「闘いと賛美」
1999年9月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ16・17‐27
共に読み進んでまいりました「ローマの信徒への手紙」も最後の部分となりま した。前回お読みしましたところには、パウロからの個人的な挨拶が記されてお りましたが、今日の箇所ではパウロの同労者からの挨拶が記されています。21 節以降の部分です。
テモテは、パウロの第二回伝道旅行の途上からパウロに同行し(使徒16・3)、 後々に至るまでパウロの協力者となった人です。パウロが彼をどれほど信頼して いたかは、他の手紙に彼の名がしばしば挙げられていることからも分かります。 続くルキオについては、これを福音書記者のルカと同一視する人もいますが、正 確なところはよく分かりません。ヤソンは、使徒言行録17章に同じ名前を見出 すことができます。もし、同じ人物でありますならば、彼はテサロニケにおいて パウロを家に迎えたがために、暴徒に襲われた人であります。次のソシパトロは、 パウロと共に募金を携えてエルサレムに向かったソパテロ(使徒20・2)であ ろうと言われます。続いて、この手紙を筆記しているテルティオが、挨拶を書き 加えています。
23節のガイオはコリントに宛てた手紙の中に、パウロが洗礼を授けた人とし て出てきます(1コリント1・14)。コリントにある彼の家が集会の場となっ ていたようです。恐らくパウロも彼の家に宿泊していたのでしょう。最後に、市 の要職に着いていたエラストとその兄弟クアルトからの挨拶をもって締めくくっ ています。
●警戒しなさい
さて、そのようにパウロと同労者たちの挨拶の言葉が記されておりますが、そ の間に割り込むかのように17節以下の勧めの言葉が記されています。非常に厳 しい口調で書かれています。その前後との調和を欠いているようにも思われます。 なぜ、パウロはこのような激しい文章を、唐突にもここに書き加えたのでしょう か。
そこで私たちはもう一度その直前に書かれていたことを振り返る必要があろう かと思います。そこにはこう書かれておりました。「あなたがたも、聖なる口づ けによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたに よろしくと言っています」(16・16)。
パウロは、ローマの教会を思い描きながら、これを口述筆記しているに違いあ りません。そこではユダヤ人と異邦人が、聖なる口づけによって互いに挨拶を交 わしている。富める者も貧しい者も、主人も奴隷も、共に聖なる口づけによって 互いに挨拶を交わしている。その姿を思い描きながら、喜びをもってこれを語っ ているのでしょう。まさに彼らが一つとなって、共に生きていることこそが、キ リストに結ばれて新しい命に生きる教会の姿であり、神の国のしるしであるから です。
しかし、彼は単なるお目出度い楽観主義者ではありません。聖なる口づけによ って互いに挨拶を交わすという関係がそのまま自動的に保たれるとは思っていな いのです。教会の交わりが、神の霊による神の御業であるならば、その御業を破 壊しようとする悪しき力が働くということをも知っているのです。それは現実に 交わりを破壊するサタンの力です。ですから、そこには平和と同時に闘いがあり ます。その闘いを、ローマの教会はまだ本格的には経験していません。しかし、 その危機が訪れる時が来ることを、パウロは予感しているのです。なぜなら、既 にその闘いを経験している多くの教会があるからです。
コリントの教会もその一つでした。パウロはこの手紙をコリントから書き送っ ています。コリントの教会はどのような教会だったのでしょうか。私たちは、そ の様子を聖書の中に残されている、コリントの信徒に宛てた二つの手紙から知る ことができます。それは非常に豊かな霊の賜物が与えられていた教会でした。他 のどの教会よりも活動的な教会でありました。しかし、その教会に宛てたパウロ の手紙は何と悲しみと嘆きに満ちていることでしょうか。そこには分裂がありま した。混乱がありました。性的な不道徳がありました。パウロに対するあからさ まな批判もありました。それらすべての根本にあったのは、人々の人間性の問題 ではありませんでした。問題は誤った福音の理解にあったのです。まさに「学ん だ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々」がいたのです。
パウロがローマの信徒への手紙を書いている時点で、それらすべての問題が解 決していたとは思われません。彼は、コリントの教会について、なお多くの痛み を覚えていたことでしょう。ですから、ローマの教会の今後を思いつつ、パウロ はどうしても書き加えざるを得なかったのです。現実の痛みの中から書き送るの ですから、口調はどうしても激しくならざるを得ません。彼は叫ぶのです、「警 戒せよ!」と。
