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「光の中を歩むなら」

1999年5月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 協力牧師 松原 茂
聖書 ヨハネの手紙一 1章5節~2章6節

 この手紙の主題は「わたしたちの交わり」(1・3)ということです。この 交わりは、この世的な「交わり」ではありません。それは、「御父と御子イエ ス・キリストとの交わり」のことです。わたしたち一人びとりがまことのぶど うの木である主イエス・キリストにつながれ、イエス・キリストにあって神と の交わりに入れられる。これが「わたしたちの交わり」なのです。このキリス トにあり、神にあるわたしたちの交わりこそが、「わたしたちの救いであり、 大いなる喜び」なのであります。ヨハネは、読者であるキリスト者の喜びが満 ちあふれるようにとこの手紙を書いています。

 ヨハネはこのことを「神は光である」というみ父の御性質から語ろうとして います。「神は光である」ということは「神は愛である」(4・8、1○)。 「神は霊である」(ヨハネ4・24)。という関係でみていくことも大切です。

 この神は光であり、愛であり、霊であるみ父を啓示された方として「いまだ かって神をみた者はいない、父のふところにいる独り子である神、この方が神 を示したのである」(ヨハネ1・18)と言っています。独り子である神イエ ス・キリストが神を啓示したもうたのです。 

 ヘブライ1・1‐2には、「神は、かって預言者たちによって、多くのかた ちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子に よってわたしたちに語られました」とあります。  

 わたしたちが互いの交わりを考えるときに、「神は光であり、神には闇が全 くない」という神の事実が、無視されますと、人類に恐ろしい堕落が起こるこ とでしょう。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを 恐れて、光の方に来ないからである」(ヨハネ3・2)。

 異端を語っている教師たちは「神との交わり」は霊のことであって、肉体は 関係ないこととして罪の中に堕ちた生活をしていました。彼らは神と交わって いると言っていますが、闇の中を歩いていました。彼らは自分たちが犯してい る罪を罪と認めなかったのです。罪の実在を否定しました。これはまったくの 偽りであります。

 「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むな ら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない」(1 ・6)。

 「闇の中を歩む」者は、神との交わりを避けます。悪を行う者は、光を憎み ます。光を恐れて、明るい方に来ようとしません。闇の中を歩んでいる人は、 自分の生活を自分自身から隠し、隣人から隠し、何よりも神から身を隠します。

 「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、 互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます、 」(1・7)。

 わたしたちが「光であり、光の中におられる」神との交わりを持つためには、 わたしたちも「光の中を歩む」ことが必然であります。歩むべきであります。 「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖 なる者である」(レビ19・2)。「光の中を歩む」ということ、わたしたち の歩みが「光」の中にあることが、わたしたちが神との交わりを持っていると いうことなのです。

 「光の中を歩む」とき、それは、わたしたちを神との交わりにあずからせ、 わたしたち互いの交わりを持つことになります。大変感謝すべきことでありま す。しかし、同時に、光はわたしたちの罪を明らかにいたします。これまた感 謝すべきことであります。光の中を歩むとき、「少しの暗いところも許さない 」神の聖き光の中において、自分の罪を指摘されるのであります。聖き光の前 で、わたしたち罪人はおののきます。この罪が、わたしたちを神との交わり、 わたしたち相互の交わりから、わたしたちを切り裂き、引き離してしまうので す。事実、「光」に照らされ、「光の中を歩いて」わたしたちは、本当の自分 の罪を知ることができるのです。その恐ろしさからわたしたちは光に顔を背け て、再び暗闇の中に、落ち着き場所を求めようとさえするのです。

 しかし、ヨハネは「御子の血によって、あらゆる罪から清められます」とい います。神がこのような罪人であるわたしたちを、神との交わりの中に保って くださるために、キリストの血を備えていてくださるのです。この尊いキリス トが流したもうた御血が、絶えずわたしたちの罪を赦し、わたしたちを罪から 清めて、わたしたちを神との交わりのうちに、また、わたしたちの交わりを保 ってくださるのです。  

 「イエス・キリストの血」によってのみ、わたしたちの光でありたもう神と の交わりがあり、わたしたちの交わりが保たれています。そして、わたしたち の救われし喜びが満ちあふれるのです。

●罪がないと言うなら

 「自分に罪がないというなら、それは自分を欺くことであって、真理はわた したちのうちにない」(1・8)。

 異端の教師たちは、自分たちには罪はない、霊の人は物質の世界から絶縁し て全く霊の世界に生きているので、不浄な物質によって汚されることはないと 主張します。したがって、キリストの贖罪の死や、キリストの血が罪をきよめ る力を有していることは、彼らにとって無意味であり、不必要だといいます。 そして、悲惨な迷いに陥ってしまっているのです。

 わたしたちの救いとは、光である神の啓示の光に照らされて、素直に自分の 罪を認め、罪人であるわたしたちが、光であり、いのちである神との交わりに 入れられ、神とキリストにある交わり、永遠の命の祝福を受けるという、わた したちの全人格にかかわる事柄です。

