「天の国のたとえ」                          マタイ22・1‐14  「イエス様は、たとえ話を用いて、人々に分かり易くお話しされた」。時々、 そのように言う人がいます。たいていは、聖書をちゃんと読んだことのない人で す。実際に、主のたとえ話の一つ一つ読んでみますと、決して分かり易い話では ありません。いや、むしろ私たちの常識から考えると、とても受け入れられない ような異常な話が多いのです。思わず、「そんな馬鹿な!」と言いたくなるよう な話です。それは二千年ほど前に語られた言葉だからではありません。当時の人 も恐らくそう思ったはずです。今日のたとえ話もそうです。私たちは、まずその 異常さにしっかりと目を向けなくてはなりません。その上で、さらにその中に私 たち自身の身を置いてこそ、主が意図したことが見えてくるのです。 ●異常な人々と異常な王  では、この物語の異常さはどこにあるのでしょうか。「そこで、王は怒り、軍 隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(7節)という言 葉が心に引っかかった人もあるかも知れません。確かに、随分物騒なことが書か れています。あるいは、13節の王の言葉に抵抗を覚えた人もいるでしょう。 「王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。 そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」(13節)。このような、厳しい言 葉を読みますと、「こんなことをイエス様がお話しになるはずがない」などと思 う人もいるものです。  しかし、事の善し悪しは別として、この世の常識から言いますならば、この王 のしていることは、決して異常なことではありません。いくらでも起こり得るこ とです。私たちの間でさえ、自分が侮辱を受けたら腹を立てるではありませんか。 もし、どこかの国の専制君主が同じような侮辱を受けたら、これに近いことは起 こるだろうと思うのです。このように、この物語に見るべき異常さは、王の厳し さではないのです。  この場面をよく見てみましょう。そこにまず出てくるのは「招いておいた人々 」です。彼らは王子のための婚宴に招かれました。それは王にとっても王子にと っても大きな意味を持つ宴でありました。王は人々をそこに招いて喜びを共にし たいと願ったのです。当時の習慣に従い、王は当日改めて「招いておいた人々」 のもとに家来を遣わしました。しかし、なんと彼らは「来ようとしなかった」の です。このようなことは、当時の世界において、どう考えてもあり得ないことで あったに違いありません。まずここに異常なほど無礼な人々が描かれているので す。  しかし、それ以上に不可解なことがあります。その後の王の行動です。いった いどこの国の王が、そのような無礼な人々に、なおも使いを送ったりするでしょ うか。しかも、この王は家来を遣わすに当たって、丁寧な招きの言葉まで用意す るのです。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意 ができています。さあ、婚宴においでください」。これが王の言葉でしょうか。 まさにここには異常な王の姿があるのです。  すると、人々はそれに対してさらに異常な行動を取ります。「人々はそれを無 視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」るのです。あたかも、王子の婚宴より も、畑の野菜の方が大事であるかのようにです。しかも、その後に驚くべき言葉 が続きます。「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまっ た」(6節)。そのようなことがいったいあり得るのでしょうか。  この状況を考えるならば、王が怒ったこと自体、驚くに価することではありま せん。むしろ、驚くべきはその後の王の命令です。王は家来たちにこう命じるの です。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」(8 ‐9節)。  いくら婚宴の席が空いているからと言って、「見かけた者はだれでも連れてき なさい」は非常識でしょう。家来たちも家来たちです。いくら王にそう言われた からと言って、「善人も悪人も皆集めて来た」は行き過ぎではないでしょうか。 せめて「善人」だけにすればよいものを。まさに異常な王と共に異常な家来がこ こにいるのです。  