「夜は更け、日は近づいた」
1999年7月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ13・11‐14
恐怖の大王が降りてくるらしい(?)1999年七の月も半ばを過ぎました。
「いや、七の月とは私たちの暦の七月のことではない」などとも言われます。 多分来年になればなったで、また様々な修正説が語られることでしょう。さて、 ノストラダムスの大予言のみならず、世界の終わりや最後な破局が語られます 時、やはり多くの人々の関心はいつでも「それがいつか」ということに向いま す。もちろん、そのような関心は、キリスト教の歴史の中にもありました。初 期の教会の時代からそうだったのです。しかし、そのような問いに対して、福 音書の記者は次のような主イエスの言葉を書き残したのでした。「その日、そ の時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じで ある。」(マタイ24・36)。
聖書は、「終わりがいつであるのか」を最も重要なこととして語りません。 「いつ」を知ることは、私たちが考えるほど人間にとって重要ではないからで す。重要なことは、終わりがあるという事実と、私たちは終わりに向かってい るのだ、という認識なのです。人生には終わりがあります。この世の歴史にも 終わりがあります。それが近いか遠いかは大したことではありません。確実な ことは、時は不可逆であるという事実です。後戻りできません。昨日よりは今 日、今日よりは明日、確実に終わりに近づいているのです。私たちは、この事 実に基づいて、今の時を見なくてはなりません。そこで、聖書は私たちにこう 語りかけるのです。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」 (11節)。さて、いったいこの言葉は、私たちに何を意味しているのでしょ うか。
●朝が近づいている
はじめに11節から12節前半までをお読みしましょう。「更に、あなたが たは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき 時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近 づいているからです。夜は更け、日は近づいた」(13・11‐12a)。
「夜は更けた」という言葉は、私たちにも直感的に理解できる言葉ではない かと思います。日は沈んでしまった。辺りは暗さを増している。いや、もう既 に世界はすっかり闇に閉ざされてしまった。そして、闇の時が延々と続いてい る。人がその人生とこの世界を真面目に考えるならば、決してそれを明るい日 差しの燦々と降り注いでいる昼間の世界としては描写しないでしょう。「夜」 ――そう、明らかに「夜」なのです。
何も大げさなことを考える必要はありません。身近な現実がそれを物語って います。例えば、13節には「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」とい う三組の言葉が出てきます。刹那的な享楽、混乱したセックス、そして果てし ない争い。これらを「闇の行い」とパウロは呼びます。もっと単純に言い換え るならば、欲望と敵意の支配です。これらは人間の罪の暗闇から生じ、大きく は全世界を、小さくは家庭を、個人の人生に深い暗闇をもたらしてきました。 パウロが見ている約二千年前の世界は、今日の世界と少しも変わりません。刹 那的な享楽を追い求めながら、虚しさの中にたたずむ人々の姿。欲望が少しで も満たされることを求めながら、欲望に支配され、苦しみと悩みとに満ちた日 々を刈り取りながら生きている人々の姿。争いとねたみの泥沼の中でもがき苦 しんでいる人々の姿。欲望と敵意によって、この世界は動かされ、悲惨な歴史 が展開され、今日に至りました。それはまさに「夜」でした。そして、今も 「夜」であるに違いありません。
その夜の世界に時は刻まれていきます。後戻りできない時が刻まれていきま す。後戻りできない私たちの人生もそこにあります。後戻りすることのない歴 史が終わりに向かって動いています。「夜は更けてしまった。ああ真っ暗だ! 」。それだけしか言えない人にとって、時の流れは希望をもたらしはしません。
闇の世界の中にある闇の人生が終わりに向かうだけなら、そこにいったいどの ような希望があると言えるでしょう。一年はあっという間に過ぎていきます。 そうして一つ歳をとります。肉体は朽ちていき、精神も衰えていきます。多く のものを失いながら生きて行かねばなりません。そうして行き着くところは墓 以外のどこでもありません。それはこの世界についても同じです。この世界の 有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見え てこないのです。
しかし、パウロはただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。さらにこう言 うのです。「日は近づいた!」。彼は夜の暗闇だけを見てはいません。この夜 が確実に朝に向かっている夜であることを見ているのです。なぜパウロは「日 は近づいている」と語り得たのでしょうか。それは、この夜の世界のただ中に、 キリストの十字架が立てられたことを知っているからです。この世界に罪の贖 いの十字架が立てられたのです。この世界は、神に見捨てられた世界ではあり ません。この世界は神によって十字架の立てられた世界です。罪の贖いのため に御子の肉が裂かれ、血が流された世界です。神が御子によって愛を現された 世界です。罪に満ち、悲惨に満ち、破局に向かっているとしか見えない世界で ありながら、なおこれは神に愛されている世界なのです。だから彼は確信を持 って言うのです。夜は永遠に続くのではない。朝が来る、と。十字架の闇が破 られて、キリストの復活の朝が来たように、この夜の世界にも朝が必ず訪れる のです。
これこそ喜びのおとずれです。福音です。私たちは代々の教会の宣教を通し て、この福音を伝えられたのです。私たちは、その神の愛を告げ知らされ、ま ず私たち自身が神と和解させていただき、そして朝に向かって生きる者とされ ました。朝に向いつつある夜ならば、時の流れは悲しみではありません。そこ には希望があります。ですからパウロは言うのです。「今や、わたしたちが信 仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。あなたが 信仰に入ったのは何時ですか?三十年前ですか。そのころよりも救いは近づい ているのです。あなたが信仰に入ったのは一年前ですか?そのころよりも救い は近づいているのです!
