「主のものとして生きる」
                          ローマ14・1‐12


 主イエスはこう言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないように

するためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り

与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中

の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて

ください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者

よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになっ

て、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7・1‐5)。

 マタイが書き記しました、山上の説教と呼ばれる主イエスの一連の説教は、こ

の世界一般に対する倫理的な教えではありません。マタイがまず念頭に置いてい

るのは、この世界一般ではなく、主の弟子たちです。教会なのです。ですから、

マタイはあえて、これらの主の言葉を書き記す前に、「イエスはこの群衆を見て、

山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた」(5・1)と

書いております。ですから、人を裁くなと命じられているのは、まず主の弟子た

ちに対してなのです。裁き合いが問題となるのは、この世においてではなく、何

よりもまず教会の中においてです。自分の目に丸太があることに気づかなくなる

のは、誰よりもまず信仰者なのです。

 それは先にお読みしましたパウロの手紙を読んでも分かります。「食べる人は、

食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いては

なりません」(ローマ14・3)。このように書かざるを得なかったのは、肉を

食べるか食べないかということで、他人を軽蔑する人もいれば、裁く人もいるか

らに他なりません。教会の中の話です。他人事ではありません。私たちの教会に

おいても十分起こり得る事であります。現に私たち自身、身近に経験しているこ

とであるかも知れません。私たちは今日改めて、ここに書かれていることを私た

ち自身への言葉として聞きたいと思うのであります。


●信仰の弱い人、強い人

 まずこれが語られている特定の状況に目を向けて見ましょう。「何を食べても

よいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(2節)

と書かれています。そこには肉を食べる人と食べない人がいます。5節をご覧く

ださい。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考え

る人もいます」(5節)。肉を食べるか食べないか、特定の日を守るか守らない

か。これが具体的な信仰生活と結びついて争いを生み出していたことが分かりま

す。

 「野菜だけを食べている人」「ある日を尊ぶ人」――これらがいったいどのよ

うな人々であったかはよく分かりません。コリントの信徒への手紙(第一)には、

偶像に備えられた肉を食べることを避けた人々が出てきます。(1コリント8章)

一般的に市場に出回っている食用の肉は、多くの場合一度偶像に捧げられたもの

であったという当時の事情がそこにあります。だから知らずにそのような肉を食

することがないように、むしろ肉食そのものを断った人々がいたのです。ローマ

の教会にも、そのような人々がいたのかも知れません。あるいは当時の時代思潮

や他の宗教的な理由から来た禁欲主義であったのかも知れません。

 いずれにせよ、そのような人々は「信仰の弱い人」と呼ばれております。パウ

ロも一応そのような呼び方を承認しているように見えます。野菜だけを食べ、特

定の日を重んじる禁欲的な人々が「信仰の弱い人」と呼ばれていることは奇妙に

聞こえるかも知れません。しかし、パウロがあえてそのように呼ぶことを良しと

しているのは、彼らの禁欲が本質的には信仰とは無関係なところから来ているか

らであります。

 確かに、人が信仰者となって後にもなお、以前受けたものを引きずっていると

いうことがよくあります。それは幼い日に受けた教育であるかも知れません。あ

るいは育ってきた環境からの影響であるかも知れません。周りの人々から植え付

けられた迷信的な恐怖であるかも知れません。時代の思想の感化であるかも知れ

ません。そして、引きずっているものによって物事に対する感じ方が違ってくる

のです。ある人にとって些細なことが、他の人にとっては人生の一大事に思えま

す。ある人には取るに足りないような事が、他の人にとっては耐え難いこととな

るのです。

 そのような過去から引きずっているものが、信仰生活に持ち込まれます。する

と、信仰生活にとって本質的に重大ではないことが重大なことであるかのように

思えてくるのです。ある人にとっては肉を食べようが食べまいが、大したことで

はありませんでした。しかし、他の人にとっては、重大なことだったのです。そ

こで裁き合いが起こります。食べる人が食べない人を軽蔑します。食べない人が

食べる人を裁きます。こういうことは、私たちの身近にいくらでもあると思いま

せんか?

 もちろん、パウロは「裁くな」という言葉をもって「何をしたって良いではな

いか」ということを言っているのではありません。信仰生活の根幹に関わること

があります。人間の救いに本質的に関わっていることがあります。神との関係に

決定的に関わることがあります。それに対しては、パウロ自身、「然りは然り、

否は否」と言います。

 例えば、「人は割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張

する人々については、「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者

がいれば、呪われるがよい」(ガラテヤ1・9)とまで言います。間違った教え

で人々を惑わそうとする教師たちについては、「あの犬どもに注意しなさい。よ

こしまな働き手たちに気を付けなさい」(フィリピ3・2)とさえ言うのです。

性的な不道徳を悔い改めようとしない人々について、「そのような生き方もあり

ますよ。彼らを裁いてはなりません」などと言いません。「わたしは体では離れ

ていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者

を既に裁いてしまっています」(1コリント5・3)と言うのです。みだらな行

いは、聖霊の神殿である体に対して罪を犯すことだからです。

 神との関係において本質的に重要なことは厳しく判断されねばなりません。し

かし、考えて見てください。私たちの間に起こってくる裁き合いは、往々にして

そのような事柄を巡ってではないのです。本当に大事なことはいい加減にしてお

きながら、もう一方で自分が過去から引きずっている感覚や理解に基づいて裁き

合っていることの方が圧倒的に多いのです。ほとんどの場合、肉を食べるか食べ

ないか、という次元で争っているのです。


●どちらも主のもの

 それゆえ、私たちはここに書かれていることに、よく耳を傾けなくてはならな

いのです。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない

人は、食べる人を裁いてはなりません。」なぜでしょう。その理由は明白です。

「神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 私たちは人を裁きたくなった時、軽蔑したくなった時、この言葉を心の内で繰

