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「御子の内にとどまりなさい」

1999年7月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 松原 茂牧師説教
聖書 Ⅰヨハネ2・18‐28

 「わたしたちの交わり、すなわち、御父と御子イエス・キリストとの交わりを 持つようになるために」(1・3)ヨハネはこの手紙を書いています。そして、 「わたしたちが互いに交わりを持つためには光の中を歩みなさい」(1・7)と、 すすめています。そのためには、「自分の罪を認め、自分の罪を告白するなら、 神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて くださいます」(1・9)と、述べています。

 「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その 人の内には真理はありません」(2・4)こう言って、偽りを語る人を、注意す るよう呼びかけています。「神の内にとどまっていると言う者は、自分もキリス トが歩まれたように歩まなければなりません」(2・6)。  ヨハネは「兄弟を愛する」ことを新しい戒めとして示しました。(2・7‐1 1)。また、「世と世にあるものとを、愛してはいけません」(2・15)と命 じました。もちろん、この世とは、神に背を向けて歩んでいる人たちのことです。

 「世も世にあるものも過ぎ去っていきます。しかし、神の御心を行う人は永遠 に生き続けます」(2・17)。永遠にキリストにあって御父と御子の交わりの 中にとどまることができると、慰めの言葉が語られています。以上のことを前回 までに学んでまいりました。

 2章12節に「子たちよ」とあり、今日学びます18節には「子供たちよ」と あります。ヨハネは「小さい子供たちよ」(12)、「幼い子供たちよ」(18)、 という言葉を使って、自分が教え育ててきた弟子や信仰上の子供たちに対する愛 情こめた呼びかけで書き出しています。

 18節「今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が 来ていると分かります」。ここで言われている「終わりの時」と訳されている 「時」は、「時間」が正訳です。この「終わりの時間」は、わたしたちの主イエ ス・キリストの十字架と復活による神の約束の成就のときから、天に在す主イエ ス・キリストの再臨による、救いと裁き、永遠の交わりの完成のときまでの「時 間」を、「終わりの時間」と表現しています。

 それでは「反キリスト」とは誰のことでしょうか。2章22節に「偽り者とは、 イエスがメシアであることを否定するものでなくて、誰でありましょう。御父と 御子を認めない者、これこそ反キリストです」とはっきりと言っています。わた したちの主イエスが初めに言として神と共にあった独り子である神。しかも、肉 となって、わたしたちの間に宿られたナザレのイエスが、キリストであることを 否定する者。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を否定する 者。言なる神が人間となり、罪人の救いを成就してくださったことを否定する者。 これが反キリストであります。

 肉の知恵によっては、イエスがキリストであると信じることは出来ません。聖 霊によって示されて、はじめてイエスがキリストであると告白できるのでありま す。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできない」 (Ⅰコリント12・3)と、パウロは語っています。

 19節「反キリストたちはわたしから去って行きましたが、もともと仲間では なかったのです」。 

 「わたしたち」とは、すなわち、キリスト者の群(教会)のことです。手紙に あります「反キリスト」は、不信仰な異教の世界の中で、起こっていたとしても、 それは不思議ではないでしょう(第二次世界大戦時の日本を参考)。しかし、そ うではなくて、わたしたちの「教会の中から去って行った」のです。

 「反キリスト」は、「教会の中で起きた」のです。そして、「キリスト者の群 (教会)を惑わせようとしている者たち」(2・26)のことです。

 〈今日わたしたちが生きているこの時代にも、教会の中に多くの反キリストが 現れています。1973年の12月号『福音と世界』は「イエスとは誰か」とい う副題の特輯でありました。巻頭言に、「イエスを教会の中にとじこめてはいけ ない。教義の結晶と化したイエス像を解体して、現象の中で自由なイエス像を再 建する」という主張です。これを平たく言えば、イエスを神の子キリストと信じ るような、教義化されたイエスを否定して、時代時代の要求に合わせて、自由な 歴史のイエス、人間イエスを求めようということです。それが、今日の日本の教 会から出てきている反キリストです。パウロは「だから、目をさましていなさい 」と、今日のわたしたちにも警告しているのです。〉(田中剛二)。現に、牧師 を名乗っている人たちの中に、公然と「イエスはキリストではない」と、語って いる人たちがいるのです。

 20節「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理 を知っています」。わたしたちは聖なる方から聖霊を与えられていますから、偽 預言者が語っている霊が神から出た霊かどうかを分別する力、確かめる力が与え られています。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い 表す霊は、すべて神から出たものです。イエスのことを公に言い表さない霊はす べて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です」(4・2)。

 23節「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言 い表す者は、御父にも結ばれています」。 

 イエスは、弟子たちに語っていらっしゃいます。「父がわたしの名によってお 遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことを ことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14・26)と。

●初めから聞いていたこと

 24節「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。もしも初めから聞い ていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば(とどまっているなら)、あ なたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう(とどまることにな ります)」。

