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「本当に自由な人とは」

1999年8月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ14・13‐23

「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」とパウロは言います。こう言 われていますのは、14章の前半に書かれていますように、教会の中に裁き合っ ている人々がいたからです。原因は、肉を食べるか否か、特定の日を重んじるか 否かについての見解の違いでありました。それは私たちの目から見ると滑稽に見 えることであるかも知れません。しかし、考えてみますなら、私たちも似たよう なことをしているものです。

肉を食べないことを主張した人々でありましても、そのような捕らわれからの自 由を主張した人々でありましても、彼らは決して悪意をもってそれをしていたの ではありません。決していい加減な不真面目な人々ではないのです。どちらも良 いキリスト者でありたいと願っていたでしょうし、どちらも教会を愛していたに 違いありません。個人としても教会としても、それが神の御心に適ったものとな るようにと願っていたはずなのです。しかし、それにもかかわらず、彼らが裁き 合い、争っていることにおいて、既に神の御心からはずれているという皮肉な現 実がそこにありました。実に、「もう裁き合わないようにしよう」という言葉は、 私たちもまた、繰り返し聞かなくてはならない呼びかけであるに違いありません。

●愛に基づいた配慮

さて、パウロは論述を続けますが、彼が第一に語りかけているのは、「強い人々」 に対してであることを見落としてはなりません。すなわち、自分たちは何にも捕 らわれていない、非本質的なことに捕らわれていないと考えている人々です。信 仰によって自由とされていることを主張している人々です。既に14章の1節に おいて、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」 と書かれていたとおりです。パウロも、その強い人々と共に身を置いて語ってい ます。今日読みました箇所の直後、15章1節には「わたしたち強い者は、強く ない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と書 かれています。人が共に生きるためには、まず強い者たちに求められていること があるのです。

それは一言で言うならば、「愛に基づいた配慮」であります。これこそ、私たち が共に生きるための鍵となるものです。ですので、パウロは「もう互いに裁き合 わないようにしよう」と言った上で、「強い者」に向かって、「むしろ、つまず きとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」 と言っているのです。

強い者が「私たちは自由なのだ」と言って行っていることが弱い者のつまずきと なることがあるのです。ある人が、「わたしがこのことを行うのは全く問題ない。 誰からもとやかく言われる筋合いのない当然の権利であり当然の主張である」と 言ったとします。それは間違ってはいないかも知れません。しかし、その人にとっ ては問題ない行為が、それが他の人にとってはつまずきになり、信仰生活の妨げ になるということがあり得るのです。だからそのようなつまずきとなるものを置 かないようにしなさい、とパウロは言っているのです。具体的には、この場合、 「誰かがそのことでつまずくならば、肉を食べるのをやめなさい」ということで す。

「肉を食べることは自由だ」と考える人があえて肉を食べないということは、そ の人の持っている自由の一部を放棄することに他なりません。パウロは、その自 由の部分的放棄を求めているのです。強い者たちが「私は自由だ」と言うならば、 その自由を部分的に放棄できるほど自由であって欲しい、ということなのでしょ う。このように、あえて自由の一部を放棄することこそ、先に述べました「愛に 基づいた配慮」に他なりません。このことこそ、私たちが共に生きるために必要 とされていることなのです。

このことについて、パウロの言葉に沿って、もう少し考えてみましょう。彼は、 具体的に「食べ物」という一つの争点を取り上げています。「食べ物」について の、彼の基本的な見解はこうです。「それ自体で汚れたものは何もないと、わた しは主イエスによって知り、そして確信しています」(14節)。これは主イエ ス御自身が、ファリサイ派の律法主義に対して主張されたことでありました。 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から 出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7・14)。つまり、「汚れ」に ついて、主イエスは食べ物のことよりも、もっと本質的なことを語られたのです。 「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思い が出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、 好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人 を汚すのである」(同7・20‐23)。このゆえに、パウロは、食べ物につい ては「それ自体で汚れたものは何もない」と言うのです。

しかし、その後でこう付け加えます。「汚れたものだと思うならば、それは、そ の人にだけ汚れたものです」。つまり、同じ肉を食べるにしても、「これを食べ ることは全く問題がない」と思っている人が食べるのと、「これは汚れている、 これを食べることは悪いことだ」と思っている人が食べるのとでは、その意味合 いが全く異なるということです。後者にとっては、事実、その肉は汚れたものと なってしまうのです。

この場合、弱い者が信仰を強められ、今まで捕らわれていたことから解放され、 本当に自由な者となって肉を食べるようになるなら問題はありません。しかし、 裁き合いによって弱い者の信仰が強められることはないでしょう。パウロが恐れ ているのは、裁き合いの中で、弱い者が弱いままで肉を食べるようになることな のです。つまり争いの中で押し切られて、あるいは影響されて、良心を痛めなが ら肉を食べるようになることなのです。なぜなら、そこにこそ罪が生じるからで あります。「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に 定められます」(23節)とは、そういうことです。

誤解を恐れずに言いますならば、罪において本当に問題なのは「何をするか、何 をしたか」ではないのです。「神の前に正しくないと思うことを、あえて神に逆 らって行うこと」が問題なのです。「肉を食べることは正しくない」と思う人が あえて食べることは、その人を神から引き離すことになってしまいます。その人 を神から離れた失われた人にしてしまうのです。だから「食べ物のことで兄弟を 滅ぼしてはなりません」とパウロは言うのです。食べ物が「汚れている」のでは ありません。すべては清いのです。しかし、それが人を罪に誘うものとなり得る のです。その時、それは悪いものとなります。私たちが問題ないと思って行って いることが、他の人を罪に誘うことになるかも知れません。私たちが平気で行っ ていることが、他の人を神から引き離すことになるかも知れないのです。

