「主にある日常生活」

                         ローマ12:9‐21

●愛には偽りがあってはなりません

 今日お読みしました箇所は、「愛には偽りがあってはなりません」という言
葉で始まります。ここには具体的なキリスト者の生活についての勧めが、他者
との関わりという観点から述べられております。

 「愛には偽りがあってはなりません。」美しい言葉です。そして、これを否
定する人はいないでしょう。しかし、偽りのない愛とはいったい何であるか、
ということになりますと、その理解は様々であろうと思います。

 パウロが「愛する」という言葉をどのように理解していたかは、コリントの
信徒への手紙(一)13章を通して知ることができるでしょう。パウロがこの
ローマに宛てた手紙をコリントから書き送っていることを考えましても、その
箇所を併せて読んでおくことは重要であろうと思われます。しばしば結婚式で
も読まれますので、御存じの方も多いことでしょう。そこにはこのように書か
れています。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ば
ず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐え
る」(1コリント13・4‐7)。

 これを読みますと、聖書が「愛」と呼んでいるものは、いわゆる「好きにな
る」という感情的な事柄と同一ではない、という事が分かります。これが分か
らずに、偽りのない愛とは、単に自分の気持に正直であることだ、と考えてい
る人は、「愛には偽りがあってはなりません」という聖書の言葉をも誤解する
ことになります。それこそ「好きでもないのに忍耐しているなんて、それこそ
偽りだ!」ということにさえなるからです。しかし、パウロは、「愛には偽り
があってはなりません」という言葉に続けて、「悪を憎み、善から離れず」と
言っています。感情にのみ正直な人は、そうはなりません。「嫌いなものを憎
み、好きなものから離れず」となるからです。ですので、これによっても、聖
書がここで言っているのは、「好きだ」という感情の話ではないことが分かる
のです。

 そもそも、嫌いなものを憎むことは簡単です。そんなことは赤ん坊だってで
きます。真に困難なことは、悪そのものを憎むことなのです。多くの場合、憎
んでいるのは悪ではなくて、悪人であったり、悪の結果としての悲惨な状況で
あったり、悪のもたらす苦しみであったりするものです。善から離れずという
ことについても同じです。私たちは善人は大好きです。善人からは離れません。

しかし、善そのものとは、この章の2節によるならば、それは神の御心に他な
りません。ですから、これは神の願っていることを求めて、そこから離れない
ことを意味するのです。

 真に悪そのものを憎み、悪が取り除かれることを願い、そこに神の御心が成
ることを求め続けていくには、忍耐が必要とされます。真の寛容さ、情け深さ
が必要とされます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐
えるということが必要とされるのです。このような要素を欠いているならば、
どれほど心が熱していても、どれほど正直な心情から出る優しさがあろうとも、

それを聖書は「愛」と呼ばないのです。


●霊に燃えて主に仕えよ

 さて、そのことを理解した上で、パウロの具体的な勧めに耳を傾けましょう。

パウロは言います。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を
優れた者と思いなさい」(10節)。

 ここでパウロは、努力して家族の関係を作り上げ、兄弟になりなさい、と言
っているのではありません。「兄弟愛」という言葉は、既にそこに一つの家族
が存在することを前提としているのです。私たちは、キリストによって、神と
の平和を与えられ、キリストの父なる神を私たちの父と仰ぐ家族とされました。

兄弟愛をもって愛し合うということは、その事実を大切にすることに他なりま
せん。私たちが好もうと好まざると、そこに神の善なる御心があるのです。大
切なことは、善から離れないことです。

 そこで求められているのは、ただ単に互いに親しくなり、心を近づけるよう
努力することではありません。この世においては、互いに心を知り尽すことが、

理想的な関係として追求されることがあります。自分の心のうちを知ってもら
い、他人の心のうちをも知らなければ安心できない人も、少なくありません。
ですので、ともするとそれが兄弟愛だと思ってしまうものです。しかし、兄弟
愛ということにおいて大切なことは「互いを優れた者と思い、尊敬することだ
」とパウロは言うのです。これを聞いて意外な印象を受ける人もいるでしょう。

