「希望の源である神」
1999年8月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ15・1‐13
●忍耐と慰めの源なる神
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求 めるべきではありません」(15・1)。
私たちが自分を「強い者」と見なせるかどうかは別としましても、これはある 意味で非常にショッキングな言葉であろうと思います。と言いますのも、人は通 常「自分の満足を求めて」行動しているものだからです。
ある選択をするに際して、それがどのような満足と喜びをもたらすかは、大き な判断基準であるはずです。趣味やレジャーにおいては当然のことながら、その 他のこと、例えば職業の選択などにおきましても、満足と喜びの有無は、中心的 関心事であるに違いありません。さらに言えば、自分ではなく他人に関心が移っ ていると思える「恋愛」や「結婚」にしましても、よくよく考えると心の中心を 占めているのは自分の満足であったり喜びであったりするものです。
では、教会生活は例外でしょうか。いいえ、必ずしもそうは言えないだろうと 思います。そこにおいても、往々にして心の大部分を占めているのは自分の満足、 自分の喜びであるかも知れません。ある人は、満足と喜びを、教会の親しい人間 関係に求めているかも知れません。ある人は、自分の趣向に合った心地よい教会 の音楽や賛美歌に求めているかも知れません。ある人は、自分の意向に合致する、 耳に快い礼拝説教に求めているかも知れません。ある人は、自分が活躍できる教 会の活動の中に満足と喜びを求めているかも知れません。いずれにせよ、ある人 は自分の求めていたものを得て喜び、ある人は不満足のまま取り残されることに なるでしょう。ともあれ、意識的にせよ無意識にせよ、教会や信仰生活を、ただ 自分を喜ばせ自分を満足させる手段として捉えていない人にとっては、このパウ ロの言葉は、そのような自分のあり方について再考を促す言葉となるに違いあり ません。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求 めるべきではありません。」
では、どうしたら良いのでしょうか。パウロは次のように続けます。「おのお の善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」(15・2)。喜ば せるべきは自分自身ではなく、隣人であると言うのです。しかも、それはただ単 に他者の喜びを満たすということではなくて、互いの向上に向かうべきである、 と言うのです。「向上」というのは、「建て上げる」という内容を持った言葉で す。パウロが言っていることは極めて単純です。私たちは、自分を満足させるた めにここ共にいるのではない、ということです。どのような関わり方にせよ、完 成に向かって互いを建て上げていく者となることを願いつつ共に生きる――それ が、私たちの本来の姿であるということなのです。
このような隣人との関わりというものは、好むと好まざるとにかかわらず、信 仰生活において本質的な要素です。言い換えるならば、自分の満足や喜び、自分 の解放や救いが心の中心を占め、もはやそこに他のキリスト者が入る余地がない ような信仰生活であるならば、それは確実にゆがんだものである、ということで あります。パウロは、その根拠をここに挙げています。それはキリストです。キ リストも御自分の満足はお求めにならなかった、ということです。
パウロはそのことを語りながら、聖書の言葉を引用します。「あなたをそしる 者のそしりが、わたしにふりかかった」。これは詩編69編10節の引用です。 これはもともと神に逆らう者のゆえに苦しむ信仰者の嘆きが語られている部分で す。そして、その箇所は古くから、この世の罪のゆえに苦しむキリストを指し示 すものとして理解されてきました。パウロが目を向けているのは、そしる者のそ しりを負い給うたキリストの姿であります。神に反逆するこの世界の罪を負い給 うたキリストの姿であります。パウロもローマの信徒たちも、そして私たちも、 その苦難が十字架に至る苦難であったことを知っています。十字架に至る苦難に おいてキリストが負われたのは、他ならぬ私の罪、あなたの罪でありました。
