「聖霊に満たされて」
1999年5月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録2・1‐13
今年も、ペンテコステの主日を迎えました。「ペンテコステ」という言葉を 初めて聞かれた方もあるかも知れませんが、これは五十番目(あるいは五十日 目)を表すギリシア語です。その名の通り、これは過越祭から五十日後に祝わ れた、ユダヤの巡礼祭の一つです。今日お読みしました聖書箇所において「五 旬祭」と訳されているのがこれです。
ユダヤの巡礼祭の一つであるペンテコステをどうしてキリスト教会が祝うの でしょう。その理由となる事の次第は今日お読みしました使徒言行録2章に記 されております。およそ二千年前のある五旬祭に、一つの出来事が起ったので す。1節から4節までをご覧下さい。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風 が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そし て、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、 一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだ した」(使徒2・1‐4)。
この出来事は、教会において一般的に「聖霊降臨」と呼ばれております。で すから、私どもの週報には、もはや「五旬祭」とは書かれておりません。「聖 霊降臨祭」と書かれております。これは、同じ祭りでありましても、その意味 合いが明らかに変化したことを示しています。私たちが、聖霊降臨祭として毎 年この日を祝うことには、いったいどのような意味があるのか。今日は、改め てこのことをご一緒に考えてみたいと思うのです。
●神によって生み出された教会
まず、この箇所を読みまして誰もが心を留めますのは、そこに描かれている 事柄の神秘的な様相であろうと思います。いったい何が起ったのか。どのよう な現象であったのか。私たちには知る由もありません。また、出来事そのもの について詮索することには、あまり意味がないでしょう。大切なのは、聖書が このような神秘的な描写をもって伝えていることの内容そのものだからです。
何と書かれているでしょう。それは「突然」起ったと書かれております。つ まり、それは人間の意図したことではないことを意味します。そして、「激し い風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。しかし、それはそ の「ような」音なのであって、私たちの日常に経験する激しい風とは明らかに 異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。そ れは、単に方向を言っているのではありません。これも明らかにこの世界の中 からではなくて、神から来ていることを意味します。また「炎のような舌」が 現れたことが記されています。これも人間の経験の中にある「炎」でもなけれ ば「舌」でもありません。これらが一人一人の上にとどまって、一同は「聖霊 に満たされ」たと書かれています。こうして教会は誕生し、教会の歴史は始ま りました。
これらの描写全体は、人間が教会を生み出したのではないことを示していま す。主導権は神にありました。有能な者、強力な指導力を持つ人物の登場によ って、残された主イエスの弟子たちが一つにまとめられたということではあり ません。一つのイデオロギーのもとに団結したのでもなければ、共通の課題や 共通の敵に対して一つにまとまったのでもありません。既に見たように、ここ に書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのも のであります。この炎も風も、人間によって起こされる心理的な熱狂や情熱と は関係がありません。教会はそのようなものによって生み出されたのではない のです。
人はしばしばこの世の風と炎を求めます。この世から来るものに期待し、こ の世から来るものに未来を託します。ともすると教会も同じことをしているも のです。しかし、あの日そこに集まっていたのは、祈り待ち望む者たちであり ました。祈り待ち望む者であるということは、この世界からではなく、この世 界を越えたところから来られる方を待ち望む者であることを意味します。その お方によって教会の歴史は始まりました。私たちも、そのような教会の歴史の 中に生かされていることを忘れてはならないのです。
●新しい過越祭と五旬祭
では、神の御業として、いったい何がここに起っているのでしょうか。何が 始まったのでしょうか。さらにそのことをご一緒に考えてみたいと思います。
1節に「五旬祭の日が来て」と書かれています。しかし、ここは直訳すると 「五旬祭の日が満ちようとしていた」と書かれているのです。「日が満ちる」 という表現が意味しているのは、これが神の定められた時であり、そしてその 時に至って新しい時代が始ったということです。つまり、それは偶然に「五旬 祭」の日であったのではなく、神が新しい時代の開始として定められた日であ った、ということであります。では、いったいなぜ五旬祭の日でなくてはなら なかったのでしょうか。
先にも申しましたように、五旬祭は過越祭から数えて五十日後の祭りです。 この過越祭というのは、御存じの方も多いかと思いますが、旧約聖書において 出エジプトの出来事と結び付けられております。エジプトの奴隷であったイス ラエルの人々が、神によって救われ、モーセに率いられてエジプトを脱出した という、あの出来事を記念する祭りとされているのです。
では、その五十日後の五旬祭とは何でしょう。これは古くは「刈り入れの祭 り」(出エジプト23・16)と呼ばれていました。ですから、もともとは小 麦の収穫と関係していたのです。しかし、後にこの祭りは、シナイ山において モーセが律法を与えられた出来事と結び付けられるようになりました。つまり、 エジプトを出た人々が紅海を渡るという奇跡を経験し、荒れ野を導かれながら 旅をして、シナイに着くわけですが、そこにおける出来事を記念しているのが、 この五十日後の祭りであると考えられたわけです。
シナイに着いた時、神はモーセにこう言われました。「…あなたたちは見た、 わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたし のもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を 守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界 はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、 聖なる国民となる。…」(出エジプト19・3‐6)この契約において与えら れたのが、モーセの十戒であったわけです。要するに、神の救いと契約に基づ く神の民の誕生が、この過越祭と五旬祭の二つの祭りによって記念されている のです。
