「愛の債務者」
1999年7月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ13:1‐10
コロサイの信徒への手紙に次のような言葉があります。「御父は、わたした ちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです 」(コロサイ1・13)。私たちは今や、罪の赦しをもたらしてくださったキ リストをまことの王として生きている。闇の力の下にではなく、その支配下に 生きているのだ――これはキリスト者の最も基本的な自己理解と言えるでしょ う。
しかし、一方、初期のキリスト者が生きたローマ世界には、ローマ皇帝が君 臨しておりました。民衆の生活は間違いなくその支配のもとに置かれていたの です。ではキリストを王とする者は具体的にそのような社会でどのように生き たらよいのか。これは避けては通れない問題でした。私たちが生きているのは、 あのローマ帝政時代の社会とは異ります。しかし、時として無条件の服従を要 求してくるキリストとは異る具体的な支配力に囲まれて生きていることに変わ りはありません。やはり様々な場面で私たちは問わざるを得ないでしょう。こ の具体的な状況において、私はいかに生きたらよいのか、と。今日は、そのよ うな私たちに聖書が何を語っているか、その言葉に耳を傾けたいと思うのです。
●上に立つ権威に従いなさい
13章1節以下をご覧下さい。パウロは次のように語り始めます。「人は皆、 上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべ て神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定 めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(1‐2節)。
パウロの言葉は非常に単純です。単純過ぎて、抵抗さえ覚えます。パウロに この世界の現実が見えていないのか、と不思議に思う人もいるかも知れません。
パウロはこう言っています。「実際、支配者は善を行う者にはそうではないが、 悪を行う者には恐ろしい存在です」(3節)。しかし、支配者は時として、善 を行う者にとっても恐ろしい存在となるのではないでしょうか。それはこの歴 史において繰り返されてきた事実ではないでしょうか。この世の支配者によっ て、どれほど多くの無実な者の血が流されてきたことでしょうか。私たちは、 このあまりにも単純化されたパウロの言葉をどのように受け止めたらよいので しょう。
そこで、私たちはここを読むにあたって、まず幾つかの点を踏まえておく必 要があろうかと思います。
第一に、これは教会と国家の問題、信仰者と世の権力との関係を包括的に論 じたものではありません。すなわち、すべてがここに言い尽くされているので はない、ということです。そもそも、それはこの手紙の目的とするところでは ありません。ですので、ここに書かれていることがすべてであるかのように、 この叙述を普遍的な大原則として受け止めることはできないでしょう。ここに 書かれていることの背景は、あくまでも帝政ローマです。それは今日のように 国民が国家の権力について責任を分担する世界とは違います。私たちの場合、 権力への無条件の服従は、場合によってはその責任の放棄となり得るのです。
第二に、パウロがこれを書いた時点では、まだ教会はローマ帝国をあげての 迫害を経験してはおりません。ですから、後の時代に書かれたヨハネの黙示録 とは随分書き方が違います。黙示録においては、ローマ帝国は「大バビロン」 と呼ばれ、また裁かれるべき大淫婦として描かれています。そして、皇帝ネロ はサタンである竜から権威を与えられた獣として表現されているのです。パウ ロも、時代が異れば、恐らく違う書き方をしたのではないかと思われます。
以上のような限界を踏まえつつ、なおこの箇所が私たちに何を意味するのか を考えていきたいと思います。
そもそも、パウロは国家権力の悪魔的な側面がまったく見えていないから、 このような楽観的に過ぎるような言葉を書いたのでしょうか。いいえ、決して そのようなことはありません。例えば、彼の同労者であるアキラとプリスキラ は、皇帝クラウディウスの下した命令により、ローマから退去させられた人々 でした。ただユダヤ人であるという理由でです。パウロは身近な同労者の内に、 理不尽な過去を現に見ているのです。そして、パウロ自身、フィリピにおいて、 取り調べの全くないままに鞭打ちの刑を受け、投獄されるという経験をしたの でした。それはパウロがローマの市民であることを当局が知らなかったために 起ったことでした。ローマの市民でなければ権力によってどのような目に遭わ されるかを、パウロは身をもって体験しているのです。
しかし、パウロはそのような世の権力であるにもかかわらず、なお「上に立 つ権威に従いなさい」と言うのです。なぜでしょうか。それは、「上に立つ権 威」を絶対的なものとして見ているからではありません。そうではなくて、む しろ“絶対的なものとして見ていないから”、そう言っているのです。パウロ がそこに見ているのは、もはや君臨している皇帝でも、権力をかさに着て横柄 に振る舞っている官憲でもないのです。神に使われている下僕なのです。彼ら は知らないで、あたかも人を支配しているつもりでいるかも知れないけれど、 実は神の計画の中で神の使い走りとなっている。「権威者は、あなたに善を行 わせるために、神に仕える者なのです」(4節)とパウロは言うのです。
大切なことは、どのような力であれ、その背後にもっと大きな神の支配を見 て、これを善を行う契機としてしまうことなのでしょう。それゆえパウロは3 節で「善を行いなさい」と言っています。パウロにとっては、もはや権威者の 剣であっても、それ自体が恐るべきものなのではありません。本当に恐るべき は神の怒りであることを知っているからです。悪を行う者に対する剣があるこ とは、本当に恐るべき怒りを逃れるために益することでもあるのです。大切な ことは、これを悪を避ける助けとしてしまうことです。そのようにして、やは り与えられた状況のもとで神を畏れ神に従って生きるのです。