そして、最後が極めつけです。そこに「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた 」と書かれています。この物語の流れとしては、礼服を持っていない人の存在は 前提とされていません。それゆえ、この礼服は彼らの持ち物ではなくて、平等に 婚礼の主催者側から提供されるものである、などと古くから説明されてきました。 王子の婚宴であるのですから、十分に考えられることです。いずれにせよ、ポイ ントは、彼が婚礼の礼服を着られなかったのではなくて、あえて着なかったとこ ろにあります。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」という 問いに対するこの人の沈黙から、そのことが分かります。  その人はもともと招かれてはいなかった人でした。特別な仕方で、彼は招待さ れたのです。本来はいなかったはずの者がそこにいるのです。それはただ王の好 意による奇跡でありました。しかし、その人は、あたかも「来てやったぞ」と言 わんばかりに、王にも王子にも敬意を払うことなく、普段着のままそこに座って いたのです。こんなことがあり得るでしょうか。まさに異様な光景です。もっと も、今日のように価値観が多様になっている世界なら、十分あり得ることかも知 れません。しかし、少なくとも、当時の、王と国民が一体であるような世界の人 人がこれを聞いたら、「そんな失礼な人がどこにいるか」と当然思うことでしょ う。むしろ、何の偏見もなくこの物語を聞く人ならば、その後にこの人が外にほ うり出されることこそ正常な結末であると受けとめるに違いありません。 ●異常さの意味すること  さて、このような異常な物語はいったい何を意味しているのでしょうか。そこ で私たちは冒頭に戻り、主の言葉に即してご一緒に考えていきたいと思います。  主のたとえ話は次の言葉で始まります。「天の国は、ある王が王子のために婚 宴を催したのに似ている」(2節)。この物語は、天の国のたとえです。それは 終末における神の国、神と人との交わりが完成した世界を表す物語です。それが 婚宴にたとえられています。婚宴というのは皆が喜びを共有する場です。神の国 は、そのような「喜び」によって特徴づけられるものとして表現されているので す。神は、人との交わりにおいて、喜びを共にすることを願っておられる、とい うことです。神は喜びを共にする交わりへと、人を招いておられるのです。  そこでこの婚宴に招かれた人々の姿に注目してみましょう。そこに見るのは、 招かれていながら来ない人々です。うっかり忘れていたのではありません。あえ て来ようとしないのです。  来ようとしない人々は、二通りに描かれております。最初の人たちは、「無視 した」人々です。一人は畑に、一人は商売に出かけました。確かに畑仕事も大事 です。商売も大事でしょう。しかし、王の招待を無視してそちらに向かうとした ら、それは明らかに異常な行動と言わざるを得ないでしょう。私たちはこれを聞 いて、「私ならこんなことはしない」と言うかも知れません。しかし、人間は神 に対して、これと同じような異常なことをしているのだ、と主は言われるのです。 目の前のことに振り回され、目に見える現実に踊らされ、本当に重要なこと、永 遠の価値を持つものは何であるかを考えようとしないのです。そして、目先の満 足は得るかも知れませんが、神との交わりにある永遠の喜びを無にしてしまうの です。  次の人たちは、あからさまに反抗する人々です。「他の人々は王の家来たちを 捕まえて乱暴し、殺してしまった」(6節)。婚宴への招きの言葉を持ってきた 者を、何も殺すことはないではありませんか。どうして憎む必要がありましょう。 しかし、自分の上に王がいることを好まない人は、王を愛することができません。 王の招きを好みません。自分が中心であることを望む人は、王子が中心である宴 への招きを好みません。その場合、王のもとへの招き、祝宴への招きは、むしろ 憎しみを呼び起こします。まさに王の招待に対するこの理不尽な異常なほどの敵 意もまた、神に対する人間の姿であることを、主は語っておられるのであります。  さて、このたとえ話の本来の文脈におきましては、「招いておいた人々」は明 らかにユダヤ人を指し示しております。私たちは、旧約聖書に見るイスラエルの 人々の中に、このたとえ話に語られているような人間の罪を見るのであります。 事実、神に立ち帰ることを呼び掛けた預言者たちを、彼らは憎み、迫害し、殺し てきたのでした。