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「完全な者となりなさい」

1999年8月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 松原 茂牧師説教
聖書 マタイ5・43‐48

 人間にとって大切なことのひとつに、完全な休息を得ることがあると思います。 平和で、みんな仲良く、安心して働き、良く遊び、また、勉強する。そして、ゆ っくりとくつろいで休息する。それは、まるで天国だと思えるでしょう。このよ うな世界をつくりたいと願って、人間は歴史を形成してきたといえるでしょう。

 ところが、現実はどうでしょうか。聖書には、アダム、エバの時代から、イエ ス・キリストの時代まで、誰一人として、完全な者、平和な者はいないと書かれ ています。ローマ3章9‐17節には、次のように書かれています。「ユダヤ人 もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。『正しい者はいない。一人もいない。 彼らは平和の道を知らない。』」と。

 今日学びますテキストは、有名な、山上の説教(5‐7章)の中の、5章の終 わりのところに出てきます。イエスさまは、「隣人を愛することは、人間にとっ て最も大切なことだ、と言うことは聞いているでしょう。しかし、私は言ってお きます。『あなたがたの敵を愛しなさい。また、あなたがたを迫害する者たちの ために祈りなさい。』このように、天にいます、あなたがたの父の子らと成るた めに、」と。

 旧約聖書の中に、印象深い物語りがあります。サウル王とダビデのお話です。 サウル王はダビデを何とかして殺そうと、彼を追いかけました。ところがある時、 ダビデはサウル王を殺そうと思えば、殺せるチャンスがありました。しかし、神 から油をそそがれているサウル王を殺すことをしませんでした。主なる神さまは、 ダビデを祝福されて、王位を与えられました。

 イエスさまが語っておられる敵は、弟子たちにとっての個人的な敵を指してい ました。律法学者にとって「隣人を愛し」の「隣人」とは、同邦人イスラエル人 のことであって、異邦人は「敵」とされていました。したがって「敵」を愛する ことは、「同邦人」も、「異邦人」も等しく隣人として愛し、「自分たちを迫害 する者」、「徴税人」をも愛することです。「また、彼らのために主なる神さま に祈りなさい」と命じられました。「徴税人」はユダヤ人であっても、異邦人の ローマのために税金を徴収する者であり、税金の差額を着服する盗人、売国奴と いわれていました。また、エドム人、ヘロデ王の支配下にあったユダヤ人にとっ て異邦人は文字どおり「敵」であり、「迫害する者」でありました。本能的に憎 くてたまらない存在である敵を愛しようとするためには、生れながらのイスラエ ル人にとって、また、弟子たちにとって情的に「愛する」ことは出来るものでは ありませんでした。これは、キリストさまが弟子たちの心の中に宿り、働いてく ださる時にのみ、キリストさまの御意志が、そのことを可能にしてくださるので あります。イエスさまが弟子たちに「敵のため、迫害する者のために祈りなさい。 」と命じられたとき、弟子たちの祈る祈りは、敵を愛する心へと変えられていき ました。

 イエスさまは病を癒されるとき、「あなたの罪は赦される」(マタイ9・2、 他)、「あなたの罪は赦された」(ルカ7・48)とおっしゃいました。イエス さまによって「あなたの罪は赦された」と宣言された人たち、また、病を癒され た人たちは、それこそ、その喜びを躍り上がったり、とびはねたりして表現しま した。

 「旧約聖書において、敵に関する祈りが出てくる時は、敵に対抗するための祈 りであって、敵のための祈りは全くありません」。しかし、イエスさまは「祈り の歴史上、はじめて、祈る人をおそう者たちへのとりなしの祈りを、弟子たちに 要求されたのであります」(ローマイヤー)。イエスさまは彼を憎んでいたユダ ヤ人の指導者たち、大祭司、長老、また、ファリサイ派の人たち、そして彼らに 扇動された民衆、そそのかされたピラトによって、十字架につけられました。十 字架上のイエスさまは、「父よ彼らをお赦しください。自分たちが何をしている のかわからないからです」(ルカ23・34)と、まさしく主イエスさまは御自 身を迫害する者のために、とりなしの祈りを天の父なる神にしていらっしゃるの であります。