 「初めから聞いていたこと」とは、1章1節に「初めからあったもの、わたし たちが聞いていたもの」のことであり、「よく見て、手で触れたもの」のことで あります。すなわち、命の言のことであります。それは、「神の子イエス・キリ ストの福音」(マルコ1・1)のことです。「イエスはガリラヤへ行き、神の福 音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい 』と言われた」(マルコ1・14‐15)。「神の国の福音」(ルカ4・43)。 「キリストの福音」(ローマ15・19、Ⅱコリント2・12、他)とは、イエ ス・キリストが述べ伝えられた「福音」のことであります。イエス・キリストが 宣べ伝えられた「福音」とは、実は御自身のことであり、御自身が神の子、イエ ス・キリストであるということであります。イエス・キリストである御自身が福 音として宣べ伝えられたのであります。24節は、「あなたがたは、自分の心の 中に初めから聞いていることをとどめておきなさい」とありますが、それは、 「イエス御自身が神の約束された福音であるということを心にとどめなさい」と いうことであります。「伝えられた福音を堅く立って守りなさい」ということで あります。「そうすれば、あなたがたは、御子と御父のうちに、いつもとどまり 居ることになる」(2・24)。そして、「これこそ、御子がわたしたちに約束 された約束、永遠の命なのであります」(2・25)。

 わたしたちが御子と御父との交わりの内にあることが、わたしたちに約束され た永遠の命なのであります。もう一度、第1章3節を読んでみましょう。「わた したちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたし たちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちとの交わりは、御父と御 子イエス・キリストとの交わりです。」

 「わたしたちが御子と御父との交わりを持っているということと、永遠の命を 持っているということは、ひとつのことなのです」(田中剛二)。

 このところを学びながら、みなさんはヨハネの福音書15章に書かれている 「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつな がっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わ たしを離れては、あなたがたは何もできないからである」という御言葉を思い起 こされるでありましょう。「わたしにつながっていなさ」(4)。「つながる」、 あるいは「とどまる」、また「宿る」、という言葉は「堅く立つ」、また「守る 」という言葉でもあります。動かされないでしっかり留まっている場、それはま ことのぶどうの木であるイエスであります。

●御子から注がれた油

 27節「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油があります から、誰からも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。 それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の うちにとどまりなさい」。

 ヨハネは、反キリストの教えや惑わしに対して、「あなたがたの内には、御子 から注がれた油(聖霊)があります」と述べています。2章20節に「しかし、 あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」と あります。この油が、わたしたちを惑わす者たちの教えを見分け、退ける力を与 えてくださるのであります。聖霊が「初めから聞いていたこと、すなわち、真理 でありたもうイエス・キリストをわたしたちの福音として教え続けてくださるの であります。わたしたちはこの油、すなわち聖霊によって教えられる福音の真理 を堅くもち続けねばなりません。

 28節「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」。ヨハネは繰り 返して、「キリストの内にとどまっていなさい」とわたしたしに勧めています。 わたしたしが御子の内にとどまっていれば、多くの実を結ぶようになる(ヨハネ 15・5)と、主イエスは語っておられます。それは、「キリストとの交わりに あって、光の中を歩く」ことを意味しています。

 さらに28節は述べています「そうすれば、御子の現れるとき、御前で恥じ入 るようなことはありません」と。

 十人の乙女が結婚披露宴に招待されました。これらの乙女のうち、五人はとう とう宴に加われませんでした。それは、彼女らがランプの油を蓄えていなかった からでした。火の灯ったランプなしには宴に加われなかったのです。そこで、彼 女たちは花婿の到着がおくれて、いざという時、油を買いに走らねばなりません でした。帰って来た時には門は閉ざされておりました。外から中をのぞいている 彼女らの無念さはいかばかりであったことでしょうか。五人の若い乙女たちは、 他の五人がしなかった誤ちを犯しました。彼女たちは、お化粧や服装に気を取ら れていて、式が「定刻」に始まらなかった場合の余分の油を用意することをすっ かり忘れていたのでありました。

 イエスがこの譬えをなさった文化が伝統的な文化であるとしますと、時間どお りにはいかない東洋にあっては、結婚式のような行事には貴賓の到着を待って開 始されます。五人の乙女の愚かさは、花婿が到着する時間を、自分たちの考えで 決められるかのように思ったことにあります。この乙女たちは花婿が今すぐにで も来ると思っていました。ところが、理由はどのようであれ、花婿は自分たちが 予期した時間には来なかったのです。

 考えてみますと、これらの乙女たちの愚かさは、キリストがある特定の時間、 または特定の期間に来ると信じ、神が用意されたものに対して十分に備えること を怠った過去または現在の多くのキリスト者たちの愚かさでもあります。

 キリストの來臨を待ち望んでいることは正しい。しかし、キリストの來臨の時 間を自分で計算して、そのうえで、いろいろの決断をするのは間違っています。 わたしたちは今日、主がおいでになるかのように行動すべきでありますが、また、 千年先までおいでにならないかのように計画を立てるべきであります。ここに緊 張があります。しかし、それこそ、まさにイエスが言われたことであります。

 ヨハネが言うように「キリストが現れる時間に、確信を持ち、その來臨に際し て、みまえに恥じいることがない」ためには、1章5から7節のように「キリス トとの交わりにあって、光の中を歩む」と教えています。

 「マラナ・タ」(Ⅰコリント 16・22、黙示録22・20)、これは、キ リスト者の合い言葉でした。使徒信条に、「かしこより来りて生ける者と死ねる 者とを審きたまわん」とわたしたちが告白していますように、審判者として来り たもう再臨の主イエス・キリストの御前に、すべての者が立たなければならない のです。

 わたしたちがキリストの内にとどまり続けるならば、そのときに、わたしたち は「確信を持って」御前に立つことができます。毎日「キリストの内にとどまっ ていること」が、わたしたちが再臨に備える最善の道です。

 3章24節に次のようなヨハネの言葉を聞くことができます。「神の掟を守る 人は、神の内にいつもとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」 と。

 「神の掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命 じられたように、互いに愛し合うことです」(3・23)。

 
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