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「天国で一番偉い者」

1999年6月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ18:1‐5

 今日は「子供の日」です。10時半からの礼拝においては、子供たちと共に 時を過ごします。主は、しばしば子供を呼び寄せ、人々に幼子の姿を示しなが ら語られました。今日お読みしました箇所もその一つです。主は言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天 の国に入ることはできない。」主は、私たちと共にある幼子たちの姿を通して、 同じことを私たちに語っておられることでしょう。私たちはこの言葉を、他な らぬ私たちへの語りかけとして受け止めたいと思うのです。

●だれがいちばん偉いのでしょうか

 まず、この主イエスの言葉がどのような場面で語られたのかを見ておきまし ょう。1節にはこのように書かれています。「その時、弟子たちがイエスのと ころに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言っ た」(1節)。

 これにたいへん良く似た物語がマルコによる福音書9章33節以下に出てき ます。そこにはこう書かれています。「一行はカファルナウムに来た。家に着 いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねに なった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた からである」(マルコ9・33‐34)。マルコによる福音書でも、この後に イエス様が一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせた、という話が続い ております。

 良く似ていますけれども、マタイによる福音書では「天の国で」という言葉 が入っています。彼らは、この地上における偉さを問題にしているのではあり ません。天の国における偉大さの比較の話です。そこでは、この世において評 価されることと、神の国において評価されるべきこととは異なる、ということ が前提とされています。ある意味では、たいへん敬虔な問いが発せられている と見ることができるでしょう。

 福音書には主イエスと弟子たちの物語が記されておりますが、そこには同時 に後の教会の姿が重ね合わされております。そこにいるのは主イエスの弟子た ちであると同時に後のキリスト者の姿でもあります。マタイによる福音書では、 後の時代の教会の姿がより色濃く現れていると言えるでしょう。そこには敬虔 な人々がいるのです。この世において偉大な者とされるよりも、天の国で偉大 な者とされることを求めている人、人間によって評価されることよりも、神に よって評価されることを求めている人々がいるのです。立派ではありませんか。 「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という問いは、決し て不真面目な問いではないのです。

 にもかかわらず、イエス様はその問いを喜ばれませんでした。そこで一人の 子供を呼び寄せて、こう言われるのです。「はっきり言っておく。心を入れ替 えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」なん と、心を入れ替えなければ、天の国で偉大な者とされないどころか、天の国に 入ることさえできないと言われるのです。では、心を入れ替えて子供のように なるとは、いったいどのようなことを意味しているのでしょうか。

●子供のようにならなければ

 私たちはこの主の言葉に良く似た言葉を、ヨハネによる福音書の中に見いだ すことができます。ヨハネ3章に記されている、主とニコデモのやりとりの中 で、次のように語られております。「はっきり言っておく。人は、新たに生ま れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)。「はっきり言 っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはで きない」(ヨハネ3・5)。ヨハネによる福音書では、神の国に入るというこ とが、新たに生まれることと結び付けられており、それがさらに洗礼と結び付 けられております。キリスト者であることの本質を、人が洗礼を通して新しく 生まれるところに見ていると言えるでしょう。

 それに対して、今日お読みしました箇所では、「キリスト者になる・キリス ト者であるということは、子供のようになることなのだ」と理解されておりま す。ここで「子供」と書かれているのは「幼子」のことです。マタイはこの語 を、東方の学者たちに見出された幼子イエスに用いています。ここで言われて いるのは、そのような幼子のようになることです。そこで主は「心を入れ替え る」ことを求められるのです。「心を入れ替えて子供のようにならなければ… 」と言われるのです。これはもともと「方向を変える」という意味の言葉です。 方向を変えることが求められているのは、人がしばしば異なった方向へと向か っているからに違いありません。私たちが考える「キリスト者らしさ」や「敬 虔なキリスト者像」というものが、往々にして「幼子のようになること」とは 正反対の方向へと向かっているということなのでしょう。

 しかし、私たちはここで単純に「ああ、幼子のような清らかな心が欠ている のだな」と考えてはなりません。主イエスが、そのようなありきたりのことを 言っているとは思われないからです。主の言葉はいつでも、私たちが考える以 上に過激なのです。

 私たちは現代人の感覚をもってここを読んではなりません。私たちの社会に おいては、子供の人権が一応守られております。いや、それどころか、すべて が子供を中心に回っているように見受けられる家庭も少なくありません。しか し、主の生きられた社会においては状況が違います。子供が現代のように重ん じられていたわけではありません。古代社会において子供は往々にして親の所 有物と見なされておりました。人間の数が数えられる時に、子供と女性はいつ でも数に入ることはありませんでした。

 ですから、主がそのような幼子を呼び寄せて「子供のようにならなければ、 決して天の国に入ることはできない」と言われたということは、当時の人にと っては驚くべきことだったのです。しかも、ユダヤ人における親子の関係を考 えますと、この発言がいかにラディカルであるかがなお一層明らかになってき ます。ユダヤ人の家庭においては、決して子供が親の模範になるということは あり得ませんでした。いつでも親が子供に対する模範であるのです。子供に対 して、神の支配への従順を示すのは親の義務でした。いわば、「敬虔な大人の ようにならなければ、子供は決して天の国に入ることはできない」ということ だったのです。十戒の中の「あなたの父母を敬え」という戒めは、そのような 文脈において捉えられておりました。

 しかし、このような通念を、主はひっくり返してしまわれたのです。「子供 のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」神の国に入る のは、敬虔な大人ではなくて、むしろこの幼子のような者なのだ、と言われる のです。