り返す必要があります。「神はこのような人をも受け入れられたからです。」神

が受け入れられたということは、その人は神のものである、ということです。主

人は主なる神に他なりません。私たちが主人のような顔をすることはできません。

私たちが主人である神を尊重するならば、他のキリスト者を同じ主人の召使い
として尊重しなくてはなりません。そうでないと、分を越えることになります。

ですから、パウロはこう言うのです。「他人の召使いを裁くとは、いったいあな

たは何者ですか」(4節)。他人の召使いを裁くならば、その召使いの主人は
「あなたのしていることは余計なお世話だ」と言うでしょう。私たちが他人を裁

いている時、ほとんどの場合は余計なお世話なのです。普段、永遠の命に関わる

本当に大切なことをいい加減にしていながら、やっていることは余計なお世話ば

かりなのです。

 しかも、よく考えますと、私たちが単に人を裁いているだけである時には、そ

の人に本気で関わっているわけではないのです。その時、本気で関わってくださ

っているのは主御自身なのです。そして、実際、召使いが立つのも倒れるのも、

その主人によるのです。私たちによるのでも、その人によるのでもありません。

その主人である御方こそ、誰よりも愛と真実に満ちた御方です。人間は不真実で

あっても、この方は真実です。だから、パウロは言うのです。「しかし、召使い

は立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」(4節)。

人を本当に立たせるのは、真実の欠けた私たちのつまらぬ裁きの言葉ではありま

せん。主御自身なのです。

 そして、「他人の召使い」だけでなく、私たち自身もまた「主のもの」である

ことを忘れてはなりません。私たちの行動は、他人をどう見るかだけではなく、

自分をどう見るかにもかかっているからです。

 パウロは、私たちは皆、裁いている者も裁かれている者も、本来どのような者

であるかを語っております。私たちは皆、「主のもの」なのです。であるならば、

「何をするか」ということよりも、「誰のためにするのか」ということの方が重

要であるはずです。主のものであるならば、何をするにしても、主のためにして

こそ初めて意味を持つからです。主は単に行動やその結果に関心があるのではあ

りません。その動機をご覧になっておられるのです。ですから、パウロはこのよ

うに話を続けるのです。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる

人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主の

ために食べない。そして、神に感謝しているのです」(6節)。食べるにしても、

食べないにしても、もしそれが主のためだったら、それで良いではありませんか。


 私たちはあまりにも目の前の事柄、目に映る現象に捕らわれ過ぎているのです。

私はこれをしているのに、あの人はこれをしていない。私はこれを止めているの

に、あの人は平気で続けている。いつもいつも、自分の行動を他人と比較して、

その比較に捕らわれて生きているのです。しかし、本当に大切なことは、他人が

どうであるかではありません。私たち自身の人生に、しっかり一本の背骨が通っ

ているかどうかなのです。「主のものである」という背骨が通っていることなの

です。

 「主のものである」ということは、単にある事をするかしないか、あるものを

断つか断たないか、ではないのです。パウロと共に次のように言い得ることなの

であります。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だ

れ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のため

に生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬに

しても、わたしたちは主のものです」(7‐8節)。

 実に、主が十字架にかかられ苦しんで血を流して死なれたのは、そして死を打

ち破って復活してくださったのは、私たちがそのように言い得るためでありまし

た。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主と

なられるためです」(9節)とパウロが言っているとおりです。私たちは、十字

架で死なれ復活した主の前で繰り返しこう言わなくてはなりません。「わたした

ちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」

この言葉を何度も何度も繰り返すべきです。そうすれば、食べるか食べないかの

次元で争っていることが恥ずかしくなるに違いありません。

 そして、それが恥ずべきことであり愚かなことであったと、本当の意味で知る

時がやってくるでしょう。なぜなら、最終的に、私たちは主のものとして、神の

裁きの座の前に立つことになるからです。そこで問われるのは、食べるか食べな

いかの事柄ではありません。私たちは主のものであるか、そうではないか、とい

うことです。そして、主のものとしてどのように生きたのか、ということであり

ます。そこで私たちが申し述べることができるのは、他の誰かのことではありま

せん。今は、自分のことから目を逸らし、他の人のことを語っていられるかも知

れません。しかし、そのように語り得ない時が来るのです。そのことを弁えなく

てはなりません。その時は必ず来るのです。「わたしたちは一人一人、自分のこ

とについて神に申し述べることになるのです」(12節)。

 そこで私たちは、正しい裁きをなされる方によって裁かれるべき者は、他なら

ぬ私でありあなたであることを知ることになるでしょう。そしてまた、赦しと憐

れみとを必要としているのは、他の誰かではなく、私でありあなたであることを

知ることになるでしょう。そこで私たちは、他ならぬ私のために、あなたのため

に、死んでよみがえってくださった救い主を、裁きの座から仰ぎ望むことになる

でしょう。そして、この救い主によって主のものとされた者として、今たとえ裁

き合っている者たちであっても、その時には共に主の前に膝をかがめ、その舌を

もって神を誉め讃える者としてそこにいるのです。