 では、わたしたち罪人が、どのようにして罪が赦され、罪から救われて、神 との交わりに入れられ、主にある兄弟姉妹との永遠の交わり、み父の祝福にあ ずかることができるのでしょうか。

●自分の罪を言い表すなら

 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、 あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1・9)。

 「キリスト教は罪人の宗教であります。キリスト者の生活は絶えざる悔い改 めと、信仰と感謝と贖い主に対する愛の生活とであります」(ヘンリー)。心 からの告白と認罪こそ、キリストによって罪から解放された者のとるべき態度 であります。そこに神との交わりと、光の中のある歩みが約束されています。 (レビ5・5、出エジプト34・6‐7、箴言28・13)。

 「罪を犯したことがないというなら、それは神を偽り者とすることであり、 神の言葉はわたしたちの内にはありません」(1・1○)。キリスト教グノー シス派の異端は「罪はない」といって、罪が実在することを否定しました。ま た、「御子イエスの血」による罪のあがないも否定しました。キリスト教グノ ーシス派の人たちにとって、宗教、救いは、最高の霊的知識、彼らの言うグノ ーシスに達する認識にかかわる問題に過ぎません。彼らにとっての聖書の教理 は、ひとつのフィクションに過ぎなかったのです。

 偽りの教師の誤りは、個人的罪を否定したことであります。自分自身が実際 に罪を犯したことを否定するなら、神との交わりは断たれます。「罪を犯して はいない」と言うことは、単に偽りを言ったり、欺いたりすることだけでなく、 「神を偽りとする」ことであります。そして、「神のみ言葉はわたしたちのう ちにありません」。なぜなら、聖書は人は皆罪を犯していると宣言しているか らであります(列上8・46、コヘレト7・2○、イザヤ53・6、ロマ3・ 1○‐18)。神との交わりは、光の中を歩み、自分の罪を告白し、赦しと清 めを受け続けることによって継続されます。神が光でいらっしゃるから、わた したちも告白しない罪がないようにし、光の中を歩み続けるべきであります。

●ただ罪を犯しても

 「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないよう になるためです。ただ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方イエス・ キリストがおられます」(2・1)。「もう罪を犯してはなりません」(ヨハ ネ5・14、8・11)。

 ヨハネは、わたしたちが罪を犯さないために「これらのこと」を語っていま す。それにもかかわらず、わたしたちは罪を犯します。ヨハネは「たとえ罪を 犯しても御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます」と言 います。この真実の意味をわたしたちが悟るならば、罪を犯すことがどのよう に恐ろしい結果を招くことになるかを知り、罪との戦いをないがしろにしない でしょう。また罪を悔い改め、告白するでしょう。正しい方イエス・キリスト とは、罪のないイエス・キリストです。「キリストも、罪のためにただ一度苦 しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あ なた方を神のもとへ導くためです」(Ⅰペトロ3・18)。イエス・キリスト はご自身罪のない方でありましたが、わたしたち罪人に代わって、罪を処置す るために、ひとたび死なれました。「罪と何のかかわりもない方を、神はわた したちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得る ことができたのです」(Ⅰコリント5・21)。

 「この方こそ、わたしたちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界 の罪を償ういけにえです」(2・2)。

 神はただ一人の方イエス・キリストにおいて、全人類の救済を果たされたの です。それ以外の供え物は全く無用となりました。このことは、福音宣教の要 です。

 キリストは十字架において、神の義を全うされました。「神はこのキリスト を立て、その血によって信じる者ために罪を償う供え物となさいました。それ は、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ロマ 3・25)。「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示された のは、ご自身が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義とな さるためです」(26)。神はキリストを通して、わたしたちを交わりに受け 入れてくださいます。しかし、わたしたちは日々に罪を犯しします。しかし、 キリストがご自身の「あがない」を根拠として、わたしたちの弁護に立ってく ださいます。わたしたちの隠れ家はキリストであります。(田中剛二)。

●神を知っていること

 「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが 分かります」(2・3)。

 神を正しく認識していることを実証するものは、神の掟を守っているという 事実であります。ヨハネの時代の教会には、暗闇の中を歩いて、勝手気儘に生 活しながら、神との交わりを持っているという者がおりました。それに対して、 本当に神との交わりがあるならば、神の掟を守る生活、キリストに倣う生活を すると主張しているのです。(Ⅰヨハネ3・23、ヨハネ15・12)。

 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その 人の内には真理はありません」(2・4)。  「こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定 しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格 者です」(テトス1・16)。

 わたしたちは神を知っていながら、なお完全に神の掟を守りえず、日々に罪 を犯すのですが、このわたしたちのためにキリストが「あがないの供え物」と なってくださり、「弁護者」として立っていてくださることを忘れてはなりま せん。

 「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人のうちには神の愛が実現し ています」(2・5)。

 「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなけ ればなりません」(2・6)。

 イエス・キリストの歩みは、謙遜と自己犠牲と愛の歩みでした(マタイ11 ・29、フィリピ2・5‐8他)。

 わたくしたちは、グノーシス主義者のように闇の中を歩くのでなく、キリス トが歩まれたように、光の中を歩む者でなければなりません。

 
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