●自分を低くすること

 では、主は何を言わんとしておられるのでしょう。主は続けてこう言われま す。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いの だ」(4節)。そうしますと、子供について語られているのは、その「純真さ 」ではなくて、その「低さ」であるということが分かります。幼子という存在 は、偉大さの対極に位置します。先にも申しましたように、幼子は軽んじられ ておりました。低く見られておりました。取るに足りない小さき者と見られて おりました。そして、幼子は事実そのような者として生きています。低い者と して生きていますから、低く見なされても文句を言いません。軽んじられても 文句を言いません。偉大な者と見なされることを欲しません。「だれがいちば ん偉いのでしょうか」という問いに、幼子は無縁です。

 幼い子供にとっては、偉くなること、偉大な者と見なされること、他を支配 する者となることよりも大事なことがあります。親が共にいることです。信頼 できる者が共にいることです。低き者は同時に無力な者であるからです。子供 は、親や信頼できる他者がいなければ生きていけないことを本能的に知ってい ます。それゆえ、幼子は自分が重んじられようが軽んじられようが、それとは 無関係に無心で親を求めます。親の手に自らをゆだねます。子供にとってはそ れで十分なのです。

 弟子たちの問いに欠けていたのは、その一点でありました。彼らは先にも申 しましたように、何も現世的な支配権や利益を求めているわけではありません。 現世的な評価や称賛を求めているわけではありません。彼らが求めているのは、 天の国に関わる事柄です。敬虔な求めです。しかし、彼らは、天の国において 自分たちが何を得るか、どのようになるのか、ということにしか関心がありま せんでした。問題はそこにありました。彼らの関心の中心は神の国において得 る何かであって、神の国そのものではなく、神の国の王なるお方ではなかった のです。誰が共にいてくださり、誰が治めてくださるのか、ということに思い が向いていなかったということなのです。なぜでしょうか。幼子のように低く ないからです。

 このことを良く理解しませんと、4節の主の言葉を誤解することになります。 これは、「天の国においていちばん偉い者となる方法」ではありません。その ようにしか受け止めない人は、天の国において偉い者となるために一生懸命 「自分を低く」することになるでしょう。「こうしている自分が本当はいちば ん偉いのだ」と心の中で自分に言い聞かせながら、自分を低くするのです。 「たとえ人々はそう見なしてくれなくても、神はそう見てくださる。この世の 価値基準と神の天の国の価値基準は違うのだ。こうして自分を低くしている私 を、神は天の国において偉い者として見てくださる。」そう心の中でつぶやき ながら自分を低くするようになります。それは外見的には敬虔なキリスト者の 在り方に見えるかも知れません。しかし、そうすることにより、主が言われる 「子供のようになる」ということからは完全にはずれてしまっているのです。

 私たちは、主イエスと共に立っている幼子に眼を向けなくてはなりません。 そこには「いったいだれが偉いのか」という問いとは無関係な幼子がいます。 そこには、何ものをも自分の功績に対する報いとして主張したり要求したりし ない幼子が立っているのです。そこには、親がいれば十分であり、満足である 幼子がいるのです。もし私たちが、ただ神の憐れみのもとにあり神の御支配の もとにあることに満足できなければ、神の国そのものに満足できなければ、そ して、自分の為していることに対する当然の報いを人や神に要求したいという 思いが少しでもあるならば、幼子のような者であるとは言えないだろうと思う のです。私たちは、そこで心を入れ替え、方向を変えなくてはなりません。

●子供を受け入れること

 そして、さらに主イエスはその子供を前にして、「わたしの名のためにこの ような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(5節) と言われました。

 「子供を受け入れる」とはどういうことでしょう。それが受け入れ易い者を 受け入れることであるならば、主がわざわざ語られる必要もないでしょう。で あるなら、これはむしろ受け入れ難い者を受け入れるということであるに違い ありません。幼子はしばしばやっかいな存在です。手がかかります。迷惑をか けます。重荷ともなります。そのような幼子を受け入れることです。

 どうも主はここでただ目の前の一人の子供の話をしているのではなさそうで す。というのも、その後に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」(6節) という話が続いているからです。主は、この「子供」に「他のキリスト者」を 重ね合わせているのです。しかも、自分に対して良くしてくれる他者ではなく て、自分にとってやっかいな人を指しているのです。ですので、15節には 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉が出てきます。さらには、 21節で、ペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきで しょうか」と問うております。話はそのような方向へと向かっているのです。

 天国の「『偉い人』選考会」に自分の名前をノミネートする人は、やっかい な小さな子供を受け入れることができません。やっかいな他の「小さな者」を 受け入れることができません。自分を低くして幼子のようになる者だけが、他 の幼子を受け入れることができます。自分が神の憐れみのもとにある小さな存 在であることを知る者だけが、他者を神の憐れみのもとにある者として見るこ とができるのです。

 そして、主は、御名のために一人の子供を受け入れることが、主イエスを受 け入れることに他ならないのだ、と言うのです。なぜなら、主御自身が低くな られて、十字架の死に至るまで低くなられて、その子供の傍らに立たれたから です。受け入れ難いその人の傍らに立たれたからです。その人を退けることは、 主イエスを退けることに他なりません。後のパウロという人は、このことを次 のように表現しました。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったの です」(1コリント8・11)。

 このように、心を入れ替えて子供のようになるということは、具体的に信仰 の兄弟姉妹と共にどのように生きるのかということにまで関わっているのであ り、さらには私たちとキリストとの関係にまで関わっているのであります。

 
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