「主に結ばれた人々」
1999年9月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ16・1-16
今日お読みしました16章1節以下には、個人的な挨拶の言葉が記されていま す。他の手紙の場合と比べますと、この手紙においては、挨拶の言葉がかなり詳 細に書かれています。パウロが訪ねたこともないローマの教会に、これほど多く の知人がいるはずがないと考えて、この部分を本来の構成要素でないと考える人 もいます。むしろ、パウロと関係の深かったエフェソの教会に宛てた手紙の一部 がここに入ったのではないかと推測するのです。しかし、パウロと面識のあるキ リスト者が、様々な過程を経て、当時の世界の中心であったローマに移り住んで いたことはあり得ます。あるいは、ここに挙げられている人々がすべて、直接的 な知人であると考える必要もないでしょう。いずれにせよ、むしろ全体としては 未知なるローマの教会であればこそ、ことさらに知人の存在を強調する必要があ ったことは、十分に考えられることであります。
さて、一見するとこの手紙の他の部分よりも退屈に思えるこの箇所ですが、よ く読んでみますと、むしろこのような部分にこそ、当時の教会が生き生きと描き 出されているものです。パウロや他のキリスト者が、教会における互いの関係を どのようなものとして捉えていたかを、このような箇所を通して知ることができ るのです。そのような箇所を読むことは、また、現代に生きる私たちの教会を省 みる、良い機会となるでしょう。
主にある連帯の意識
では、この箇所から私たちは第一に何を読みとるべきでしょうか。それは彼ら の間における本質的な連帯であります。
最初にパウロはケンクレアイの教会の奉仕者であるフィベを紹介します。フィ ベがいたケンクレアイは、コリントから11キロほど離れた港町でした。彼は、 この交通の要所となっている町に住むフィベに、この手紙を託したものと思われ ます。フィベにとっても、ローマの教会は未知の教会でありました。それゆえ、 パウロはフィベを彼らに紹介しているのです。
その紹介の仕方は非常に興味深いものです。彼女を迎え入れてください、彼女 に必要な援助を与えてくださいと、パウロはローマの教会に願います。長い旅を し、為すべき働きを全うするためには、確かにローマの教会の援助を必要とした ことでしょう。しかし、興味深いのは、その理由の書き方です。パウロが彼女に 対する援助を求める根拠は、彼女が多くの人々の援助者であり、特にパウロの援 助者である、ということなのです。
どこの世界にも「恩返し」という思想はあるものです。助けてもらった人は、 次にはその人を助けようとするのです。しかし、恩を受けた人が、必ずしもその 相手に返せないこともあります。その場合、受けた恵みに対する感謝を、他の人 々に現すということもあり得ると思います。私は、東京にある母教会で、多くの 人々に祈られ、育てられました。やがて牧師になるために神学校に行きましたが、 その時にも精神的にも物質的にも、多くの人々に支えられました。私はどのよう にして、彼らの恩に報いるべきでしょうか。それは私が伝道師として、牧師とし て遣わされた教会に仕えることによってであるに違いありません。私を子供の時 から祈り支えてくれた多くの人々に対する感謝を現す場は、母教会ではなくて、 今遣わされているこの大阪のぞみ教会であるわけです。
このように、受けたものをその相手に、あるいは他の人々に感謝をもってお返 しするという思想は、私たちにとって身近なものであります。しかし、パウロが 語っていることは、そのもう一歩先を行っているようです。フィベを援助して欲 しいのは、彼女が多くの人々の援助者であり、特にパウロの援助者だからだ、と いうのです。「あの人は私を助けてくれた人だから、助けてあげて欲しい」とい う言葉を、直接関係のない人に用いることを通常私たちはいたしません。もしそ のように言うならば、そこには深いつながりが前提とされます。例えば、子供が 父親にそのように語ることは考えられます。「お父さん、あの人を助けてあげて ください。あの人は、私を助けてくれた人ですから」と言うようにです。
「あなたや他の人々がフィベによって助けられたことは、私たちには関係ない ではないか」。ローマの教会はそのように言うでしょうか。言わないだろう、と パウロは信じているのです。まさに私たちがこのパウロの表現に見るのは、その ような並々ならぬ深い連帯の意識なのです。フィベによって援助された多くの人 々やパウロと、ローマの教会は深いところでつながっている、一つとされている。 パウロはそのことを前提として語っているのです。他の人々がフィベによって助 けられたことは、すなわちローマの教会が助けられたことでもあるのです。パウ ロが助けられたことは、ローマの教会が助けられたことでもあるのです。
