説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「栄光の希望なるキリスト」

1999年7月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイ1・24‐29

 今日、私たちは豊中市の岡町に教会堂が建てられて六周年を記念する礼拝を 捧げております。私たちはこの地において、一週も欠けることなく、毎週共に 集まり礼拝を捧げてまいりました。それは決して当然のことではなく、神の恵 みに他なりません。私たちは、その主の恵みを覚えつつ、この日、ここに教会 堂が建てられていることの意味を、もう一度深く考えたいと思うのです。

●キリストの苦しみの欠けたところを満たす

 こうして礼拝をしていて明らかなように、この建物の中心は礼拝堂です。こ れは共に集まって礼拝をするための建物です。それは、ここに人が集められ神 を礼拝する共同体が形作られていることが、この建物の存在の前提となってい ることを意味します。もちろん、ご高齢のために、なかなかこの場所に集えな い方々もおられます。しかし、それらの方々が連なっているのは、週ごとに共 に集まり礼拝を捧げている共同体であることに変わりありません。あるいは、 この共同体を家族と呼ぶこともできるでしょう。それは、いわゆる「家族的」 であるからではなくて、礼拝において同じ父なる神を仰いでいるからです。

 そして、この小さな共同体は、小さな家族は、世界に広がる大きな家族の一 部であります。この大きな家族は、代々に渡る、イエス・キリストを信じ、神 の子とされた者たちの集まりです。この大きな家族は教会と呼ばれています。 それゆえ、ここにある小さな共同体、小さな家族もまた教会と呼ばれているの です。

 さて、現在のトルコの内陸部にコロサイという町がありました。そこにも、 私たちと同じように、共に集まり主を礼拝している教会がありました。(もっ とも、私たちとは随分状況が違ったと思われますが。)その教会にパウロが手 紙を書きました。それを私たちは今ここで読んでおります。

 これを書いたパウロは、1章1節を見ますと、「神の御心によってキリスト ・イエスの使徒とされたパウロ」と書かれています。彼はキリストの使徒とし てキリストに仕えておりました。それは苦しみを伴う働きでありました。具体 的な迫害がありましたし、諸教会の困難な問題もありました。しかし、パウロ はその苦しみを「喜びとしている」と書いています。それはキリストに仕える ことであり、キリストのために苦しむことであったからです。

 しかし、ここで興味深いことに、パウロはただ「キリストのために苦しむ」 とは言っていません。もっと過激な表現を用いています。「キリストの苦しみ の欠けたところを身をもって満たしています」と言うのです。もちろんこれは 「キリストの苦しみは十分ではない」と言おうとしているのではありません。 内容的には、「キリストと同じ苦しみを分かち合っているのだ」ということだ と思われます。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何でしょうか。十字架による罪の贖い のための苦しみでしょうか。いいえ、罪の贖いの苦しみは、キリストにおいて 全うされているのであって、そこにパウロの入る余地はありません。パウロは 既にこの手紙においてそのことを記しています(1・22)。キリストは独り ですべての人の罪を負われたのです。キリストは独りで父なる神の裁きを受け られたのです。キリストは独りで苦しまれ、独りで死なれたのです。キリスト は独りで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪の贖いの御業は、完全にキ リストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。

 では、ここに書かれているキリストの苦しみとは何でしょうか。これは、 「パウロの苦しみが何であったか」ということから逆に考えるしかありません。

パウロは与えられた務めのために苦しんでいるのです。その務めとは「御言葉 をあなたがたに余すところなく伝えるという務め」(25節)でありました。 そして、「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽 くしてすべての人を諭し、教えています。このためにわたしは労苦しており… 」(28‐29節)と言っています。これは宣教の務めであり、教会が形成さ れるための務めです。そうしますと、キリストの苦しみもまた、この世に御言 葉が宣べ伝えられ、教会が形作られるための苦しみであることが分かります。 キリストは御自分の体である教会のために苦しんでおられるのです。パウロは、 その苦しみに自らの身をもって参加しているのです。

 これは私たちにとっても、大切な二つのことを示しています。まず第一に、 これは「教会がこの世に形成されていくということには苦しみが伴うのだ」と いうことを示しています。この世に教会が形成されていくということは自然な ことではないのです。教会堂があれば自動的に教会が形成されていくのではあ りません。教会はこの世にとっては異質な存在だからです。この世は主を礼拝 しません。この世は主を愛しません。この世は主に従おうとはしません。その ような世界の中において、主を礼拝し、主を愛し、主に従おうとする共同体が 存在するためには、労苦と困難、痛みが伴うのは当然なのです。この世と同質 なものであるならば、形作られるのに苦しみは伴いません。言い換えるなら、 何の苦しみも伴わないで形成され得る、この世と区別つかない、この世の一部 に過ぎない、この世に同化され得るものは、もはや教会とは呼び得ないのです。

パウロは言います。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心 を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、 神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ロー マ12・2)。

 そして第二にこれは、教会が形作られるために苦しんでおられるのはキリス ト御自身であることを示しています。まず最初に人間の労苦があるのではない のです。キリストが先に労苦し、苦しんでおられるのです。そこに私たちが、 加わらせていただき、共に労苦させていただくのです。そこにパウロの喜びは あったし、私たちの喜びもあるはずなのです。