つまり、自分の満足を決して求め給わなかったキリストは、単なる自己否定の 模範ではないのです。自分の満足を求め給わなかったこの方によって、私たちは 担われているのです。パウロは、「強い者は、強くない者の弱さを担うべきであ る」と、この部分を書き出しました。しかし、私たちが他者の弱さを担うかどう かを語る以前に、既に私たち自身がキリストによって担われている者なのです。
そして、他者を担うために必要なのは忍耐であることを、私たちは日常の経験 からも良く知っております。であるならば、キリストが私たちの罪を担われたそ の事実の背後に、キリストの忍耐があり、神の忍耐があることをも、私たちは知 らねばなりません。神はイスラエルの民を忍ばれ、そして異邦人である私たちを 忍ばれました。私たちは、キリストを指し示し、キリストを証言する聖書の中に、 その神の忍耐を見るのであります。
「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それ でわたしたちは、聖書から忍耐と慰めとを学んで希望を持ち続けることができる のです」(4節)とパウロは語ります。「教え導くためのもの」――確かにそう です。しかし、そこにはただ戒めとして「あなたは忍耐しなさい。人間が生きて いく上で大切なのは忍耐である」と教えられているのではありません。聖書は道 徳の教科書ではありません。そこにまず見るのは、神の忍耐なのです。神が人を 愛され、神が人を忍ばれ、そのような神であるからこそ、御子を人の世に遣わさ れたのであります。まず神の忍耐が先にあるのです。この神の忍耐こそが、私た ちをもまた忍耐へと教え導くのであります。
ですから、そこにはただ忍耐だけが記され、教えられているのではありません。 そこには神の慰めがあります。聖書の中には、私たちを耐え忍ばせる神の慰めと 励ましが記されているのです。そして、この忍耐と慰めのあるところにこそ希望 があるのです。忍耐も知らず、神の慰めも知らないで、ただ自分を喜ばせること に汲々としている人に未来はありません。希望もありません。聖書の中に、真の 忍耐と慰めを見出し、それを学んでこそ、私たちは希望を持ち続けることができ るのです。
まさに、忍耐と慰めの源泉は私たちの内にはなく、神の内にこそあるのです。 神こそ忍耐と慰めの源であります。ですから、パウロはただ「強くない者の弱さ を担うべきである」と言うだけでなく、彼らのために祈ります。忍耐と慰めの源 である神に祈るのです。それが5節以下の言葉です。
水源のある泉は干上がりません。いかに水があるように見えても、水源を持た ない水たまりはやがて干上がってしまいます。人が共に生きるためには、この水 源を必要とします。水源を持たず、共に生きるためにただ無理をしているだけの 人は干上がってしまいます。それはこの世における人との関わりだけでなく、教 会の交わりにおいても同じです。同じ思いを抱き、心を合わせ、声をそろえて父 なる神をたたえる者となるためには祈りが必要です。私たちは、パウロの祈りを 私たちの祈りとしなくてはなりません。忍耐と慰めの源に、しっかりとつながっ ていなくてはなりません。
●希望の源なる神
さらに7節以下に進みましょう。ここでパウロは、ただ強い者に対してではな く、全体に向かって勧めます。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたが たを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」 (7節)。
同じような考え方をする人、同じような感じ方をする人、同じような背景を持 つ人、同じ時代を生きてきた人――そのような人が共にある時には、相手を受け 入れるということはさほど問題にはなりません。相手を受け入れることが重要な 課題となるのは、異なる者たちが共にいる時であります。そして、人はできるだ けこの課題を避けようといたします。そこから逃げようといたします。そうして、 似たもの同志、気が合う者同志のコミュニティを作ろうといたします。異質な者 を排除しようとする動きが生じます。それは小さな子供たちの集団においても、 大人の集団においても起こります。そうやって、相手を受け入れるという課題か ら逃げようといたします。あるいは、自分とは異なる者との関係を切ろうとする 場合もあるでしょう。自分とは異なる人々から、自ら退いて関係を断とうといた します。そうやって自分が出ていくことによって、相手を受け入れるという課題 から逃げようといたします。