これを読みますと、このような言葉が当然のこととして書けなくなっているよ うな、現代の個人主義化した教会のあり方を省みさせられます。教会がいつの間 にか信仰をもった個人の集団としてしか考えられなくなっているのです。若い子 たちが「カンケイないじゃん!」を繰り返すテレビコマーシャルを最近目にしま す。でも、同じことが教会にもあるように思います。知らず知らずのうちに、 「カンケイないじゃん!」と言っているのです。特に親しい人でない限り、他の 人に起こったことは、本質的に自分とは無関係であるかのように考えてしまうの です。また教会同志の関係においても同じです。自分の教会は他の教会とは関係 ない。他の教会に起こっていることは、自分の教会に起こっていることとは関係 ない。「パウロがフィベによって援助されたことは、ローマの教会には関係ない ではないか」というようなことが起こってしまうのです。
では、パウロの持っている連帯意識の基礎にあったのはいったい何なのでしょ うか。そこで、私たちは、ここに挙げられている人々とパウロとの関係に注目し たいと思います。
これらの人々とパウロとの関係は様々に表現されています。パウロを援助した フィベのような人もいれば、命がけでパウロの命を守ろうとしたプリスカとアキ ラのような人もいます。一緒に捕らわれの身となったことのあるアンドロニコと ユニアスのような人もいます。具体的な働きの協力者もいます。パウロが「わた しにとっても母なのです」とまで言うルフォスの母のような人もいます。私たち はそこに彼らとパウロとの深い関わりを見ることができます。
しかし、パウロと彼らの第一の結びつきは、パウロを援助したことでも、パウ ロを命がけで守ろうとしたことでもないのです。同じ働きをしていることでもな いのです。では何でしょうか。ここを読んですぐ気が付くことあります。この箇 所には、「主に結ばれている」「主のために」など、様々な仕方で訳されていま すが、直訳すると「主にある」「キリストにある」となる言葉が繰り返されてい るのです。この短い箇所に10回も出てきます。ここに、パウロの理解がよく現 れています。彼らとパウロとの結びつきは、第一に「主にある」という関係なの です。共に、一人の主に結ばれているという霊的な事実なのです。命をかけてパ ウロの命を救ったからアキラとプリスカはパウロと結ばれているのではなくて、 彼らは「キリスト・イエスに結ばれて」パウロの協力者となっているのです。
教会における結びつきの基礎は、何かを共に行っていることではありません。 援助し援助されるということでもありません。お互いに話し合い、理解し合うと いうことですらありません。それらは根ではなく、枝に生じる実りなのです。も ちろん実は重要です。しかし、根がなければ実は生じません。私たちはしばしば、 互いの関係を築くために「さあ、何かを始めよう」と言います。しかし、本当は そこから始まるのではないのです。お互いを「主にある者」として認めるところ から始まるのです。お互いを直接的な関係において見るのではなくて、主を通し て見るのです。主に結ばれているお互いであることを確認するのです。そこから 始まるのであります。
教会の終末論的性格
さて、第二にここに見るべきは、教会における交わりの終末論的な性格です。 まさに人によってではなく、聖霊によってのみ成り立つ関係をそこに見るのであ ります。
ここに記されている名前を見て明らかなことが幾つかあります。第一に、そこ にはユダヤ人と異邦人がいます。ユダヤ人については、パウロがあえて「わたし の同胞」と呼んでいることから分かります。例えば、アンドロニコやユニアスで す。ヘロディオンなどもそうです。また同胞とは書かれていませんが、プリスカ とアキラなどもユダヤ人の夫妻です。一方、エパイネトは小アジア出身であり、 異邦人であると思われます。その他、同胞と書かれていない人々は、主にローマ 人、ギリシア人などでしょう。