 このキリストの苦しみが先にあることを知るか知らないかで、私たちの信仰 生活は決定的に異るものとなるでしょう。キリストが福音の宣教と教会形成の ために苦しみ、教会の成長のために、教会の完成のために労苦しておられるの に、信仰者がキリストの体である教会に無関心であるならば、それはどこかお かしいと言わざるを得ません。キリストの苦しみをそっちのけで、「教会は私 にどのような喜びを提供してくれるのか。どのような楽しみを与えてくれるの か。私にとって益となるか不利益となるか。私の意向に合うか合わないか」と いうことにしか関心がないとするならば、それはどこか間違っていると言わざ るを得ません。パウロにとって、キリストに仕えるとは、具体的には25節に あるように「教会に仕える」ことに他ならなかったのです。

●キリストに結ばれて完全な者となるように

 では、パウロがここでキリストと苦しみを共にしながら労苦している宣教と 教会形成とはいったい何だったのでしょうか。その内容を共に見ていきましょ う。

 先にも触れましたように、パウロの務めは「御言葉をあなたがたに余すこと なく伝える」ということでありました。その御言葉とは何であるかと言うと、 それは26節に書かれています「秘められた計画」です。「秘められた計画」 は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。「奥義」と言いますと、特別 な人々の世界に閉ざされた秘密のようなものを連想するかも知れません。事実、 この言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パ ウロがここで意味しているのは、まったく別の事柄です。これは既に神によっ て覆いの取り除かれた、宣べ伝えられるべきものであります。

 その奥義とは何なのでしょうか。いや、この問いかけは正確ではありません。

聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているから です。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の 希望です」(27節)。

 神の救いの御心は、一人の御方を通して、完全に現わされました。十字架の 死と復活に至る一人の御人格を通して、このキリストの活きた物語によって、 完全に現わされたのでした。キリストを通して、この世界の罪、神に敵対する 人間の罪が明らかにされました。そして、キリストを通して、神に敵対するこ の世界をなお愛される神の愛が明らかにされました。キリストを通して、神の 赦しが現わされました。神は御子によって、万物を御自分と和解させられまし た(20節)。奥義とは、この一人の御方です。ですから、御言葉を伝えるこ とを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたし たちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、キリストはもはや過去の存在に留ま りません。生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。聖霊のお 働きにより、生けるキリストと人との出会いが起こるのです。そして、キリス トは信ずる者たちの内に留まられます。「あなたがたの内におられるキリスト 」と語られているとおりです。ここで語られている「あなたがた」については、 21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、 悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた 」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない 「あなたがた」であります。罪人である「あなたがた」です。しかし、キリス トは罪人と出会ってくださるのです。そして、罪人らの内に来てくださるので す。

 キリストはそのようにして、宣教の言葉を通して、聖霊の働きによって、私 たちにも出会ってくださり、私たちの内に来てくださいました。そして、私た ちはこのキリストによって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。1章 14節に語られているとおりです。キリストのおられるところに罪の赦しがあ るゆえに、このキリストのおられるところに、神と人との和解があります。そ の十字架の血によって神と人との平和を打ち立ててくださったキリストによっ て、初めて神と人との和解は成り立つのです。罪の赦しなくして、神との和解 はあり得ないからです。そして、神との和解あるところにこそ、まことの希望 は見出されます。それゆえ、キリストは「栄光の希望」と呼ばれているのです。

 人は希望なくして生きていけません。それゆえ、人は希望を持つために、あ りとあらゆる努力を重ねます。しかし、その希望を重ねながら、遠くを見よう とはいたしません。遠くを見ると希望が失われてしまうことを知っているから です。あらゆる努力を重ねながら、行き着く先は決して明るくないことを知っ ているからなのです。少なくとも、前を見るならば、そこには死という現実が 厳然として横たわっていることを知っています。だから希望を持つ努力をする 一方で、一生懸命自分を誤魔化すための努力をしているものです。

 神との和解を得ずして、神に背を向けたままで、罪の負い目を背負ったまま で、本当の希望を得られるはずがありません。ですから、罪の赦しと神との和 解をもたらすキリストこそ、「栄光の希望」なのです。この御方と共にあって、 人は初めて栄光の希望を得るのです。遠い先に驚くべき輝きを見るようになる のです。死によって遮られてしまわない、永遠なる神の栄光にあずかる希望の 輝きを見るのであります。

 この希望のゆえに、信仰者は救いの完成へと向かいます。宣教の言葉もまた、 キリストを伝え、神との和解をもたらす言葉に留まらず、キリストにある者が 救いの完成へと向かうことを求めます。「このキリストを、わたしたちは宣べ 伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を 尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)とパウロが言っている とおりです。この「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、む しろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 キリスト者となることが新しく生まれることであるならば、生まれたばかり の時は乳飲み子のようであっても不思議ではありません。しかし、いつまでも 乳飲み子のようであったとするならば、それは非常に不健康でしょう。「かつ ては熱心であった」といった類いの言葉ほど、教会において意味のない言葉は ありません。信仰生活は、完成へと向かう絶えざるプロセスです。そこには成 長が期待され、信仰者としての成熟が求められているのです。それは、2章2 節にあるように「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与 えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになる」ということに 他なりません。

 宣教の労苦はまさにこの一点に向かいます。そして、それこそがここに教会 堂が立てられ、週ごとに集められ、教会が形作られていることの意味でありま す。栄光の希望なるキリストがここにおいても宣べ伝えられます。栄光の希望 なるキリストがここにおいて聞かれます。栄光の希望なるキリストと人との出 会いが起ります。栄光の希望なるキリストと人とが結び合わされます。そして、 栄光の希望なるキリストに結ばれた者たちは、キリストを知る過程を共に歩み、 栄光の希望に向かって信仰者としての完成を求めて共に生きるのです。

 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに 結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとお りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」(コロサイ2・ 6‐7)。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