「互いに愛し合いなさい」
1999年9月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 松原 茂牧師説教
聖書 1ヨハネ3・11‐18
「互いに愛し合うこと」(11)の「互いに」は、「だから兄弟たち、世があ なたがたを憎んでも」(13)の、「世から憎まれる存在としておかれている兄 弟たち互いに」のことであります。互いに愛し合うことは当然のように思われま すが、なぜ互いに愛し合いなさいと、あらためてここにヨハネは強調しているの でありましょうか。ヨハネの手紙を読んでおりますと、大変物騒な言葉がたくさ ん飛び交っていることに気づきます。たとえば、「兄弟たちを憎む者」(2・9)、 「反キリスト」(2・18)、「罪を犯すもの」また「悪魔」(3・8)、「兄 弟を愛さない者」(3・15)等です。
「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからで す」。キリストの弟子になった者は初めから「互いに愛し合うこと」の教えを聞 いて実行していました。しかし、「悪魔は初めから罪を犯していました」(3・ 8)。
悪い者といえば大変残念なことですがカインの名が挙げられます。「カインの ようになってはなりません。彼は悪い者に属していて、兄弟を殺しました。なぜ 殺したのか、自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」(3・12)。 カイン(創世紀4・8)は自己本位の考え方、行いをする人でした。彼は神を 愛さず兄弟を愛しませんでした。
カインが弟を殺した理由は、兄弟が悪かったからではなく、「自分の行いが悪 かった」からであります。悪い者は正しい者を愛することをしません。彼の心の 中には、ねたみや憎しみがありました。祭司や学者たちが、イエスを処刑したの も同じ理由からであります(ヨハネ3・19‐20、7・7)。
10節に「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」とあります。人間 は神の子であるか悪魔の子であるかのどちらかであります。人間はどちらかに属 していて中間的な人間はおりません。
主イエスが再びおいでになる時「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをよ り分け、羊を右に山羊を左に置きます」(マタイ25・31‐32)。今は羊と 山羊が混じっております。羊でもない、山羊でもない中間的なものは聖書にはし るされていません。神の御目には羊と山羊とは明らかであります。
ひとつの畑に蒔かれた良い種と毒麦の譬(マタイ13・24‐30)でも、湖 の魚を集める網の譬(マタイ13・47‐50)でも、審判者の目には羊でも山 羊でもないもの、良い麦でも毒麦でもないもの、良い魚でも悪い魚でもないどっ ちつかずのものはないのです。ヨハネはこの真理を3章10節で語っています。
「だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません」(3 ・13)。 イエスは、「世に属する人たちが、あなたがたを憎むなら、あなた がたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15・18)と話さ れています。イエスは天の父に次のように祈られました。「私は彼らに御言葉を 伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないからです」 (ヨハネ17・14)。ヨハネは「驚くことはありません」すなわち「驚く、す なわち不思議に思うことはありません」と言っているのです。「キリスト・イエ スに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3・ 12)、(Ⅰペトロ4・12‐19)。憎悪は、神から生れた人間に敵対して逆 らわずにおれない、この世の本質に属しているのです。
「わたしたちは、自分が死から命へ移ったことを知っています。兄弟を愛して いるからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」(3・14)。 2章10節には「兄弟を愛する人は、光の中におりつまずくことがありません 」とあります。兄弟を愛する者は、イエスの言葉を聞く者であります。イエスを 遣わされた方を信じて、永遠の命の約束にあずかり、そして、光の中にとどまり、 死から命に移されていることを知っていて、そのことを喜ぶのであります。
世の憎悪の最も深い理由は、この世の子らがまだ死の支配圏にある(「愛する ことのない者は、死にとどまったままです」)のに、キリストにある者は、死の 国から命の国に歩みを移していることにあるのです。
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。すべて人殺しには永遠の命がとどまってい ません」(3・15)。 兄弟を憎み続ける者は、原則的に「人殺し」です。人 殺しの本質は憎しみであります。兄弟を憎む者は最も恐るべき罪を犯しているの です。というのも、憎むのは殺人と同罪だからであります。愛を行わない者は人 殺しであります。「人殺しで、その中に永遠の命のあり続けた者は一人もいない のです」。「殺人者はいまだかって永遠の命を持ったことがない」ということだ けをヨハネは言い表したいのであります。「しかし、わたしは言っておく。兄弟 に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に 引き渡され、『愚か者』と言う者は、炎の地獄に投げ込まれる」(マタイ5・2 2)。
「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たした いと思っています。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしてい ません。彼の内には真理がないからです。悪魔が偽りを言う時は、その本性から 言っています。自分が偽り者であり、その父だからであります」(ヨハネ8・4 4‐45)。悪魔はカインがアベルを殺した最初の殺人(創世紀4・8)の張本 人です。その悪魔の子どもである彼らが神から遣わされたイエスの語る真理に従 わなかったのは、当然であります。
ガラテヤ5章19‐21節および黙示録21章8節には肉の行いをする者は神 の国を相続することはありません。また兄弟を憎む者はみな人殺しです。心の中 に憎しみのある者は人殺しをする可能性を潜在的に持っていることがしるされて います。そして「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、偶像を 拝む者は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」と書かれ ています。すなわち、人を憎む者、人殺しには永遠の命がとどまっていないので す。
「イエスは、わたしたちのために命を捨てて下さいました。そのことによって、 わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべ きです」(3・16)。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな 愛はありません」(ヨハネ15・13)。イエスは良い羊飼いです。彼は羊のた めに命を捨てられました。(ヨハネ10・11参照)。
