「喜びの歌」
1999年6月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編147編
今日与えられている聖書の言葉は、詩編147編です。詩編147編は「ハ レルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わります。このような詩編が、146編か ら150編にまとまって現れる他、詩編の中にいくつかありまして「ハレルヤ 詩編」などと呼ばれています。「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ」という 意味です。「ハレルヤ」に始まり「ハレルヤ」に終わる――私たちの生活もこ の詩編のようにありたいものです。今日、私たちはこうして主をほめたたえて いる詩編を共に味わいながら読み、いにしえの聖徒たちの心を私たちの心とし ながら、彼らと共に主ほほめたたえたいと思うのです。
●打ち砕かれた心を癒される主
それでは、まず1節から6節までをお読みしましょう。
ハレルヤ。
わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく
神への賛美はいかに美しく快いことか。
主はエルサレムを再建し
イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
打ち砕かれた心の人々を癒し
その傷を包んでくださる。
主は星に数を定め
それぞれに呼び名をお与えになる。
わたしたちの主は大いなる方、御力は強く
英知の御業は数知れない。
主は貧しい人々を励まし
逆らう者を地に倒される。(1‐6節)
「ハレルヤ」という叫びに始まりますこの詩編には、神をほめたたえる人々 の喜びが満ち溢れています。神への感謝が満ち溢れています。
しかし、ここに溢れている喜びの背景には、人々の深い悲しみの歴史がある ことを見落としてはなりません。この詩編を丁寧に読みますとき、彼らが経験 してきた苦悩が浮き上がってまいります。「エルサレムの再建」という言葉は、 かつて彼らの都が破壊され、廃虚となった事実を示しています。「集めてくだ さる」という言葉は、武力によって散らされた人々、異国の地に追いやられた 人々がいたことを示します。そこには心が打ち砕かれてしまった人々がいたの です。心に深い傷を負った人々がいたのです。それは歴史的にはバビロン捕囚 と呼ばれている出来事です。彼らは国家の破滅を経験した人々です。
その苦しみの夜に、夜明けがおとずれたのでした。何もかも崩れ去り、失わ れてしまって、もう絶望しか残っていないかのように見えたところに、朝日が 昇ったのです。悲しみは悲しみのままで終わりませんでした。人々は再びエル サレムに帰ることが許され、神殿も建て直され、城壁も再び築かれたのであり ます。
しかし、エルサレムを再建したのは単に人の力ではないことを、彼らは知っ ていました。砕かれた心を癒し、傷を癒したのは「時」ではありませんでした。 彼らはそこに生ける神の御業を見たのです。この詩編の讚美はそこから溢れて きているのです。
傷ついた過去を傷ついたままで終わらせなかった方、それは力ある神であり、 同時に憐れみに満ちた恵みの神でありました。力ある神であると同時に恵みの 神であるゆえに、それは救いの神でした。そのどちらか一方ではありません。 それゆえ、この詩編は力ある神が同時に恵みの神であることを歌い上げている のです。
その神は天と地を造られた御方です。詩人は満天の星々を見上げて神の御業 を思い巡らします。そして、その星々の世界の秩序を見て思うのです。「神は これらすべてを造られたのだ。そして、神はそれぞれに呼び名を与えておられ るのだ」と。数えきれないほどの星も、皆、神の心のうちに覚えられている、 ということでしょう。であるならば、この世界の多くの人々の中の一人であっ ても、その人が神から忘れられていることはありません。数に入らないような 貧しい小さな一人であっても、神から忘れられていることはありません。主は その小さな一人を励まし給うのです。一方、星空を治め給う神の力と英知の御 業は、神の秩序に逆らうこの世の力がいかに強くとも、それを必ず打ち倒され ることを示しているのです。
このように、力強く恵み深い神は、廃虚を心にかけてくださって再建してく ださる御方です。人間の罪のゆえに崩れ去ったものを、見捨てずに再建してく ださる御方です。そして、この神こそ、打ち砕かれた心を癒してくださる神で あります。人間の罪、自分たちの罪のゆえに深い傷を負ってしまった心を、神 は包んで癒してくださるのです。人々は、苦難の歴史を通して、その神の力と 恵みとを知ったのでした。それゆえ、人々はその喜びを歌います。「主をほめ たたえよ!」と叫びます。私たちもまた、彼らの声に合わせて主をほめたたえ たいと思うのです。
●主が望まれるのは主を畏れる人
続いて、7節以下をお読みしましょう。
感謝の献げ物をささげて主に歌え。
竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。
主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え
山々に草を芽生えさせられる。
獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば
食べ物をお与えになる。
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人
主の慈しみを待ち望む人。(7‐11節)
さらに人々は、感謝の歌を歌います。そこに響いているのは収穫感謝の歌声 です。収穫を感謝するのは、収穫をもたらされたのが主に他ならないことを知 っているからです。自分の力で生きているのではなく、大いなるお方によって 生かされていることを知る者は、生かされていることへの感謝を捧げるのです。
感謝の歌を歌いながら、詩人はこの自然界を見渡します。山々の草木に、神 の慈しみを見出します。神が天を雲で覆い、雨を降らせて、草を芽生えさせ生 かしておられるのです。それら小さな草木の一つひとつでさえ、神から忘れら れていることはありません。また、詩人は野の獣や烏を思います。彼らもまた 神によって養われ、生かされています。野の獣さえも彼らも神の心から洩れて いません。