逃避はどのような美名をつけても逃避でしかありません。逃避の人生に救いは ありません。逃避の共同体に救いはありません。教会はどうでしょうか。教会が 逃避の共同体となることはいくらでも起こり得ます。私たちがいつの間にか、相 手を受け入れるという課題を共に担わないでも平安のうちにいられる、心安らか にいられる、そのような教会を求めているということが、いくらでもあるのです。
だから、私たちは目を覚ましていなくてはなりません。パウロが目を開いて見 つめている方向に、私たちも目を向けなくてはなりません。それはキリストであ ります。キリストがどこに立たれたのかを、私たちはしっかりと目を開いて見な くてはなりません。それは、この世における最も異なる二者、そしてしばしばそ の間には最も深い対立と憎悪のあった二者のただ中でありました。それはユダヤ 人と異邦人であります。
確かにキリストはユダヤ人としてこの世に来られました。彼が生きられたのは パレスチナの実に狭い地域でありました。彼は割礼ある者たち、すなわちユダヤ 人たちの間にあって仕えられ、十字架へと至る生涯を歩まれたのであります。そ れは「神の真実を現すため」であり、「先祖たちに対する約束を確証されるため 」であったと書かれています。ユダヤ人たちに与えられていた真実なる神の約束 を確証するために、キリストはそこにおられたのです。
しかし、そもそも先祖たちに対する約束とは何だったのでしょうか。ユダヤ人 の父祖アブラハムを召された時、神はこう言われたのです。「わたしはあなたを 大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるよう に。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地 上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12・2‐3)。つま り、父祖たちに与えられた契約も、メシアの到来の約束も、すべてはここに向か っていたはずなのです。すなわち、この地上のすべての民が祝福に入るところへ と向かっていたはずなのです。言い換えるならば、ユダヤ人に与えられた神の約 束はユダヤ人だけでは完成され得ないのです。ユダヤ人以外、異邦人に神の憐れ みが示され、異邦人が神によって招かれ、共に神の祝福にあずかり、共に主を誉 め讃えるところにおいて完成されるのです。全く異なる者たちが、共に主を誉め 讃えるところにおいて完成されるのです。旧約聖書に「異邦人よ、主の民と共に 喜べ」と書かれている通りです。
ここに聖書の語る最終的な救いの希望があります。そこにはユダヤ人と異邦 人、互いに異なる人々がいるのです。神の国の希望、神の栄光にあずかる希望 を思い描く時、そこに救われた自分の姿しか思い描けない人は、聖書の語る希 望を知らない人であります。そこに自分の家族や自分の仲間しか出てこないな らば、そこに思い描いている神の国は、聖書の語る希望とは何の関わりもあり ません。それは神の国でもなんでもありません。人間の欲望の投影でしかあり ません。
神の国の希望は、異なる者が共に生き、主によって愛し合う者とされ、共に主 を誉め讃えているところにあるのです。その希望へと、主は私たちを招いてくだ さいました。キリストがまず、私たちを赦し、私たちを受け入れて、この希望へ と招き入れてくださいました。相性の合わない人々、性格の一致しない人々と共 に、キリストは私たちを受け入れて、この希望へと招き入れてくださいました。 それゆえ、7節の「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あな たがたも相手を受け入れなさい」という戒めは、単に私たちの義務を語った言葉 ではありません。「そうしなければ、キリストに顔向けできないだろう」と言っ ているのではないのです。そうではなくて、これは神の国の希望へと向かう喜ば しき勧めなのであります。
ですから、この課題から逃げないで、希望に向かってこれを受けとめて生きよ うとする人は、希望の源なる神に向かって祈る者となるはずです。パウロは彼ら のために、希望の源なる神に祈ります。「希望の源である神が、信仰によって得 られるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち 溢れさせてくださるように」(13節)。私たちは、この祈りを私たちの祈りと したいと思うのです。そして、本当の意味で逃避の人生を歩まない、逃避の共同 体を求めない、そのような信仰生活を送りたいと思うのであります。