「宣教者パウロは行く」
1999年9月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ15・14‐33
●聖なる供え物を献げるために
1998年1月から読み続けてきましたローマの信徒への手紙も終わりに近づ いてまいりました。実際、16章からは個人的な挨拶、そして付加的な勧めの言 葉が記されていますので、手紙の本文としての主要な部分は、今日で最後となり ます。
この手紙の一番最初に書かれていたことを思い起こしてください。パウロは自 己紹介をも含めた挨拶の後、ローマ訪問の願いについて書き始めました。ローマ の教会はパウロや彼の同労者によって開拓された教会ではありません。また、こ れまでに一度も訪問したこともありません。16章を読みますと、そこにはパウ ロの知人がいたようではありますが、全体としては面識のない教会です。訪問す る上で、当然のことながら、その意志を伝える必要がありました。あるいは、パ ウロはその後イスパニア(スペイン)に伝道を拡大していくつもりでありました から、この西方に向けての伝道の拠点として、ローマの教会に協力を求める意図 があったのかも知れません。いずれにせよ、この手紙はその末尾に至って、そも そもの目的であった、訪問の計画の話に戻ってまいります。
ここで改めて全体を振り返ってみますと、この手紙の持つある種の異常さに驚 かざるを得ません。もし私たちの教会がこのような手紙を受け取ったら、いった いどのように思うでしょう。私たちの感覚からすると、このパウロという人は、 かなり非常識な人であるように思えます。いや、当時の人も、そう思ったかも知 れません。パウロ自身も若干、そのような反応を懸念しているようです。ですか ら、少し言い訳をします。このあたりは、パウロの人となりが現れていて、微笑 ましくも思います。
「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに 戒め合うことができると、このわたしは確信しています。記憶を新たにしてもら おうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」(ローマ15 ・14‐15)。
あなたがたが福音について無知であると考えてこれらを書いたのではありませ ん。あなたがたが福音に基づいた生活を互いに建て上げていくことができないと 考えて、これらを書いたのではありません。あなたがたがキリストを知る知識に 既に満たされていることを知っています。わたしの書いたことは、ただあなたが たが既に知っていることについて記憶を新たにさせているに過ぎません。そうパ ウロは言っているのです。
パウロは確かにかなり大胆に思い切って書いています。しかし、それはパウロ が上におり、ローマのキリスト者が下にいるからではないのです。少なくともパ ウロの意識の中にはそのような上下関係はないのです。パウロが支配する側でな ければ、ローマの教会が支配される側でもありません。彼はただ、ローマのキリ スト者と共にキリストに目を向け、キリストの恵みに共にあずかる者でありたい と願っているのです。
それゆえ、パウロはさらに思い切ったことを書き加えます。パウロは自分自身 について「神の福音のために祭司の役を務めている」(16節)と言います。で は、祭司が捧げる犠牲とはなんでしょうか。それは異邦人だ、と言うのです。 「そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供 え物となるためにほかなりません。」ローマのキリスト者たちの多くは異邦人で あることを考えると、これは極めて大胆な発言と言わざるを得ません。ユダヤ人 であるパウロが祭司として、異邦人を神に犠牲として捧げる。それが使徒として 福音を宣教する彼の務めだと言っているのですから。
しかし、パウロがあえてこのように書くのは、ローマの人々がこれを理解して くれると信じているからです。キリストにおいて現された神の愛に共に目を向け ている者であるゆえに、初めて語り得た言葉です。ですから、もし私たちが彼ら と同じ方向を向いていなければ、決して理解できない言葉であるとも言えるでし ょう。
実際、私たちは、宣教の働きについて、往々にしてまったく違った見方をして いるのではないでしょうか。焦点はキリストに合っていません。人間にしか合っ ていないのです。ですから、私たちはパウロのようにではなく、ただ次のように しか語っていないのだろうと思うのです。「それは、救いを必要としている異邦 人がキリストを知り、そのことによって救われるために他なりません」と。それ は間違いではありません。しかし、そのような「人間の必要」という観点からし か宣教を考えることができないとするならば、やはり聖書の示している宣教理解 とは異なると思うのです。
キリストにおいて現された神の愛は、私たちが神を必要としているから神がそ の必要に応えられた、ということではないのです。私たちは、神を求めていなか ったのです。神を必要としているということさえ分からなかったのです。私たち はむしろ、神に逆らう罪人であり、神に敵対する者でありました。しかし、キリ ストは不信心な者のために死んでくださったのです。まさに、「わたしたちがま だ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによ り、神はわたしたちに対する愛を示された」(5・8)のです。つまり、私たち が神を求める以前に、神が私たちを求めてくださったということです。神が人を 求められたのです。神は異邦人を求められたのです。まことに愛するに価しない、 求めても意味がないと思えるような私たちを、神は求められたのであります。
このように、宣教は人間の必要にではなく、この神の求めに基づきます。だか ら、パウロは祭司の務め得て、求めておられる神に異邦人を供え物として捧げよ うとするのです。それが神の愛を現してくださったキリストに仕えることだから です。それが教会の伝道の働きに他なりません。
そして、一方ローマの教会の異邦人キリスト者たちもまた、供え物として神に 捧げられることの意味を理解したに違いありません。それは神の憐れみによって、 初めて成り立つことであることを知っていたはずです。既にパウロは12章1節 でこのように語っていました。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによっ てあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして 献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」神の憐れみにより、 キリストの贖いによって義とされ、聖霊によって聖なるものとされて、初めて罪 人が神に喜ばれる供え物となり得るのです。そして、結局はそこにこそ、人の救 いがあるのです。人の救いは、人が自分の必要のために神を得るところにではな くて、人を求め給う神のものとされ、神に献げられたものとして生きるところに あるのです。
●キリストは人を通して働き給う