●不和やつまずきをもたらす人々
17節以下をもう一度お読みしましょう。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。 あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさ い。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリスト に仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉に よって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られてい ます。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさ とく、悪には疎くあることを望みます」(17‐19節)。
「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々」とは、 実際にはどのような人々を指しているのでしょうか。ここには具体的には記され ておりません。しかし、パウロの書いた他の手紙を読みますと、彼の念頭にあっ たのは、主にグノーシス主義的な無律法主義者かユダヤ主義的な律法主義者のど ちらか、あるいは両方であったろうと思われます。
グノーシス主義的な無律法主義者たちは、彼のいるコリントの教会において混 乱をもたらした人々でありました。彼らは自らの霊的な体験を誇示し、特別な知 識(グノーシス)を得ている「完全な者」であり、完全な自由を得ている者であ ると主張しました。多くの人々が彼らに惹かれていきました。その結果、職制や 集会の秩序は失われました。驕り高ぶって支配する者が出現する一方で弱い者は 踏みにじられるようになりました。そしてさらに、誤った自由の主張によって性 的な放縦による混乱がもたらされました。このように一見霊的に見える教会は、 実は内部から崩壊の危機にあったのです。
そして、もう一方にはユダヤ主義的な律法主義者たちがおりました。彼らのゆ えに初期の教会がどれほど混乱し、パウロがどれほど苦悩したかは、ガラテヤの 信徒への手紙を読みますとよく分かります。彼らは、ガラテヤの教会からパウロ が去った後にやって来ました。そして、異邦人キリスト者に対し、ユダヤ人のよ うに割礼を受け、モーセの律法を遵守しなければ救われないと主張したのです。 この誤った福音理解は教会に深刻な分裂を生じさせるに至りました。
無律法主義者と律法主義者。それはまったく正反対に見えます。しかし、そこ には共通点がありました。パウロの言葉によれば、それは「キリストに仕えない で、自分の腹に仕えている」ということです。「自分の腹に仕えている」とは 「自分の欲望に仕えている」ということに他なりません。
グノーシス主義的な無律法主義者たちが「自分の欲望に仕えている」というこ とは容易に理解できるでしょう。一方において、非日常的な神秘的な経験や恍惚 の体験を欲する欲求があります。超自然的な力や特別な知識を持つことを欲しま す。そして、そのような欲求は、他方にある放縦な生活をもたらす抑制されない 性的欲求と決して無関係ではありません。根は同じなのです。現代においても、 神秘主義的熱狂のあるところには、しばしば性的なスキャンダルが伴います。そ れは偶然ではありません。究極的には「自分の腹に仕えている」のであって、キ リストに仕えているのではないからそのようなことが起こるのです。
しかし、律法主義者が「自分の腹に仕えている」というのは、必ずしも分かり 易くありません。律法主義に伴っているのはむしろ禁欲ではないかと思うからで す。ところが、よく考えてみますと、人間の敬虔さや禁欲的行為は必ずしも人間 の欲望と無関係ではないのです。それはしばしば禁欲に伴う「自分の誇り」を求 める欲求の現れでしかないからです。律法を守ることによって救いを得る。それ は真面目な努力であるに違いありません。しかし、それは「救いを獲得するほど 律法を守っている私である」という誇りを確保したいだけなのかも知れないので す。もしそうであるならば、それはキリストに仕えているのではありません。実 は、自分の腹に仕えているのです。それはもしかしたら、今日の多くの真面目な 敬虔なキリスト者の内にもあることかも知れません。欲しいのは、真面目な敬虔 なキリスト者であるという自分の評価や他人の評価、それに伴う自己の誇りでし かないのであって、キリストに仕えることは欲していないかも知れないのです。