イエスの絶大な愛を知ったパウロは語っています。「主イエスが人間の姿で現 れ、へりくだって十字架の死に至るまで神に従順」でいらっしゃったことを。そ して自分も、愛する人たちのために次のように語っています。「更に信仰に基づ いてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が洗われると しても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」(フィリピ2・1 7)と。
また、愛する者のためにパウロは次のように語っています。「わたしはあなた がたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分も命さ え喜んで与えたいと願ったほどです」(Ⅰテサロニケ2・8)と。憎しみは悪い 自分をかばい、正しい兄弟を殺します。しかし、愛は、正しくない者のためにも 命を捨てます。ヨハネの手紙は、カインの中に憎悪の何たるかを、他方、キリス トの中に愛の何たるかを見させてくれるのであります。
「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれ ば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(3・17)。 あなたたちのいのちを維持するのに必要な生活必需品や日用雑貨類などを持って いるにもかかわらず、兄弟や姉妹のだれかが、着物がなく、毎日の食物にも事欠 いているようなときに、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きな さい。暖かになりなさい、十分に食べなさい」(ヤコブ2・15‐16)と言っ て、その人たちのからだに必要としているものを与えないなら、そして、その人 たちに同情しないなら、あなたが持っている世の富は何の役に立つでしょうか。
「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもい るならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、 彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」(申命記15 ・7‐8)。
わたしたちの先輩諸兄姉は、多くの人の命を豊かなものにするために、御自身 の命を喜んでささげた方に見ならって、祝福された信仰の歩みを続けて来られま した。しかし、優しい、愛情のこもった態度で兄弟を愛することは、いかに困難 なことであるか、イエスは「良きサマリア人」の譬でお話になっておられます。
人間の利己心のゆえに、あわれみの心を働かせるのを抑えてしまいます。他の 人に対して何の施しも与えないこの無情な振舞いは、その人の心に神の愛が宿っ ていない証拠なのです。ヨハネがここで言っているのは、イエスが弟子たちに要 求しているような一般的な愛(ルカ10・30‐37参照)ではありません。ヨ ハネはこの手紙の中で、ただキリスト教団のことだけを取り上げて書いているか らであります。
「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽り者で す。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することは出来ません 」(4・20)。
「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3・ 18)。 キリストはわたしたちの全人格を愛してくださいました。御子キリス トの愛と恵みによって父なる神との交わりに入れられているわたしたちですから、 わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきであります。言葉や口先だけでなく、 行いをもって誠実に愛し合うべきです。誠実な愛をもって兄弟を愛するならば、 わたしたちは神から生まれた、神の子であることの証拠であるのです。 ヨハネは、けっしてわたしたちが兄弟を愛することによって神の子とせられた のであると言っていません。それは、ただ神のキリストにある、一方的な恵みな のであります。
今日は、ヨハネの手紙を通して、「互いに愛しなさい」について学んでいます。 わたしたちは聖日ごとに、ローマの信徒への手紙を学んできました。パウロは愛 について次のように書いています。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもっ て互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、 霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈 りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてな すよう努めなさい。あなたがたを迫害するもののために祝福を祈りなさい。祝福 を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き なさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」 (ローマ12・9‐16)。
すばらしいパウロのメッセージを噛みしめたいと思います。愛は単なる感情や ことばではありません。それは常に真実であり、実際的な行動を取るものであり ます。麗々しい言葉で愛するのであってはならないのです。そのような愛は空虚 で無内容であります。キリストの愛のように、行いとなって働く愛でなければな らないとヨハネは語っています。ヨハネは愛の行いを欠く異端の教師に気をつけ るようにとの思いを込めて語っているのでしょう。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによ って、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨 てるべきです」(3・16)。ここに今日のメッセージの結論を見いだすのであ ります。
今日のメッセージの中でわたしたちが注意しなければならないことがあります。 それは、わたしたちが兄弟を愛することが、わたしたちが神から生まれると言う ことの根拠である。わたしたちが兄弟を愛することによって神から生まれる、神 の子とされると言うことではありません。神がキリストの御いさおしのゆえに、 一方的な神の恵みによって神の子とされ、キリストにあって神との交わりのうち に入れられるのであります。間違ってあるキリスト者たちが兄弟愛の実践が福音 であり、わたしたちの救いであるかのように主張しています。注意が必要です。
わたしたちの救いは、キリスト・イエスによる神の一方的な価なしの恵みによ るのであります。
わたしたちは今日の御言葉から、どれほど遠い存在のものであるでしょうか、 兄弟を愛することの難しいことであるかを痛感いたします。わたしたちが兄弟を 愛するのは聖霊のお導き以外の何ものでもありません。「子たちよ、言葉や口先 だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3・18)。