この詩編の言葉は、主イエスの言葉を思い起こさせることでしょう。「烏の ことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。 だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値がある ことか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずか でも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、 ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。 働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、 この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に 投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがた にはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」(ルカ12・24‐28)。
主によって生かされていることへの感謝がない人は、ただこの世の力をもっ て自らを守ろうといたします。軍馬の勇ましさや、人間の能力こそが、自分を 守るために不可欠なのだ、と思うのです。しかし、軍馬の勇ましさがあっても、 人間の能力がいかに優れていても、エルサレムは滅びたのでした。彼らはその 事実を思い起こします。馬の力も人の力もそれ自体は悪いものではありません。 しかし、それに人が依り頼もうとするとき、神はそれを喜ばれないことを、彼 らは身をもって知ったのです。いいや、彼らだけではありません。人が神なら ぬものを最終的な頼りとするならば、やがてその虚しさを思い知らされる時が 来るのです。
その時に、神が望んでおられるのは何であるかが分かります。今、これを讚 美している彼らには分かります。主が望んでおられるのは、真に主を畏れる人 です。すべてを神に負っていることを忘れず、神の慈しみを待ち望んで生きる 人であります。そのような人は、何かを得た時にも、その栄光を人に帰しませ ん。収穫の時にも、感謝を忘れません。彼らは「感謝の献げ物をささげて主に 歌え」と叫ぶのです。
●氷は溶けて流れる水に
さらに、12節以下をお読みしましょう。
エルサレムよ、主をほめたたえよ
シオンよ、あなたの神を賛美せよ。
主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし
あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
あなたの国境に平和を置き
あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
主は仰せを地に遣わされる。
御言葉は速やかに走る。
羊の毛のような雪を降らせ
灰のような霜をまき散らし
氷塊をパン屑のように投げられる。
誰がその冷たさに耐ええよう。
御言葉を遣わされれば、それは溶け
息を吹きかけられれば、流れる水となる。(12‐18節)
さらに詩編は再建されたエルサレムに、主をほめたたえよと呼びかけます。 神を讚美せよと呼びかけるのです。
エルサレムの城壁は再建されました。しかし、もはや人々は、城壁が都が守 るのではないことを知っています。それは一度崩された城壁だということを知 っているからです。城門を守られるのは主なのです。その中にいる者を祝福さ れるのは主なのです。平和をもたらすのは人の力ではなくて主御自身なのです。 人はそのことを決して忘れてはならないのです。
この詩人の目には、エルサレムが破壊され再び再建されたことと、この自然 界の営みとが重なって映っております。どちらもそこに主の御心があることを 見るからです。
冬になると雪が降ります。霜が下ります。冷たい氷塊が天から地に向かって 投げつけられるかのようです。吹雪の中を歩く旅人には、その冷たさが耐え得 ないほどに思われることもあるでしょう。凍てつく寒さの中を歩きまわりなが ら働く貧しい人々には、その冷たさが耐え難く思われることがあるでしょう。 「誰がその冷たさに耐ええよう。」
その冷たさに耐え得る人は、春が来ることを知っている人に他なりません。 雪が降り、霜が下りるところに神の御心があるならば、その同じ神の御心から 御言葉が遣わされ、氷が溶け流れる水となる。そのことを知る人は、冷たさを 耐えることができるのです。
エルサレムの人々もまた、その冷たさを耐え忍ばねばなりませんでした。エ ルサレムには罪がありました。預言者を通して神はその罪を暴かれ、そして裁 きを下されました。エルサレムは破壊され、城壁は打ち壊され、人々は異国の 地に散らされました。冷たい冬を来たらせたのは、他ならぬ神御自身でありま した。「誰がその冷たさに耐ええよう」――その冷たさに耐えた人々がおりま した。それは、罪を認め、その冬の冷たさの背後に神の御心を見た人々であり ました。そして、その同じ神が、憐れみと赦しによって、御言葉を遣わし息を 吹き掛けてくださることを信じた人々でありました。主の慈しみを待ち望む人 人は、氷がやがて主の御言葉によって溶かされ水となることを信じたのです。
主はヤコブに御言葉を
イスラエルに掟と裁きを告げられる。
どの国に対しても
このように計らわれたことはない。
彼らは主の裁きを知りえない。
ハレルヤ。 (19‐20節)
彼らは神をほめたたえます。それはただエルサレムが再建され、苦難と悲し みが去ったからではありません。すべての出来事の背後に神を見たからであり ます。彼らは、神の掟と裁き、神の計らいを知る者とされていることを喜んで いるのです。苦難が去ったことを喜んでいるだけの人は、ただもとの生活に戻 っていくだけです。そこに本当の救いはありません。そこに神の御心を見る人 だけが、神をほめたたえて生きる人となるのです。この詩編は「ハレルヤ」に 始まり「ハレルヤ」に終わります。私たちの生活もこうありたいものです。