このようにこの世の権力を見ているパウロの言葉には、一種のユーモアさえ 感じさせられます。6節をご覧下さい。パウロは言うのです。「あなたがたが 貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに 励んでいるのです。」時として理不尽な振る舞いさえする世の権力者をつかま えて、「彼らは神様に使われているんだよ。そういう意味では、良くやってい るじゃないか」と言い放ってしまうのです。そして、その後に愉快な言葉が続 きます。日本語に直すとその快活さが伝わらないのが残念です。「すべての人 人に対して、自分の義務を果たしなさい。」これは、字義どおりに言い換えれ ば、「すべての人に借りが残らないように全部払ってしまいなさい」というこ とです。続くのは、その内容です。貢も払ってやりなさい。税も払ってやりな さい。いやそれだけではない。「恐れ」も払ってしまいなさい。「敬意」も払 ってしまいなさい!こう言い放ってしまう人にとっては、もはや何も不可抗力 によって強いられた犠牲ではありません。
このようなユーモアはゆとりから生じます。ここにはパウロのゆとりがあり ます。ゆとりのない人は支配されまいとしてキイキイと金切り声を上げます。 支配を脱するためにまず暴力を用いることを考えます。そして破壊的行為に走 ります。当時の多くの宗教的熱狂主義者がその道を行きました。しかし、そこ からは何らの善も生じません。パウロはその同じ道を行ってはならない、と言 うのです。パウロのゆとり、それはキリストに従う者のゆとりに他なりません でした。まさに理不尽なこの世の権力のもとに十字架につけられて殺されたキ リスト、しかし、そのゆえに世に勝利したキリスト、そのようなまことの王の 王であり主の主であるキリストに従う者のゆとりなのです。大切なことは、ま ずこのゆとりを持つことです。それが「従いなさい」という言葉の意味的内容 なのです。
●愛の債務者として生きる
ですから、パウロの語っている権威に対する従順とは、いわゆる「長いもの には巻かれろ」という消極的なものではなく、むしろ21節の「悪に負けるこ となく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉の続きであることが分かりま す。その箇所は以前お読みしたように、9節の「愛には偽りがあってはなりま せん」という言葉から始まっておりました。ですから、話は再び偽りのない愛 へと戻っていくのです。
8節以下をご覧下さい。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借 りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦 淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、 『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪 を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(8‐10節)。
パウロは先に、借りを全部払ってしまいなさい、という内容の事を語りまし た。ここでも「借りがあってはなりません」と言います。しかし、一つだけ例 外があります。それは「互いに愛し合う」ということであると彼は言うのです。
このことについては借りがあっていい。いや、むしろ、どのようにしてもこの 借りは消えないということなのでしょう。
愛することが返済しきれない永遠の負債のように表現されていることは、私 たちに大切ないくつかのことを示しているように思います。
第一に、愛することにおいては、これで十分ということはあり得ないという ことです。この世においては、ありとあらゆることが「愛」の名をもって語ら れます。時の経過とともに冷えていくような一時的な感情の高まりが安っぽく 「愛」の名をもって語られます。自分の欲心の投影でしかないものが「愛」の 名をもって語られます。独りよがりの押し付けやお節介が「愛」の名をもって 語られます。甘ったれた自己憐憫を増長させるだけの同情が「愛」の名をもっ て語られます。聖書は、神の御心に他ならない律法を全うするものこそ「愛」 であると言います。それは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要 約されると聖書は言います。それを非常に単純に「愛は隣人に悪を行いません 」と表現するのです。
しかし、この言葉を思い巡らすほどに、その重さと大きさを思わざるを得ま せん。いったい隣人を自分のように愛することなど可能なのでしょうか。消極 的に表現したとしても、本当に隣人に対する悪を含まぬ行為などあり得るので しょうか。私たちは知らぬ間に、人を痛め付け、苦しめている者ではありませ んか。そのような私たちが愛することにおいて十分な者となるということはあ り得ないに違いありません。そもそも、「これだけ愛しているのに、これだけ のことをしてあげているのに」と思った時点で、もはやそれは愛ではなくなっ てしまうのです。
そして、第二は、愛することは何よりも“神に対する”負債であるというこ とです。すなわち、愛は人から生じたのではなくて、まず神が私たちを愛して くださった、ということであります。この手紙の11章までは、この「愛(ア ガペー)」という言葉は、人間の愛について用いられることはありませんでし た。キリストにおいて現わされた神の愛について用いられていた言葉なのです。
神がまず、私たちを愛してくださいました。罪人である私たちを愛してくだ さいました。神に敵対していた私たちを愛してくださいました。裁かれて滅ぼ されて然るべき私たちを愛してくださいました。「わたしたちが神を愛したの ではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、 御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4・10)。 そして、この愛の借りは神に返すのではなく、互いに愛し合うことによって返 すのです。返済しきれない、とうてい返済しきれない愛の負債を、せめて僅か ばかりでも、互いに愛し合うことにおいて、返していくのです。「愛する者た ち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛 し合うべきです」(1ヨハネ4・11)。
私たちが、自らが債務者であることを自覚するならば、まわりの人々につい て「愛がない」とは言わないに違いありません。愛における債務者は、他者で はなくて自らに愛のないことを嘆きます。そして、自らが愛する者となれるよ う神に祈り求めるはずです。
私たちはいかに生きたらよいのか。そのように問う私たちは、決して神なき 世界に捨て置かれているのではありません。私たちは、私たちのために死んで よみがえってくださった御方の支配のもとにあるのです。この世の支配や私た ちを取り巻く状況が最終的決定的な意味を持つのではありません。大切なこと は、何が王なるキリストに従うことであるかを問うことであり、そして、この キリスト負っている愛の債務者として生きることなのです。