パウロは、このような祭司の役を務め、神のために働くことをキリスト・イエ スによって誇りに思っている、と言います。しかし、これを「神のために働くこ と」と訳すと、もしかしたら誤解が生じるかも知れません。パウロが誇っている のは、決して「彼が神のために行っている何か」ではないからです。彼がここで 語ろうとしているのは、18節にありますように、キリストがパウロを通して働 かれた事なのです。
私たちはしばしば「他者のために何をなすべきか」と考えます。それは悪いこ とではありません。むしろ、それは正しいことであり、良いことです。信仰者で あるならば、「他者のために何を為すべきか」ということと「神のために何を為 すべきか」ということを結びつけて考えることでしょう。そして、ある人は、 「私は神様のためにこのことをしました」と言い、別な人は、「神様のために何 もしていない」と自らを嘆くことでしょう。しかし、本当に重要なことは、「人 が神のために行うこと」ではなくて、「神が人を通して行うこと」であることを、 聖書は語っているのであります。
もちろん、パウロは何も為すことなく、ただキリストの御業が現れるのを待っ ていたわけではありません。いや、それどころか、私たちは彼が驚異的な働きを したことを知っています。それは彼自身、「エルサレムからイリリコン州まで巡 って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がま だ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました 」(19‐20節)と書いているとおりです。
しかし、彼の行いは、キリストの働きのための備えであり、いわば道具立てに 過ぎませんでした。そして、彼はそのことを弁えているゆえに、かえって熱心に 努めます。このことは私たちにとっても大切な認識です。これが分からないと、 私たちは怠惰か傲慢かのいずれかになります。何も備えずにキリストの働きだけ を期待する人は怠惰になります。一方、事を為すのは自分の努力以外の何もので もないと思っている人は怠惰にならないとしても傲慢になります。自分の業を誇 るようになるからです。あるいは何も出来ないと言って卑下します。しかし、そ の卑下は傲慢の裏返しでしかありません。
ここで特に、宣教の働きについて述べる時に、パウロが注意深く言葉を選んで、 自分の働きとキリストの働きを区別していることを見落としてはなりません。パ ウロはキリストの名が知られていない所で福音を告げ知らせようと努めました。 それはパウロの働きです。しかし、異邦人を神に従う者としたのは、パウロでは ありませんでした。異邦人を神に従わせるために、パウロの言葉と行いを通して、 しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれたのはキリストでありました。私 たちはしばしば思い上がって、自分の言葉や行いをもって人を回心させ得るかの ように、人の心を変え得るかのように考えます。しかし、そのように行動するこ とにより、かえってキリストとその人との間に立ちはだかることになるのです。 私たちが為し得るのは、キリストの御名を伝えることだけです。私たちがキリス トのものとして生き、キリストを指し示すことだけなのです。
パウロはそのことを知っていました。それゆえ、パウロは自分に託されている ことに専念します。「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者」と自覚しな がらも、異邦人宣教に関わるすべてを自分で為そうとはしません。パウロの働き は土台のないところに土台を据えることでした。家を建てるのは他の人がするこ とです。他人の築いた土台の上に何かを建てることは、パウロに託されているこ とではありませんでした。彼はコリントに宛てた手紙においても、次のように述 べています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださ ったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成 長させてくださる神です」(1コリント3・6‐7)。またこのようにも書いて います。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように 土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」(1コリント 3・10)。そのように土台を据える務めを受けていることを知るパウロは、ロ ーマ帝国の東部における働きが終わったことを思い、イスパニア行きを計画しま す。その途上でローマを訪問し、そこからイスパニアに向けて送り出されたいと 願ってこの手紙を書いているのです。
しかし、当面、彼はイスパニアとはまったく逆方向へと向かわねばなりません。 エルサレムの貧しいキリスト者たちのための援助金を届けなくてはならなかった からです。これは極めて危険な旅でもありました。今日お読みしました箇所にお いても、パウロの中に二つの不安があったことを見ることができます。一つは、 エルサレムには、まだ彼の命を狙っている多くのユダヤ人たちがいること。もう 一つは、マケドニア州やアカイア州の異邦人キリスト者を中心とした教会におけ る募金の働きが、エルサレムのユダヤ人キリスト者を中心とした教会によって受 け入れられるかどうか、ということでありました。それゆえ、パウロは彼らの祈 りを求めます。
「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、『霊』が与え てくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に 神に熱心に祈ってください。わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エ ルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、 神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことがで きるように。」(30‐32)。
さて、このパウロの願いは実現したのでしょうか。その後の事情を、私たちは 使徒言行録に見ることができます。確かにパウロはローマに行くことができまし た。しかし、彼が願ったような仕方においてではありませんでした。彼は、エル サレムで捕らえられ、鎖につながれた囚人として、ローマの地を踏むことになる のです。イスパニアには行けたのでしょうか。可能性はありますが、確かなこと は分かりません。いずれにせよ、パウロの願いが満たされるか否かは、彼にとっ て最終的に重要なことではありませんでした。パウロにとって意味あることは、 あくまでも彼を通して“キリストが働かれること”であったからです。私たちに とっても、最終的に意味を持つのは、私たちの計画が成就したかしないかではな く、私たちを通して働かれたキリストの御業であるに違いありません。