さて、新約聖書に目を移しますと、そこでは主イエスの受難と復活が、過越 祭と結び付けられております。ルカによる福音書では、いわゆる「最後の晩餐 」が過越祭において食される「過越の食事」であったことを告げています。つ まり、あの出エジプトの時に屠られた過越の小羊と、十字架において死んでい く主イエスとが重ね合わされているのです。出エジプトの時、小羊の血が塗ら れている家を裁きが過ぎ越して、エジプトの奴隷であった者が救われました。 同じように、キリストの犠牲によって、裁きは過ぎ越し、罪と死の奴隷であっ た者が救われ、解放されるのです。これはいわば新しい出エジプトなのです。
そして、かつてエジプトから解放された民が、律法に基づく神との契約に導 かれたように、主イエスの十字架の血によって新しい出エジプトを経た人々は、 新しい契約へと導かれます。晩餐において、こう言われた通りです。「この杯 は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ル カ22・20)。
この「新しい契約」という言葉はエレミヤ書の中に見出される言葉です。少 し長いのですが、その箇所を読んでみましょう。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、 と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプ トの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であっ たにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来る べき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わた しは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、 兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい 者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪 を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・31‐34)。
ここで重要な言葉は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそ れを記す」という言葉です。もはや、律法が文字として与えられるのではあり ません。神の御心は、人間の外にある律法の文字に人間が従うことによって実 現するのではないのです。律法の文字と戒めの言葉によって人は変わらないの です。人は外側からではなく、内側から変えられなくてはなりません。神の律 法は、外から与えられるのではなく、心の内に書き込まれねばなりません。そ れをなし得るのは神の霊だけです。聖霊の働きによって、初めてエレミヤに与 えられた約束は成就するのです。
その時が満ちたのが、あの五旬祭の日でありました。出エジプトを経た人々 に律法と契約が与えられて神の民が誕生した記念の日に、新しい出エジプトを 経た人々に聖霊が降って新しい神の民が誕生したのです。こうして、古い五旬 祭に、聖霊降臨の記念という新しい意味が与えられたのです。
●聖霊に満たされて
以上のことから、使徒言行録2章に書かれていることの中心は、神秘的な現 象そのものではないことが分かります。そうではなくて、律法が心に記される という出来事です。言い換えるならば、神によって与えられた聖霊による内的 な支配こそ、この場面の中心なのです。聖書はこれを「聖霊に満たされ」と表 現しています。罪に支配された人間の生来の願望や欲求に満たされているので はなくて、聖霊に満たされているのです。聖霊が心を捕え、支配しているので す。
確かに、ここに描かれている出来事には、教会の誕生という、歴史において ただ一度だけ起った決定的な出来事としての意味があります。それは繰り返さ れることではありません。しかし、「聖霊に満たされ」という言葉は、使徒言 行録において、繰り返し現れます。これは明らかに繰り返されるべき事柄とし て書かれているのです。いつの時代においても起らなくてはならないこととし て書かれているのです。もちろん、私たちもまた例外ではありません。
「満たされ」と受け身で書かれているように、主体は聖霊御自身です。人に 出来ることは、祈り求め、待ち望むことだけです。聖霊に満たされるのは、自 分自身の力と正しさをもって神の御心を成そうとする人ではなくて、自らの無 力さと罪深さを知って、ひたすら聖霊の支配を祈り待ち望む人であります。
さて、そのように聖霊に満たされた人々は、聖霊が語らせるままに、話し出 しました。ここでも私たちは、事の不思議さよりも、語られていたことの内容 に注目すべきであろうと思います。彼らはいったい何を語っていたのでしょう か。11節をご覧下さい。彼らは、「神の偉大な業」を語っていたのでありま す。これは明らかに、キリストにおいて現され成し遂げられた救いの御業を指 しています。すなわち、神の救いをほめたたえる讚美の言葉であると同時に、 神の救いを宣べ伝える宣教の言葉であります。肉による言葉は、ひたすら自分 の偉大な業、人間の偉大な業を指し示します。しかし、霊による言葉は、ひた すらキリストを指し示すものとなり、神の御業を指し示すものとなるのです。
そして、聖霊に満たされた人々は、神の偉大な業を語る言葉を「ほかの国々 の言葉」で語り出しました。これはもちろん、神による奇跡です。しかし、奇 跡において重要なのは奇跡そのものではなくて、奇跡の意味するところです。 この奇跡は、こうして誕生した教会においてやがて何が起るのかを指し示して いるのです。すなわち、この最初の聖霊降臨祭から始まって、やがて神の救い の御業が全世界に宣べ伝えられることを意味しているのです。多くの国々の言 葉で宣べ伝えられるようになるのです。そして、それはまた新しい契約の民に、 ユダヤ人だけが招かれているのではなく、世界中の人々が招かれていることを 意味しています。事実、この使徒言行録は、福音が異邦人世界へと飛び出して いく記録でもあるのです。いわば、ここに描かれていることは、教会の未来を 予表する、神によって為された一大デモンストレーションであったと言えるで しょう。
そして、あの時起った奇跡は、今、ここにも起っているのです。事実、私た ちは、この国において日本語を通して、神の偉大な救いの御業を聞いたのでし た。そして、私たちもまた、聖霊の支配し給う新しい契約の民へと招かれたの です。そして、私たちもまた、この同じ“霊”によって、この救いの御業を語 る者とされました。この事実こそ、まさに私たちがここにおいて今日もなお聖 霊降臨祭を祝っていることの根拠であり意味なのであります。