「神の子と呼ばれる」
1999年8月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 松原茂牧師説教
聖書 Ⅰヨハネ2・28‐3・10
前回は「御子の内にとどまりなさい」について学びました。それは、「イエス 御自身が神の約束された福音であることを心にとどめなさい」ということであり、 「伝えられた福音を堅く立って守りなさい」ということであります。「そうすれ ば、あなたがたは、御子と御父のうちに、いつもとどまりいることになる」(2 ・24)。そして「これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命な のであります」(2・25)。
わたしたちが御子と御父との交わりを持っているということと、永遠の命を持 っているということは、ひとつのことであることを学びました。
●キリストの内にとどまっていること
2章28節「御子の内にとどまりなさい。そうすれば、御子が現れるとき、確 信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありま せん」。このことにつきましては、結婚披露宴に招待された十人の乙女の譬えを 紹介いたしました。今日は、忠実な僕と悪い僕(マタイ24・45‐51)につ いて考えてみましょう。ある主人が長期間旅に出るので、その相当の財産を託さ れた僕は、忠実で賢ければ、いつ主人が帰ってきても良いような管理をするであ りましょう。もし、それが悪い僕で、「主人はなかなか帰っては来ないだろうか ら、大いに楽しんで好きなことをしよう」と言って悪友達と遊びまわって、帰っ てくるなり、召使いたちを酷使しているとすればどうでありましょうか。答えは 明らかであります。彼は罰せられるでありましょう。ここの教訓は何でしょう。 ほとんどの人が、それは、キリスト来臨の時、忠実なキリスト者は良い報いを受 け、不忠実な者は裁かれると答えるでありましょう。しかし、それ以上のものが あります。この譬えの焦点は悪い僕と彼の態度や行いの理由にあります。彼は、 主人は相当期間帰らないだろうし、帳尻を合わす時間は十分にあると判断してい ました。それが彼を間違った行動へと向かわせました。この誤った前提に立って 彼は主人よりも自分を喜ばせました。
もし、わたしたちがキリストの来臨と世の終わりにはまだ間があり、わたした ちの優先順位を調整して、後で帳尻を合わせる機会は十分あると考えるならば、 それは大きな間違いであります。多くの人たちには、その時間はないかもしれま せん。わたしたちは注意深くわたしたちの王の業に専念すべきであります。わた したちは永遠の時間を持ってはいません。「次の10年における宣教」というよ うな主題で論議できるでありましょうし、しなければなりません。しかし、次の 10年は無いかもしれないということを覚えておくべきであります。次の一日も 無いかもしれません。福音は全世界のすべての人々に伝えられるでありましょう。 しかし、父なる神のみがその正確な意味を知っておられるのであります。悪い僕 には、主人のことばがとどまっていませんでした。
わたしたちがキリストの内にとどまり続けるならば、そのときに、わたしたち は「確信を持って」御前に立つことができます。毎日「キリストの内にとどまっ ていること」が、わたしたちが再臨に備える最善の道であります。
●わたしたちは今、神の子である
3章1節「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それ はわたしたちが神の子と呼ばれるほどです」。わたしたちが神の子と呼ばれると いうことは、御父の愛がどれほど大きいかを考えてごらんなさいと、ヨハネは読 者に要求しています。
「わたしたちは神の子とよばれています」。「神の子なのです」。わたしたち が神の子と呼ばれたとき、わたしたちは神の子と呼ばれるのにふさわしいと思え るでしょうか。「わたしたちは皆、肉や心の欲するままに歩んでいたのであり、 他の人たちと同様に、生まれながらの神の怒りを受けるべき者でした。」(エフ ェソ2・3)。
わたしたちは生まれながらにして罪人であり、神に背を向けて歩いていた罪人 であります。「神の子」と呼ばれるには、ほど遠い者であり、むしろ、神の怒り のもとにあって、永遠に滅びに至る者でありました。
「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれて いるからです。実にキリストは、わたしたち不信心な者のために死んでください ました。このようにわたしたちが罪人であったとき、キリストがわたしたちのた めに死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」 (ロマ5・5‐8)。また、「わたしたちが敵であったときでさえ、御子の死に よって神と和解させていただき救われました」(ロマ5・10)と言っています。 わたしたちが神に敵対していたというより、神から敵とせられ、神に捨てられて いた者であったのです。