●サタンとの闘い
パウロは、そのように「キリストに仕えるのでなく、自分の腹に仕える」こと へと導く教えの脅威を知っています。人がそれらに惹かれやすいということを知 っているのです。「自分の腹に仕える」ことを奨励する言葉の方が、耳には心地 よいからです。それは「うまい言葉やへつらいの言葉」として純朴な人々に近づ いてきます。人を福音から引き離し、キリストから引き離し、不和やつまずきを もたらす言葉というのは、明らかにそれと分かる形で近づいてくるわけではあり ません。それはしばしばエデンの園の中央にあった木の実のように「いかにもお いしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆して」(創世記3・6)いるもの です。霊的な満足や充実した信仰生活を約束しているように見えるのです。その ような言葉によって、人は容易に、キリストに仕えるのではなく「自分の腹に仕 える」者とされてしまうのです。
だから警戒しなさい、とパウロは語るのです。警戒するためには、教会が伝え てきた福音が何であるかをしっかりと知らなくてはなりません。「あなたがたの 学んだ教えに反して」いるものを警戒するためには、その前に教えを学んでいな ければなりません。真理に堅く立たねばなりません。パウロはまさにそのために こそ、このローマの信徒への手紙において、何が福音であるかを詳細に論じてき たのです。私たちが約二年近くもかけて、これを共に読んできましたのも、その ためです。そして、なお今までのようにこれからも、繰り返し福音の言葉を聞き 続けるのは、私たちが本当に福音の真理を知り、福音に生きるためなのです。そ のように福音の真理に生き続ける教会となるためなのであります。
しかし、そのような営みは、しばしば非常に地味なものと映るかも知れません。 福音を正しく理解しようとする努力は、必ずしも目に見える大きな変化、強烈な 体験、胸躍らせるような興奮を常に伴うものではないでしょう。しかし、そのよ うな地味な営みこそ、サタンとの闘いにおいては重要な意味を持つのです。私た ちはそのことにおいて、人々を福音の真理から引き離し、不和とつまずきとをも たらし、教会を破壊しに来るサタンと闘うのです。そして、この闘いは終わりの 日まで続きます。いや、本当の闘いはこれからなのかも知れません。しかし、悲 壮感に駆られる必要はありません。既に神はキリストにおいてサタンに勝利して おられます。それゆえパウロはこう言ってローマの教会を励ましているのです。 「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるで しょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(20 節)私たちもまた、この約束を信じて、闘い続けるのであります。
●まことの賛美を捧げるために
そして、最後に至って、この手紙は、賛美の言葉をもって締めくくられます。 日本語ではそうなっていませんが、これは本来全体が27節の「知恵ある唯一の 神」にかかる、長い一つの賛美の言葉なのです。この賛美こそ、まことにこの手 紙の最後に相応しいと言えるでしょう。
すべてはこの神賛美へと向かっていたのでした。しかし、これまでローマの信 徒への手紙を読み続けてきた私たちには分かります。賛美は、ただ私たちの言葉 や美しい歌声によって捧げるものではない、ということを。私たちの捧げ得る賛 美は、神が与えてくださった福音により新しい命に生きる私たちの生そのものな のです。そして、その新しい命に生かされて、一つとされている教会の現実その ものなのです。まさに福音によって与えられた喜ばしき「信仰による従順」その ものなのです。その賛美を、これからも私たちは捧げていきたい。そのような思 いを込めて、最後にこの賛美の言葉を声を合わせて共に読み上げたいと思います。
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あ なたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠され ていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の 神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、 すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス ・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」