 教会は、この主イエスさまのとりなしの祈りが、自分たちのためであったこと を示され、悔い改めました。そして、主に感謝と、祈りと、讃美の礼拝をささげ たのであります。

 ステファノは(最後の)証しを、最高法院でしたとき、それを聞いた人たちは 激しく怒り、都の外に彼を引きずり出して石を投げ死に至らしめました。ステフ ァノは主に「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」「主よ、この罪を彼 らに負わせないでください。」と大声で叫んで、眠りにつきました。(使徒7・ 54‐60)ステファノの祈りは、主に最も近くある祈りであります。

 45節には、主イエスさまが「天の父が完全であられる」事実を語られていま す。天の父は、善人だけに太陽の光と熱をそそがれておられるだけでなく、悪い 者であるわたしたちにも太陽を昇らせてくださいます。恵みの雨を、良い人、正 しい人に降りそそいでくださるだけでなく、全く同じように、正しくないわたし たちにも降りそそいでくださるのであります。この譬の中に、天の父は悪い人を も善い人をも差別することなく、働いていることを示され、わたしたちに、敵を も愛するように教えてくださっているのであります。そうすることによって、 「天の父の子であることを現すことができるのだ」と、おっしゃっておられます。

 イエス・キリストさまを通して示された天の父の御旨は、このように、自然に も反映しているのであります。まことにキリストさまにおいて啓示せられた天の 父の御性質から、自然界にもあらわされている天の父の栄光に、気付かせられる のであります。この天の父の限りない御憐れみを知り、その憐れみによって天の 父の子として愛されていることを信じるとき、敵を愛することこそが、御父の子 の本来のあり方なのだと知らされるのであります。

 選民であることを自覚しているユダヤ人にとっって、「自分を愛してくれる人 を愛し」「自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで」(46、47)、彼らが日頃 から軽蔑している徴税人や異邦人と、何ら変わるところのない自己愛の生活であ ります。律法学者やファリサイ人の義は、究極的には、彼らの忌み嫌っている者 たちと同じであると、イエスさまは宣告しておられます。

 48節の結びのところで、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あ なたがたも完全な者となりなさい」と命じておられます。ここで語られている 「完全な」は、「完璧」ととられやすいのです。しかし、この「テレイオス」と いう形容詞は元来「欠けたところがなくて、すべて整っている」という意味を持 っています。ヘブライ語で「シャレーム」と言いますが、やはり、全部揃ってい て抜けていないという意味があります。

 わたしたちが部分的に愛して、「誰それは嫌いで愛せない」とか、「この人は 問題外」という具合に、「不完全な愛しかた」のことではありません。主は、わ たしたちを目の敵にして狙っている人を含めて、全部覆っているのがシャレーム、 すなわち「完全」なのであります。イエスが使っておられたと思われる西アラム 語は、ヘブライ語とは語源がつながっているものが多いと言われています。ヘブ ライ語の「新しい契約」すなわち、「新約聖書」には、この箇所には、へユー・ シュレミーム「完全な者であるように」と記されていますが、この形容詞シュレ ミームは、創世紀34章21節では、「仲良し」(新共同訳)と訳されています。 また、ヘブライ語大辞典によりますと、「平和な」の意味を持っていることが分 かります。すなわち、48節の「完全で」、「完全な」は「平和な」または、 「仲良く」の意味内容を持っていることが理解できます。そうしますと、48節 を次のように訳すことができるのではないでしょうか。「あなたがたの天の父が (完全に)平和であられるように、あなたがたも平和な(仲良い)者となりなさ い」と。そのような理解が与えられますと、ここの43‐48節の「敵を愛し」 の文脈が、山上の説教のマタイ5章9‐12節の文脈につながっていることが頷 け、イエスさまの言葉の意味が、明確にわたしたちに伝わってくるではありませ んか。