そのような者が「神の子」と呼ばれるのは、わたしたちの想像を絶する神の出 来事、イエス・キリストの出来事、福音のめぐみ以外の何ものでもありません。
世の人たちが、わたしたちのことを、キリスト教会へ行っているので、「神の 子」と呼ぶでしょうか。むしろ、世の人たちは、「おめでたい」とか「信じられ て仕合わせだねえ」とか、少し小馬鹿にしたようなかたちで、わたしたちを冷め た目で見ています。決して、わたしたちを「神の子」とは呼びません。世の人た ちはわたしたちを「キリスト者」、クリスチャンと呼びます。わたしたちを「神 の子」と呼ぶのは世間ではありません。「父なる神」ご自身が「神の子」と呼ん でくださるのであります。神が呼んでくださるというのは、神が「神の子として くださる」ということにほかなりません。ある人たちは「神の子」であるのは自 然のことと考えていますが、それは人間について全く無知であり、現実に神に背 を向けて歩き、闇の中を進んでいる思い上がった人間の自惚れであります。
ヨハネは「わたしたちが神の子と呼ばれるためには」「どんなに大きな愛を賜 ったことか」と言っています。神の愛の、そして、キリストの愛の広さ、長さ、 高さ、深さが人知をはるかに超えて、わたしたちに与えられなければ、この「わ たしたち」のような者は「神の子と呼ばれる」ことはなかったのであります(エ フェソ3・18、19)。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」(3・16)。 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生 きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わた したちが神を愛したのでなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う いけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4・9、 10)。
「わたしたちが『神の子』と呼ばれるために、神は御子キリストをわたしたち のためにお与えになった。この神の愛です。神の御子の十字架の死の愛がなけれ ば、『神の子』と呼ばれることが出来るものではありませんでした」(田中剛二)。
「御子が現れるとき、御子に似た者となることを知っています」(3・2) 「わたしたちは、今既に神の子です」と2節にありますが、わたしたちは、今、 この世の生活にあって、神の子であります。「世はわたしたちを知らない」(3 ・1)ので、わたしたちが神の子であることを認めません。しかし、問題は世の 人がわたしたちを今、神の子と認めるかどうかではありません。わたしたち自ら が、今、神から神の子と呼ばれていると、告白できるかどうかであります。「主 イエス・キリストの父なる神よ。わたしたちは、恵みによって御名の内に加えら れていますが、なお罪を犯す者であります」。このようなわたしが、今、神の子 なのでありましょうか。「わたしは、自分のしていることがわかりません。自分 が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。「わたしは なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救 ってくれるでしょうか」(ロマ7・15、24)。パウロの叫びは、わたしたち の叫びでもあります。しかし、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に 感謝いたします」(ロマ7・25)と主イエス・キリストにある神の愛、救いの 恵みを感謝と喜びとを持って、告白するパウロであります。
わたしたちを「神の子」としてくださったのは、神です。そのために父なる神 は、御子イエス・キリストにあって、限りない愛をわたしたちに注いでください ました。主イエス・キリストはわたしたちのために死んでくださったのです。こ のようにしてわたしたちは聖なる方から豊かに油を注がれ、「神の子」と呼ばれ ているのであります。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、 自分を清めます」(3・3)。
