「新しい戒め」
1999年6月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 松原 茂牧師説教
聖書 Ⅰヨハネ2・7‐17
今日は、2章の7節から学んでまいります。前回、強調されていました聖句 に「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交 わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1・ 7)、とありました。
この聖句の後半部分「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 」をアーメンと受けとめ、前半の「光の中を歩むなら」の部分を聞こうとしな かったなら、わたしたちは「罪から清められます」と言いながら、実は、「闇 の中を歩いている」ことになってしまいます。この聖句は、やさしさと厳しさ を合わせもっているイエス・キリストと、その父なる神を表しているようです。
ヨハネは古い掟を新しい掟として書いています。わたしたちが本当に神を知 っている。神との交わりをもっていることは、わたしたちが日々神の戒めを守 り、み言葉に喜んで聞き従っていることによって確かめられます。ですから、 キリストと一体にされているという者は、「キリストが歩まれたように、その 人自身も光の中を歩まなければなりません」。
主イエスは、弟子たちの足を洗われ、弟子たちに「わたしが手本を示したよ うに、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(ヨハネ 13・14‐15)と、仰せられました。
キリストに倣うということは、キリストが人々の罪を贖われ、神の愛と神の 義を成就なさったように、わたしたちも友のために命を捨てる歩みをするとい うことであります。
この新しい戒めの源はイエス・キリストにあります。「あなたがたに新しい 戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。「愛しなさい」 という命令はレビ記19章18の昔から語られていました。キリストはこれに 新しい、いっそう深い意味を加えられました(ルカ10・30‐37)。善い サマリア人の譬えがそうです。ここに「イエスにとってもあなたがたにとって も真実です」(2・8)とあります真実は、真に事実ですということです。イ エス・キリストによって闇は破れ去りました。今はまことの光りが輝いていま す。まことの光でいますキリストの支配が、福音の宣教によって始まっていま す。
光でいます神との交わり、神を知り、光の中にいるという者は、神の愛が全 うされており、兄弟を愛する者となっているはずであります。しかし、「兄弟 たちを憎む者は、今もなお闇の中にいます」(2・8)。兄弟を憎む者は、口 で言うことと逆の状態におり、「闇の中にいます」。「憎む」は単なる愛の欠 乏ではなく、相手を嫌う気持ちの存在を意味します。神を知り、光の中を歩む 者は、神の命令を守り、兄弟を愛します。「『光の中にいる』と言いながら、 兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(2・9)。憎しみと闇、愛と光 は互いに組になっています。
「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり…」(2・10)。愛は他人の益 を求めます。愛は神が御子をお遣わしになることによって示され(4・10)、 御子がご自分の命を捨てることによって示されました(3・16)。キリスト のように愛する者は、光であるキリストの中に「とどまり」続けます。「愛す る」ということは口先のことではありません。
「その人にはつまずきがありません。」(2・10)それは「他の者につま ずきを与えない」ということであります。また、彼自身光の中を歩む者であり、 つまずくことはないということです。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩11 9・105)。キリストにある者は御言葉の光に照らされて、信仰の道を誤る ことはありません。
「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行く か知りません」(2・11)。憎しみは闇に支配されることにより生じるので あると指摘しています。また、暗闇の中を歩いていますから、自分でもどこへ 向っているのか行き先がわかりません。兄弟を憎むことの恐ろしさが示されて います。「闇がこの人の目を見えなくしたからです」(2・11)。人を憎む 者は、人生を知っていると言いますが、また、見えると言っていますが、闇の 中を歩いているのであり、神の前に完全な無知の道を行くことになります。
●子たちよ
「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって あなたがたの罪が赦されているからである」(2・12)。
ヨハネの手紙の受け取り人、父たち、若者たちは既にイエス・キリストの 「御父を知り」、「初めから存在なさる方を知り」、「悪い者に打ち勝つ力」 を与えられていました。
それは、「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」福音の恵 みにあずかっていたからであります。キリスト教会二千年の歴史の原動力は、 この御言葉によってキリスト者ひとりびとりの内に、キリスト・イエスの愛が 充満していたからであります。聖霊の力が満ち溢れていたからであります。パ ウロをはじめ使徒らが迫害に耐えて福音宣教の業を全世界にその足跡を残して いったのも、独り子イエス・キリストの神の愛の御業があったればでこそであ ります。「イエスの名によって あなたがたの罪が赦されているからである」 とは何とありがたい福音の恵みでありましょうか。
さて、使徒パウロが、いまだキリストの恵みを理解していなかったときには、 わたしたち信仰者の先達ステフアノの殺害に賛成し、また、主の弟子たちを脅 迫し、殺そうと意気込んで、ダマスコに近づいて行きました。ところが突然、 天からの光がパウロの周囲を照らしました。天からのイエスのみ声に接したパ ウロは、主イエスの指示に従い、アナニアに祈ってもらいました。するとどう でしょう。「イエスの名によって、異邦人や王たち、イスラエルの子らに、あ なたがたの罪が赦されている」ことを、宣べ伝える選びの器とされたのであり ます。「私の名のためにパウロがどんなに苦しまなければならないか」そのこ とは、その時パウロの知るところではありませんでした。
彼サウロは、起きてバプテスマを受け、食事をして元気を取り戻しました。 聖霊に満たされた伝道者パウロの誕生であります。