●眠りから覚めるべき時が来ている
このことが分かるならば、今の時がどんな時であるかも分かります。聖書は 言います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あな たがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。聖書の生活感 覚はかなり早起きです。朝になり日が昇ってから目を覚ますのではないのです。
それでは遅すぎるのです。朝が来るゆえに、目覚めて待つのです。もう眠りか ら覚めるべき時だ、と言うのです。
眠りから覚めるとは、既に朝が来たように生きるということに他なりません。
ですから、パウロは次のように勧めます。12節以下をご覧ください。「夜は 更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けまし ょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、 淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。 欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(12‐14節)。
「夜は更けた。ああ真っ暗だ」としか考えられない人ならば、「だから、闇 の行いに生きようではないか」と言うでしょう。希望のない人は希望のない人 のようにしか生きられません。しかし、希望を与えられている人が、希望のな い人のように生きていてはならないのです。朝が来ることを信じている人が、 夜が永遠に続くかのように生きてはならないのです。やがて神の栄光にあずか る希望を与えられている人が、その恵みを無駄にして闇の中に滅びてしまって よいはずがありません。眠りこけてしまっているならば、今こそ目を覚ますべ き時なのです。
それは、消極的に表現するならば、闇の行いを脱ぎ捨てることである、とパ ウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。
その描写は具体的です。彼は先にも申しましたように、三組の言葉をもってこ れを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」。時は確実に 情け容赦なく終わりに向かって流れていきます。私たちに与えられているのは 朝に備える限られた大切な時です。その時の間を、闇の行いにしがみついて、 闇の中に留まっていてはなりません。理性と引き替えにして享楽に身を委ねる ことに、どうしてこの貴重な時を費やしてよいでしょうか。欲望を満たすこと を追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きる ことに、どうしてこの貴重な時を費やしてよいでしょうか。果てしない争いと ねたみのために、どうしてこの大切な時を費やしてよいでしょうか。キリスト の裂かれた肉と流された血潮は、私たちが闇の中にとどまってこの夜を過ごす ために与えられたのではありません。私たちが眠りこけて朝を迎えるためにキ リストは苦しまれたのではないのです。私たちは今から神の国の光の中に生き、 朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪 臭のプンプンするぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。それらは脱ぎ捨 てられるべきものです。
そして、積極的には、「光の武具を身につける」(12節)ことです。この 夜の世界において、既に日が昇っているように光の中を生きるということは、 それ自体闘いでもあります。私たちを闇へと引き戻そうとする力が働くのです。
再び闇の行いをまとわせようとする力が働くのです。私たちは戦わなくてはな りません。悲しみと悩みに満ちた闇の中に引き戻されてはならないのです。そ のためには武具を身につけなくてはなりません。
光の武具を身につけるとはどういうことでしょうか。テサロニケの信徒への 手紙(一)5章7節以下には次のように記されています。「眠る者は夜眠り、 酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰 と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょ う」(1テサロニケ5・7‐8)。
また、エフェソの信徒への手紙6章14節以下には次のように書かれていま す。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福 音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。
それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。ま た、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフ ェソ6・14‐17)。
こうして見ますと、「光の武具を身につける」とは、特別な神秘的な体験に よって何かを得ることではなさそうです。あるいは、単に聖書や神学に関する 知識を身につけることでもないでしょう。真理、正義云々を身につけよと言わ れ、神の言葉を取りなさい、と言われているところで具体的にイメージされて いるのは、恐らくごく当たり前の信仰生活であろうと思われます。何ら特別な ことではありません。主を礼拝し、福音の言葉を聞き、キリストの裂かれた肉 と血にあずかり、福音に基づいて主に従って生きる新しい生活です。この生活 を身につけるということであります。信仰生活をきちんと身につけることなく して、闘いに勝てるはずがありません。
そして、「光の武具を身につける」ということが、さらに「主イエス・キリ ストを身にまといなさい」と言い換えられております。「身にまとう」という 言葉は、中身は変わらないで外側だけを変えるような印象を与えますが、ここ で語られていることはもちろんそのようなことではありません。外側だけキリ ストを真似することではありません。この言葉が表現する中心的な思想は「一 体となる」ということです。当時の密議宗教などでも、「神を着る」と言えば、 神との神秘的な合一を意味していました。しかし、パウロが意図しているのは、 神秘体験そのものではありません。彼は何よりも、キリストを着るということ と「洗礼」とを結びつけます。ガラテヤの信徒への手紙にはこう書かれていま す。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている からです」(3・27)。そうしますと、この「主イエス・キリストを身にま といなさい」という勧めの言葉は、洗礼において与えられているキリストとの 交わりの生活――「新しい命に生きる生活」(6・4)――を実質的に「身に つける」ということに他なりません。もちろん、まだ洗礼を受けておられない 求道中の方々にとっては、これを洗礼によって始まる新しい生活への招きとし て聞くこともできるでしょう。
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが 眠りから覚めるべき時が既に来ています。」
私たちは、今日も「目覚めて待て」との主の呼びかけを聞いています。これ は礼拝の度ごとに呼び掛けられている言葉であるとも言えるでしょう。眠りこ けてしまっているならば、ここで目を覚ますべきです。朝が来ないかのように 生きていたならば、もう一度朝の光の中に生き始めるのです。キリストを身に まとい、キリストとの交わりの生活を回復するのです。こうして私たちは、主 の御言葉を聞きながら、一週間一週間を刻みつつ、後戻りできない時の間を夜 明けに向かって共に生きていきたいと思うのであります。