主イエス・キリストが栄光のうちに再び来たりたもうとき、わたしたちは栄光 の主イエス・キリストの御姿に似る神の子の栄光の姿に変えられて、栄光の主イ エス・キリストと共に限りなく生きるのです。「キリストにあってこの望みをい だいている者は、キリストが清いように、自らを清く」しなければなりません。
●御子は罪を除くために現れました
「罪とは、法に背くことです」(3・4)。罪とは、神の定めた法に背くこと です。4節でヨハネは罪の性質を明らかにします。自らを清くするためには、罪 の性質を確認するところから始まるといわれています。罪の性質とは、単なる失 敗でなく、神の律法に逆らうことであります。そこには、破壊と悲惨があります。 また、平和はなく、何よりも、その目には神への畏れがありません。
「御子は罪を取り除くために現れました」(3・5)。キリストが来られたの は、新しい命、永遠の命を与えるためでありました。「御子には罪がありません 」このみ言葉は、キリストの本質について述べています。罪のない方のみが、罪 人の罪を贖うことができるのであります。そうです、この罪を取り除く出来事が、 歴史の中に起きました。イエスがこの世に来臨された目的は、罪を取り除くこと でありました。
「御子の内にいつもいる人は皆罪を犯しません」(3・6)。キリストのうち にとどまり続ける人は、罪を習慣的に犯し続けません。確かにキリストを信じる 者も罪を犯すことがあるでしょう。この世に生身に生きている者は弱さを持って 生きています。しかし、それは原則ではありません。罪がキリスト者を支配して いるのではありません。ですから、もし罪を犯したなら、イエス・キリストに罪 を言い表して(1・9)清めていただき、自分を清く保っていただきなさい。キ リストが罪なき方でいらっしゃるなら、彼の中にいる者もまた、キリストの罪な き本質にあずかるのであります。キリストの中にとどまっている限り、罪を犯す ことはありません。
「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい(3・7)。偽りの教師は サタンの手下となって、聖徒を惑わし続けるでありましょう。彼らは、肉体は重 要ではない。たましいが清ければ肉体は何をしても清いのだと言って、不道徳な 生活をしていました。正しい人は、たましいだけでなく、行動においても義を行 う者なのであります。「義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」(3 ・7)。
「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです」 (3・8)。罪を犯し続ける者は悪魔からでた者です。悪魔は初めから罪を犯し 続けています。「かつて、お前は心に思った。『わたしは天にのぼり 王座を神 の星よりも高く据え 神々の集う北の果ての山に座し 雲の頂きに登って いと 高き者のようになろう』と(イザヤ14・12‐15)。
「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(3・8)。御子 は悪魔の働きの力を取り除き、活動できなくし、くつがえし、処分するために現 れたのであります(ヨハネ12・31)。悪魔の徹底的な滅びは終わりのときに 実現します(黙20・10)。キリストを「神の子」と呼ぶのは、この手紙の中 でここが最初であります。終わりのとき、主の来臨についてⅡペトロの手紙3章 8‐10節には次のように言われています。「主のもとでは、一日は千年のよう で、千年は一日のようです。主は約束の実現を遅らせておられるのではありませ ん。一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐してお られるのです。主の日は盗人のようにやって来ます」と。
「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもある からです」(3・9)。神の種。隠喩的に霊(3・24、4・13)。神の言葉 (1・10、2・14)を意味し、そのうちに命をもっているということを表し ています。「この人は神から生まれたので罪を犯すことができません」(3・9)。 それは神の子がどのような罪も犯さないということではありません。神を愛し、 兄弟を愛し、その愛が真実であるならば、わたしたちの弱さのゆえに神の戒めに 背くようなことがあっても、キリストの救いの恵みにあずかった者は、罪を悔い 改め、御子イエスの血によって罪から清められるからです。神の教会、光の中、 正しい生活をする者は、自分の兄弟を愛します。なぜなら、わたしたちは「神の 子」と呼ばれるほどの神の愛にとどまっているからです。主イエス・キリストの 恵みの中に「神の子」と呼ばれて、とどまり続けましょう。