なる教会であるからです。私たちは、キリストに結ばれて一つの体を形づ くっており、お互いはその体の各部分であるからです。

 このように、すべては神の恵みによるのです。その恵みによって、それぞれ 異なった賜物を与えられているのです。それは私たちが共に一つの体を形づく るためです。であるならば、大切なことは、恵みによって与えられている務め において忠実に仕えることであります。ここでは預言する人、奉仕する人、勧 める人、施しをする人、指導する人、慈善を行う人などが挙げられています。 もちろん、体の部分はこれだけではありません。私たちにはまた、恵みにより 異なった賜物が与えられていることでしょう。それが何であれ、信仰の量りに 従って慎み深く自らを評価し、キリストの体の部分として忠実に仕える。まず そこにこそ私たちの具体的な毎日の生活の関わっている献身の生活があるので す。

 こうして私たちはまず、キリストによって現された神の御愛と憐れみのもと に身を置きます。私たちはまず、神の救いの御業に自らをゆだねるのです。そ して、そこから、私たちは自らを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして私 たちの体を献げます。この後献げます献金は、神の憐れみによって成り立つ私 たちの献身のしるしです。願わくは、こうして主日礼拝から主日礼拝へと向か う一週の生活が、そしてその積み重ねであります私たちの一生そのものが、神 の憐れみのもとにあって神への献げ物となり、私たちの捧げるべき礼拝となり ますように。

 
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