だから、その自由の一部を放棄しなさい、とパウロは勧めるのです。ローマの教 会の場合、それは「肉を食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘 うようなことをしないのが望ましい」ということでした。コリントの教会でも同 じようなことがありました。パウロは、コリントの信徒への手紙においてもこう 言っています。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらい なら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」 (1コリント8・13)。本当に自由な人の言葉とは、このようなものであると 改めて思わされます。

●義と平和と喜びに生きる

このような自由は、神の御業を知る者の自由であります。そこにこそ信仰による 自由があります。彼は常に神の御業を思いつつ、ここに書かれている勧めをも語っ ているのです。それは言葉の端々に現れております。 なぜ「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはならない」のでしょう。パウロは言いま す。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(15節)からで あります。彼はキリストにおいて現わされた神の愛を思います。彼は、信仰の兄 弟であっても、その人を直接見てはおりません。その人との関わりは直接的なも のではありません。彼は自分と兄弟との間に常にキリストを見ています。パウロ はキリストを通して隣人を見ているのです。

このように、私たちもまた、キリストを通して他者を見なくてはなりません。キ リストはその人のためにも死んでくださった。そのような人としてお互いを見な くてはなりません。教会が家族的に見えても、どれほど団結しているように見え ても、キリストを通してお互いを見ることができなくなるならば、その関係は成 り立たなくなります。自然な心情に基づく人のつながりは脆いものです。そこに 愛の配慮は成り立ちません。人は自由をあえて放棄しようとはしなくなるのです。 「キリストはその兄弟のために死んでくださった」。私たちが愛に従って歩もう と思うなら、この言葉を忘れてはならないのです。

そして、さらにパウロは神の御業によって与えられている神の国を思います。彼 は言うのです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平 和と喜びなのです」(17節)。

「肉を食べてはならない」という主張がつまらぬこだわりであるならば、「肉を 食べることは自由だ」という主張もつまらぬこだわりに過ぎません。なぜなら、 神の支配のもとに生きる信仰生活には、もっと大きな素晴らしいことが与えられ ているからです。肉を食べる自由などは、それに比べるならばまったく小さなこ とでしかないのです。それは異なる事情のもとにある私たちにおいても同じです。 私たちもまたは、神の御業によって与えられている大きなものに、まず目を向け なくてはなりません。

「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」。これが何を意味するかは、既にこ の手紙において語られてきました。本当は、共に1章から11章までをここでお 読みしたらよいのかも知れませんが、そのために十分な時間はありません。家で ゆっくりと読み返してみてください。ここでは一箇所だけを共に振り返ってしみ たいと思います。5章をお開きください。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主 イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、 今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしてい ます」(5・1‐2)。

義とは、神と私たちとの正しい関係です。これは私たちが獲得したものではあり ませんでした。恵みの賜物として与えられたものでした。それは一重にキリスト のよるものです。その直前にこう書いてあるとおりです。「イエスは、わたした ちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたので す」(4・25)罪人であるわたしたちの罪のために主は死に渡されました。そ して、私たちが神との正しい関係に入れられ、新しい命に生きる者とされるため に、復活してくださいました。

このキリストのゆえに、私たちは神との平和が与えられたのです。それゆえにパ ウロは義に続いて平和について語ります。これは何よりもまず神との平和です。 もはや神は私たちの敵ではなく、私たちは神の敵ではありません。私たちの生活 に嵐が吹き荒れようとも、私たちに死が襲いかかろうとも、神との平和は揺らぎ ません。この神との平和があって初めて、私たちは自分自身との間に平和を得る ことができます。そこに真の平安が訪れるのです。また、この神との平和があっ てこそ、他者との間に平和を得ることができるのです。

そして、神との平和があるゆえに、私たちには未来があります。希望があります。 未来をその手に握っておられる方との間が平和だからです。そこに真の喜びがあ ります。未来に対して喜びをもって顔を向けることのできない人は、今つかの間 の喜びがあったとしても、それはまことに儚いものであると言わざるを得ません。 神が与えてくださったのは、そのようなものではないはずです。聖霊による喜び は、私たちに希望をもって未来へと向かわせる喜びです。最終的に、神の栄光に あずかる希望を誇りとして生きることを可能とさせる喜びであります。それゆえ に、パウロは、神の国は聖霊による喜びだ、と語るのです。彼はこの喜びのゆえ に、「苦難をも誇りとします」とさえ言うのです。この喜びのあるところでは、 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すのです。

この義と平和と喜びに生きることこそ、神の国の民として生きることに他なりま せん。このことを考えますならば、「信仰によって自由にされているのだから肉 を食べても大丈夫なのだ」などというこだわりが、いかに小さなつまらないもの であるかが分かります。神の与えてくださっている大きな大きな賜物を思う時、 私たちがしがみついているものなど、まことに小さなつまらないものであるに違 いありません。でありますならば、そのような小さなつまらないものについての 自由の一部を放棄してでも、むしろ前を向いて共に生きるべきであると言えるで しょう。それゆえに、パウロはこのように勧めているのです。「だから、平和や 互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の 働きを無にしてはなりません」(19‐20節)。

 
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