 「平和を実現する人には」(9)どんな苦しみが、待ち受けていることでしょ う。また、耐え忍ばねばならないところを通らねばならないことでありましょう か。「義のために迫害される人々は」(10)天の父の子の栄光をあらわす者と される、何と幸いなことでありましょう。「わたしたちのためにののしられ、迫 害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」(11)、天 の父が全き平和でいらっしゃることを知り、かつ、わたしたちに望んでおられる ことがわかっていますから、わたしたちは何と幸いなことでありましょうか。こ の小さい体いっぱいに喜びが湧き上がってくるのを覚えます。喜ぶなと言われて も、この大きな栄光に浴していることを喜ばないわけにはまいりません。まこと に天において大きな報いがあることを見させていただけるのであります。また、 弟子たちや、わたしたちだけが迫害されるのではありません。イエス以前の預言 者たちも迫害を受けたのであります(12)。

 わたしたちに必要なことは、主が命じておられるように、「敵を愛し、敵のた めに祈る」ことであります。「敵を愛し」ということの「敵」というのは、「あ なたが憎くて憎くてたまらない」ような人、あなたを何とかして傷つけてやろう、 という悪意と執念を持っている人のことであります。そんな人を憎み返すのでな く、愛して大事に思うというのがここの意味であります。神を持たない異邦人で あるなら自分の好き嫌いで仲間にだけ、都合の良い相手にだけ挨拶して事足れり とするでしょうが、それでは、強慾の象徴のように皆が言うところの徴税人と変 わりがありません。自分の都合や自分の憎しみに基づいて、欠けだらけ、例外だ らけの愛しかた、全部揃っていない赦し方に対して、天の父が全部覆ってくださ るような丸ごとの愛し方、100パーセント包み込んでくださるような赦し方が できるようになりなさい、というのが、ここの締めくくりの「完全な者でありな さい」の意味だと思います。

 わたしたちの中には、第二次世界大戦中の日本におけるキリスト教弾圧を経験 された方がおられます。こういう「極限状態」で信仰がためされることがありま した。また、戦いの現場で苦悩された方も大勢いました。その時代に、戦争と天 皇を否定して死んでいった人たちもおられます。「あなたを憎んで憎んで、執念 で陥れようとしている人でも愛しなさい」と仰しやるキリストの言葉を、本当に 身近な現実に当てはめて、そのことが出来るように主の助けを祈ることが大切な のであります。キリストさまが、わたしたちの罪のために死なれたことのはかり 知れない大きな愛を本気に受けとめたいと思います。そして、その愛に満たして いただきたいと祈るように、主は命じておられるのであります。

 山上の説教は、十字架と復活をぬきにして決して考えられないのであります。 キリストさまは平和を実現させる約束を十字架にかかって、完全に果たしてくだ さいました。そこから、罪人であるわたしたちは、信仰を持って、自らを捨て、 自分の十字架を背負って、キリストさまに従い、平和を実現する者、完全な者と ならせていただきたいと祈るべきことを、主は命じておられるのであります。  「キリストさまは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学 ばれました。そして完全な者となられた」のであります(ヘブル5・8‐9)。

 わたしたちが神の敵であった時、キリストさまは、その罪人の罪をあがなうた めに、御自身を唯一の聖別されたいけにえとして献げ、聖なる者とされた人たち を永遠に完全な者となさったのであります」(ヘブル10・14)。

 山上の説教でイエスさまがお語りになられました、「あなたがたも完全な者と なりなさい。」というおすすめは、そのことを成し遂げてくださったイエス・キ リストさまを信じなさいということであります。イエス・キリストさまを信じる 以外にわたしどもの完全はないのであります。完全な救いを与えてくださいまし た、「神の子イエス・キリストさまの名を信じ、この方がわたしたちに命じられ たように、互いに愛し」あいましょう。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(43)。平和に、仲良 く、完全な者となることは、主にお従いすることによってであります。  わたしたちを愛し、わたしたちのために身を献げられた神の子が、わたしたち の内に生きておられます。そして、わたしたちを完全な者へと導いてくださるの であります。

 
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