今月の16日の聖書日課(大阪のぞみ教会発行の聖書通読用聖書日課)のコ リントの信徒への手紙Ⅱの11章16節以下に、次の記事が目に飛び込んでき ました。
「わたしも愚かになったつもりで誇ろう。わたしはヘブライ人の中のヘブラ イ人、イスラエル人の中のイスラエル人、アブラハムの約束の子孫。わたしは だれよりもキリストに仕える者、苦労したこと多く、投獄されたことも多く、 鞭打たれたことは比較できないほどずっと多く、死ぬような目にあったことも 度々でした。四十に一つ足りない鞭打ちが五度、鞭打ちが三度、投石されたこ とが一度、川の難、盗賊の難、同胞からの難、偽兄弟たちからの難に遭い、苦 労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、 寒さに凍え、裸でいたこともありました。その上に、日々わたしに迫るやっか い事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、 わたしは弱らないでいられるでしょうか」と叫んでいます。
「イエスの名によって、あなた方の罪が赦されているからである」。この福 音のゆえに、すべてのキリスト者が、キリスト・イエスによって選びの器とさ れているのであります。イエスキリストの御名を賛美いたします。
●世を愛してはいけません
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、み父 への愛はその人の内にありません」(2・15)。
「世も世にあるものも、愛してはいけません」これは、「もろもろの天は神 の栄光を表し、大空はみ手のわざを示す」(詩119・1‐14)、創造主な る神の栄光を表している「神のつくられたこの世界」を愛するなといっている のではありません。聖書の言う、この「世」コスモス(Ⅰコリント4・9、ガ ラテヤ6・14、ヨハネ8・23)は、アダム以来、罪に堕落した人間世界を 指します。
神から離れて、それ自体で存在し、そのことこそが目的であり、そのものが 救いであり、神の救いを全く必要なきものとしている世界。神に敵対している すべてのもの、神を否定し、自己を貫きとおす社会。自己中心の欲望の満足と 追求のみに生きる「世」を、ヨハネは「愛するな」と戒めています。それは悪 魔が支配している「世」だからであります。この「世」は、神の教会の人たち を誘惑して、これを支配下に引きずり込もうとします。ヨハネはキリスト者に 対して、世と世に属するものの一切を愛の対象にしてはならないと警告をして います。
ヨハネは、キリストによって罪を赦され、父なる神を知り、このような世か ら救い出された者であるわたしたちは、滅びゆく「世」を愛してはならないと 戒めているのであります。神に敵対する、神なしに完全を達成しようとする、 この世を愛してはならないのであります。
このように、父への愛とこの世への愛は両立しないのです。「父への愛」は、 父なる神を愛する愛、父なる神を唯一の神として愛する愛であります。
主イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他 方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたが たは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6・24)と、述べておら れます。人は愛なしに生きられません。神を愛する者であるか世を愛する者で あるか、どちらかであります。
この世を愛する者は、世を愛するそのことによって、自らの中に、もはや父 に対する愛がないことを暴露しています。このようにヨハネが言うのは、むろ ん神への愛とこの世への愛との二つの愛を妥協両立させようとするグノーシス 思想家を念頭においているからであります。
「神に背いた者たち。世の友となることが、神の敵となることだとは知らな いのか。世の友となりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」(ヤコ ブ4・4)と警告しています。「世を愛するなら」「父への愛」は当然「彼の うちにない」のであります。これが、世を愛してはならない第一の理由です。
世と世にあるものを愛してはならない第二の理由は、「世と世にあるものは、 御父から出たものでない」 (2・16)からです。ヨハネは世にあるものを次 の三つに集約しています。「肉の欲」とは「世の人が安楽に心地よく生きよう として、自分の幸福と利益にしか心を留めないということです」(カルヴァン)。 ダビデは部下ウリアの妻を、自分の妻とする罪を犯しました(ガラテヤ5・1 2、13、エフェソ2・3)。「目の欲」とは「目」を通して肉欲を満足させ る欲望です(マルコ9・47、マタイ5・27以下)。
次に「持ち物の誇り」です。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄 えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と(ルカ12・ 16‐21)。持ち物の誇り(暮らし向きの自慢)は生命の喪失につながって います。それは「虚しい誇り」であり、「虚飾」であり、「見栄を張ること」 であります。キリスト者に「世にあるもの」を愛することはできません。
第三の理由は、「世も世にある欲も、過ぎ去っていきます」(2・17)。 世と世にあるものは、永遠の父にその根をもっていないので過ぎ去っていきま す。キリスト者は、この世と何のかかわりも持ってはならない。この世は神か ら出たものではないから、その欲望ともども消え失せます。「しかし、神の御 心を行う人は永遠に生きつづけます」(2・17)。救いはただ一つ、神のみ 心に従うことのみであります。御心に従う者には未来があります。その人は永 遠の中にとどまるからであります(ヨハネ6・51、58他)。
キリストにあって神との交わりに永遠に生きる喜びを約束されているものは 幸福です。「神の御旨を行うものは、永遠にながらえる」。光の中を歩むよう に招かれている者は、父なる神に信頼して、主の道を歩み続けましょう。新し い戒め「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたした ちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3・23)を守って「光 の中」をイエス・キリストめざしてまっすぐに歩みましょう。
祈り
パウロは天来のみ声に接し、やがておいでになる主イエス・キリストへの確 信に満ち溢れて、世界伝道へと召されました。わたしたち一人びとりもまた、 しかりであります。わたしたちも聖霊の賜物と導きによって、あなたの新しい 掟を守りますから、光の中を歩む歩みをお守り下さい。アーメン。