そして、これを語っている主イエスもまた、憎まれ、殺される のであります。  しかし、私たちはそのようなユダヤ人の歴史の中に、ただ人間の罪を見るだけ ではありません。その歴史を貫いている、もう一つの主題があります。それは神 の熱情です。それがこの物語に描かれている王の異常な姿なのです。この物語の 表現を用いるならば、それは何としてでも祝宴を実現しようとする神の熱情であ ります。  神は彼らを招かれました。しかし、彼らは来ようとしません。この来ようとし ない招待客を、なおも神は招き続けられるのです。忍耐をもって招き続けるので す。私たちはそのような神の姿を旧約聖書の中に見ることができます。神は繰り 返し預言者を遣わされるのです。神は繰り返し語られるのです。そして、最終的 には御子をお遣わしになられ、御子を通して語られるのであります。  しかし、この神の呼びかけにもかかわらず、イスラエルは立ち帰りませんでし た。先に招かれていた人々は、呼びかけに応えようとはしませんでした。しかし、 祝宴を実現しようとする神の熱情はとどまるところを知りません。神はあくまで も人との交わりを完成させ、喜びを共にすることを願われるのです。人間の拒絶 や反抗は、この神の願いを挫折させることはできません。王は叫ぶのです。「見 かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい!」  神の招きの言葉はユダヤ人たちの内に留まりませんでした。ユダヤ人たちの反 抗をもって終わってしまいませんでした。福音は、王の号令と共に外に飛び出し たのです。全世界に向かって飛び出したのです。歴史的に見るならば、これは初 代教会において始まった異邦人伝道です。こうして、王から遣わされた家来たち は、異邦人である私たちのもとにやってきました。町の大通りをぶらぶらしてい た悪人である私たちのもとにまで、招待の言葉が届けられたのです。  しかし、私たちは王子の祝宴に列席できることを当然のことと考えてはなりま せん。神との交わりに生き、神と喜びを共にしながら生きることを当然のことの ように考えてはなりません。あたかも「私は来てやったぞ」というような顔をし て列席することはできません。これは王による、特別な恵みに他ならないからで す。それは先に招待されていた人々についても、後から集められた人々について も同じです。神の招きそのものが、特別な神の恵みから出たものだからです。  ですから、私たちは礼服を着て王の前に出るべきなのです。王も私たちが礼服 を着て御前に座ることを求められます。私たちの着るべき礼服とは何でしょうか。 私たちの為しえる少しばかりの善行でしょうか。ではそれを着てみましょう。見 てください。あちらこちらに穴があいているではありませんか。綻びているでは ありませんか。自分では立派な服だと思っていても、神の祝宴の明るいライトの 下で見るならば、染みだらけ皺だらけ、よれよれぼろぼろの古着のようではあり ませんか。王の喜ばれる礼服、それは罪の染みのない、完全なものでなくてはな らないのです。  そのような礼服はキリスト以外にはありません。このたとえ話が置かれている 場面は、主が十字架と復活の出来事の直前であります。私たちの罪を贖い、私た ちを神との交わりの中に座らせるまことの礼服となるために、主は十字架へと向 かわれたのであります。礼服を着るように、この方と一つとなり、この方の死と 復活の命にあずかって、私たちは祝宴に列席するのです。キリストから離れ、自 分のぼろを纏って座っていてはなりません。何が王の期待しておられることかを 考えず、自分のしたいような仕方で王の前に出るならば、王は尋ねられることで しょう。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。その結末は、 外の闇に他なりません。それゆえ主は言われるのです。「招かれる人は多いが、 選ばれる人は少ない」。  さて、このたとえ話を最後まで読んできまして、「いったい招かれる人とは誰 なのか。選ばれる人は誰なのか。選ばれていない人とは誰なのか」と、心の中で 問答している人は、まだこのたとえの中に自分の身を置いていない人です。外か ら眺めている人です。このたとえの中に身を置く人ならば、十字架に向かいつつ ある主の心の叫びが聞こえてくるはずです。「あなたは神の招きを無にしてはな らない。あなたは暗闇の中にほうり出される人になってはならない。神との交わ りの祝宴で、神と喜びを共にする者であって欲しいのだ。今、あなたはこの言葉 を聞いているのだから」と。