しかし、確かに考えて見ますならば、節度のない親しさよりも、距離があるよ
うに見えながらも互いに尊敬し合い、互いを重んじて生きることの方が、共に
生きる関係においては大切であるに違いありません。

 そして、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、
苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(11‐12節)と勧められています。

心が燃えていることと「霊に燃えて」いることとは異なります。様々な心理的
要因によって心は燃えるものです。人々の称賛によって心は燃えます。張り切
っている仲間と共にいることによって心は燃えます。敵に対して団結すること
によって心は燃えます。しかし、「霊に燃える」という表現は、これが聖霊に
よることを意味します。その情熱が神から来ているということです。心が燃え
ているだけならば、やがてそれは消えていくでしょう。状況が変われば、熱心
さは失われます。称賛されなければ、倦み疲れます。怠惰になります。それは
心の情熱に仕えていたのであって、主に仕えていたのではないからです。

 それゆえ、パウロは「主に仕えなさい」と言います。愛するということと、
主に仕えるということを切り放してはなりません。13節にはさらに具体的な
勧めの言葉が来ます。聖なる者たちの貧しさを助け、旅人をもてなすことです。

聖なる者たちの貧しさを助けるということの中には、例えばパウロがしていた
ような、貧しい他の教会を助けるための募金なども含まれていたことでしょう。

いずれにせよ、ここには具体的な愛の業が語られております。しかし、大切な
ことは、この13節だけが独立して語られているのではないということです。
文法的には9節から13節までは区切れない一文なのです。愛することと、主
に仕えることを切り放してはならないのです。

 これを切り放さない限り、希望は失われません。心が燃えている人の希望は
失われるかも知れませんが、霊に燃えている人の希望は失われません。それが
神から来ているからです。そのような人は、希望をもって喜び、苦難を耐え忍
ぶことができます。その希望と忍耐は人からではなく、神から来るのですから、

たゆまざる祈りにおいて初めて可能となるのです。


●善をもって悪に勝ちなさい

 さらに14節以下をお読みしましょう。ここには様々な勧めの言葉が混在し
ておりますが、中心にあるのは17節の「だれに対しても悪に悪を返さず、す
べての人の前で善を行うように心がけなさい」という言葉であろうと思います。

そして、ここに書かれている事柄全体を見渡します時に、やはりこれが9節冒
頭の「愛には偽りがあってはなりません」という言葉と関連していることが分
かります。

 パウロはまず「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言い
ます。これは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5
・44)と言われた主の言葉を思い起こさせます。13章で支配者への従順を
語っているところを見ますと、この時点でパウロはまだ国家権力による迫害と
いうものを念頭には置いていないようです。しかし、使徒言行録に見ますよう
に、パウロ自身、同胞であるユダヤ人から迫害され、またこの手紙を書くしば
らく前には、エフェソにおいて異邦人からの迫害を経験しておりました。です
ので、そのようなパウロの経験は、決してローマの信徒たちにとって無縁なこ
とではないと考えているのでしょう。

 いずれにせよ、それが迫害であれ、その他の形を取った悪であれ、悪に悪を
もって報いることは悪そのものに勝つことにはならないと、パウロはここで語
っているのであります。あるいは悪人には勝てるかも知れないけれど、悪その
ものには敗北することになるのです。そして、悪そのものに勝てないのなら、
それがどれほど「正義」の名によって為されたことであれ、あるいは「愛」の
名によって為されたことであれ、9節に語られている偽りのない愛とは無縁で
あるということになるのです。