第二に、そこには当時の様々な社会的な階層に属する人々がいたことを想像す ることができます。ここにはプリスカとアキラについて「彼らの家に集まる教会 の人々」という言い方がされています。これは「家の教会」という言葉です。ロ ーマの教会に限らず、どこの地においても、礼拝の場として提供されていたのは 主に裕福なキリスト者の家でありました。ローマに移ったプリスカとアキラの家 もまた、そのような家であったものと思われます。聖書に出てくるそのようなキ リスト者としては、例えば奴隷オネシモの主人であったフィレモンなどが挙げら れます(フィレモン1・2)。しかし、一方、列挙された名前の中には典型的な 奴隷名が見られます。アンプリアト、ペルシス、フレゴンなどは、そのような名 前だと言われます。初代教会には、奴隷たちが決して少なくなかったことは、コ リントの教会に宛てた手紙からも知られます。「また、神は地位のある者を無力 な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選 ばれたのです」(1コリント1・28)。
第三に、ここには男性の名前と共に女性の名前を見ることができます。まず最 初にフィベが挙げられていました。アキラと共にプリスカが挙げられています。 マリアの名前が見られます。ユニアスは恐らく女性の名前です。ルフォスの母、 ネレウスの姉妹などにも言及されています。当時の男性中心的父権社会を考える 時に、これは決して小さなことではないと思います。今日の教会においてもそう ですが、初代の教会においても、男性も女性も共に、豊かな主にある働きをして いたことを思わされるのであります。
このような記述を見ます時に、私たちはあの聖霊降臨の時にペトロが民衆に語 った説教を思い起こします。彼はヨエル書3章を終末的希望の約束として引用し たのでした。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わた しの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言す る」(使徒2・17-18)。
神が約束されたのは、すべてが均質になった世界ではありません。そこには男 がいます。女がいます。若者もいます。老人もいます。僕もいます。はしためも います。ありとあらゆる者がそこにいます。異なる者は異なるままです。同じに はなりません。しかし、すべての人に神の霊が注がれる時、その違いが本質的な 意味を持たなくなるのです。なぜなら、そこで共に神の御心を語り、神を誉め讃 える者となるからです。共に預言するのです。
その終わりの日の約束の実現が、既に始まっている!ペトロは、聖霊降臨と教 会の誕生に、その開始を見たのでした。私たちがこの16章に見ているのも、そ のような希望の約束の実現に他なりません。もちろん、教会は理想郷ではありま せん。そこには悲しみがあり悩みがあります。労苦があります。人間の罪による 傷があります。パウロはそのことを重々承知しています。事実、この章にも「苦 労」という言葉が繰り返されています。しかし、既に事は始まっているのです。 そこではユダヤ人と異邦人が聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしているの です。主人と奴隷が聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしているのです。
確かに、私たちがこの世界を見渡すとき、それは依然としてずたずたに引き裂 かれた世界です。人間の罪によって引き裂かれた世界です。大きくは国家と国家 の間で、民族と民族の間で、小さくは一つの家庭の中にに至るまで、互いの罪に より、互いに傷つけ合い、そして自ら傷ついている現実を見るのです。私たちは 確かにその世界のただ中におります。ですから、ともすると、せめて自分のいる 場所だけは、そのような苦しみの無いところであって欲しいと思うのです。そこ で、私たちが求めるのは、均質な小さな世界です。同じ者同志が共にいることを 求めます。そうすれば、せめてそこにおいては自分の罪が吹き出すのを見なくて 済む。せめてそこにおいては人を傷つけ、自分も傷つかずに済む。そう言いなが ら、均質な小さな世界を求めるのです。
そうです。ともすると教会もかくあれと思ってしまいます。しかし、私たちは そのような願いを持つことにより、神の約束を放棄する者となっていることを知 らなくてはなりません。神はすべての人にその霊を注ぐことを約束されたのです。 既にキリストは十字架にかかられました。既にキリストは復活されました。既に キリストは天に昇られました。既にキリストは約束された聖霊を御父から受けて 注いでくださいました。既に事は始まっております。神が開始されたのですから、 神が完成されるでしょう。私たちは、この希望を抱きつつ、異なる者たちが互い に愛をもって挨拶を交わす、そのような教会を求めたいと思うのです。この16 章の言葉に励まされながら、聖書の指し示す教会の姿を私たちの間にも祈り求め ていきたいと思うのであります。