 ですから、パウロは「愛する人たち」と呼びかけて、「自分で復讐せず、神
の怒りに任せなさい」(19節)と勧めます。私たちの怒りがどれほど正しく
ても、どれほど正当な理由を伴うものであっても、真に正しい神の聖なる怒り
とは一つになれないのです。聖なる怒りと裁きをもって悪そのものに報い、悪
そのものに打ち勝たれるのは神以外にはおられません。私たちの罪深い怒りが
勝利した時、実はその時点で悪そのものには敗北していることになるのです。
だから神に任せなさい、と言うのです。怒りは神に任せて、私たちの為すべき
ことは愛することだ、と言うのです。「悪に負けることなく、善をもって悪に
勝ちなさい」と聖書は語るのです。


●神の愛が私たちの愛となるように

 しかし、ここまで読みまして、私たちは誰でもこの言葉に恐れおののかざる
を得ないでしょう。いったいなんと恐るべきことを聖書は語っていることでし
ょう。「愛には偽りがあってはなりません。」最初この言葉を読んだ時と、2
1節まで読み進んでもう一度振り返った時と、なんとこの言葉の響きの違うこ
とでしょう。これは美しい言葉でも何でもありません。私たちが「そうそう、
その通りだ」などと軽々しく言える言葉ではありません。私たちを追い詰める
恐ろしい言葉ではありませんか。

 そのことに気づかされていく時、私たちには二通りの反応が起ってくるだろ
うと思います。一つは自分自身を責める思いです。「どう考えても、このよう
な愛は私にはない。また偽りのない愛など持てそうにない。私が愛と呼んでき
たものは、偽り以外の何ものでもないではないか!」

 あるいは、自分を責めたくない人は、他人を責めることでしょう。教会の外
に身をおいて、教会を批判して、「教会には愛がない。本当の愛などありはし
ない。あの人の愛も偽りだ。この人の愛も偽りだ」と言い始めます。あるいは、

矛先はパウロに、聖書に向けられるかも知れません。「そもそも、ここに書か
れている言葉はきれい事に過ぎないではないか」と。このように、自分を責め
るか、他者を責めて自分を守るかのいずれかになってしまうのです。

 しかし、ここで私たちはパウロと同じ方向を見ながら、この御言葉を聞かな
くてはならないと思うのです。パウロは「愛には偽りがあってはなりません」
と言いました。この「愛(アガペー)」という言葉は、実は、この手紙のここ
に至るまで、人間の愛については用いられていないのです。いつでも神の愛な
のです。キリストにおいて現された神の愛なのです。その神の愛にパウロは目
を向けつつ、これを語っているのです。

 神は私たちの悪を憎まれました。そして、私たち自身を愛してくださいまし
た。罪と悪を憎みつつ、罪人である私たちを愛するゆえに、その愛は限りない
忍耐と苦悩を伴う愛でありました。神は罪そのものを憎まれるゆえに、私たち
を裁いて滅ぼされるのではなくて、罪そのものを処断され、そして私たちを赦
してくださいました。キリストは「敵を愛せよ」と言われました。しかし、ま
ず敵対している私たちを愛してくださったのは、神御自身でありました。その
愛によって十字架は立てられたのです。

 あの十字架に私たちは何を見ますか。私たちはそこに罪に対する神の限りな
い憎しみを見るのです。しかし、同時に、私たちに対する神の限りない愛と憐
れみを見るのであります。ここに書かれている言葉はきれい事でも何でもあり
ません。キリスト御自身が肉を裂き、血を流して、それこそ罪そのものとの血
みどろの戦いをもって示してくださった愛なのです。神は罪人に勝ったのでは
なく、罪に勝って、私たちを御自分のものとして獲得してくださったのでした。



 生まれながらの私たちのうちに、この偽りのない愛がないことを知ることは
大切です。自分のうちにないことを知らない人は求めないからです。私たちが
キリストに目を向ける時、その神の愛(アガペー)が、私たちの愛となるよう
にとの祈りが生まれます。その祈りによって初めてキリスト者の日常生活は正
しく方向付けられるのです。

 そして、神は私たちの祈りに答えてくださることでしょう。パウロはコリン
トに宛た手紙に次のように記しています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除か
れて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿
に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリン
ト3・18)。実に、偽りのない愛は、聖霊の結ぶ実りに他ならないのです。